1-1. 満開の桜の樹のしたに
満開の桜の樹のしたにその女性が佇んでいた。
散り始めた花びらがほんの引き立て役としか感じられないほど、遠目にもそのひとの綺麗さがわかった。その姿を見かけたとき、それまでブルーだった僕の気分が一気に塗り変わるのを感じたんだ――どうしてかはわからないけど。
ちなみに僕の憂鬱の理由はあまり高尚なものじゃなかった。今月の給料日を前に、もともとたいした金額ではなかった給与の一部カットが通達されたからだ。ああ――。でも、会社の現状からすればそれも仕方ないってトコだろう。リーマンショックとかいうアメリカのなんだかわからないヤツのせいで、僕を含め、同僚たちの多くは派遣先から戻されて来ちゃったし、まだ戻されていない奴らも今月末で終わりと聞いている。
そんなこんなで勤労意欲をなくし、今日は有給休暇をとった――ま、会社に行ったところで当然、なんも仕事なんてないのだけど。
家にいても気分が滅入るだけなんで、気晴らしにマンガでもと駅前の本屋に行こうと思った。行く道の途中にある公園に一本だけある桜の花がちょうど満開で、思わず僕は目を惹きつけられた。そして、その樹のしたに、そのひとがいたんだ。
なにを期待して、というわけではないけれど、僕は公園に足を踏み入れた。いわば、少しでも近くでそのひとを眺めたい、という純粋なる耽美の心で。桜の花を見上げながらゆっくりと歩いた。さすがにそのひとをジロジロと見ながらってわけにはいかないだろ。
その大きな樹のいちばん長い枝先のちょうど真下あたりまで来たとき、女性が僕に気づいてこちらを見たのがわかった。でも僕は、あくまで桜を観てるんですよ、ってポーズを崩さずにいた。
花びらが一枚、はらりと僕の前に落ちてきた。
「お久しぶりですね」
唐突に女性がそう口にした。そのセリフは僕に向けられたものだと感じたけど、いやそんなハズがないだろうと思って僕はチラッとまわりに視線を投げた。近くには他に誰もいない。間違いなくその声は僕に対してのものだった。
そのひとに顔を向けた。真っ直ぐに目が合った。黒い瞳――神秘的な。
ものすごい美人だった、遠目に見て感じた以上に。もちろん僕の知り合いなんかじゃない。一度だって会ったことはない。あるとしたら絶対に忘れるワケがないじゃないか、これだけ綺麗なひとのことを。でも同時になぜか僕はそのひとに懐かしさのようなものを感じてもいたんだ。あるいは小学生の頃のクラスメイトが成長してこんな美人に変わった、とか? けど僕の出身は関西なのだ、この首都近郊の地で昔の同級生にばったり出くわすなんていう可能性は限りなく低い。
僕は困惑し、返す言葉を探した。
「思い出せなくても仕方ありません。遠い昔のことですから」
彼女はそう続けた。遠い昔という言葉に僕は違和感を覚えた。そんな言葉が似合うような年齢じゃないだろ、彼女。女性の年齢を推し当てるのは得意じゃないけどさ、どう見ても二十台半ばの僕よりか若い。
気を取り直して僕は口を開いた。ストレートに尋ねてみた。
「ごめん、どこで会ったんだっけ」
僕を見る目を少し細めるようにして、彼女はこう答えた。
「互いのことを思い出すまで、なにも教えないのがルール。それが私たちの約束」
僕の困惑に拍車がかかった。このひとは僕を誰かと勘違いしてるんじゃなかろうか? そうか、そうに違いない――。
左手をアゴにあてた。
人違いでしょ、と指摘すべきか。でも、そしたら話はそこで終わってしまう。こんな美人と喋るチャンスなんて人生でそうそうあるもんじゃない――。
「そおかぁ。じゃ、なんとしてでも思い出さなきゃ。なにかヒントとかないのかな」
彼女の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「ヒントは必要ない。そのときになればあなたは思い出してくれるから」
んー、意味不明。もしかして、からかわれているのか? 下心を見透かされてしまったってヤツ?
「どゆこと? よおわからへんな」
つい口から方言が出てしまって、しまった、と思ったけども、そんな僕には反応せずに彼女は体の向きを変え、桜を見あげる格好に戻った。他にどうするすべもなく、僕も同じように満開の花に視線を向けた。
そのとき、ふと僕は既視感を覚えたんだ――以前にもこうして二人で黙って桜を見あげていたような、そんな存在するはずのない記憶にとらわれた。
風が少し吹いて、花びらがひとつ、ふたつと散ってくる。
そのまましばらく僕らは花を眺めていた。
時間が止まったかのようだった、舞う花びらだけをのぞいて。




