2-8. 呪い
播木が再び斎藤のもとを訪れたのは一週間の後である。資料の持ち出し期限を斎藤がそう定めたからだ。
段ボール五箱(それでも全てではなかった)の荷物を運ぶには1.3リッターではパワー不足という前回の反省を踏まえ、今回、播木はSUVをレンタルし、軽井沢までの道のりをドライブしてきた。
「全部目を通したのかね」
五つの箱すべてを書斎に運び込んだ播木に、斎藤はそう問いかけた。
「いえ、さすがにそれは。ですが持ち出したものはすべてデジタル化させました」
「ほう、業者に出したのか」
「いいえ。我々のなかにそういった作業を専門的に行うチームがあります」
「ふむ……。なるほど君らだと、外には出せない情報も多いだろうからな」
播木はそれには答えず、ひとつ目の段ボールから取り出した書類を棚の元の位置に戻し始めた。なにがどの位置に置かれていたかを彼は特にメモしたりはしていなかったが、彼の記憶力はそれを必要としなかった。斎藤の目には次々に資料が以前のとおりに棚に収められていくように見えた。感心しつつそれを眺めていた斎藤は、しばらくして口を開いた。
「言ったとおりだったろ」
「む、……資料のほとんどには〝彼ら〟に関係する記述が存在しない、という話のことですか?」
手を止めずに播木はそう返した。
「そうだ」
「ええ。確かにそのようでした。おっしゃったとおり、昭和四十年八月以降のノートには〝彼ら〟に関する記述がまったくありません」
「それがわかる程度には読んだのだな」
「もちろんです。少なくとも手書きの取材ノートと手帳にはすべて目を通しました」
左手で数冊の本を抱え、そこから一冊ずつを棚に並べつつ、播木は答えた。テンポ良い片付けの音がそれに続いた。
少し間を置いてから、斎藤は再び播木に問いかけた。
「君にはもちろん……、普通に読めたわけだよな、すべてのノートを」
播木はその手を止めた。小さく息をつき、首を少しひねって斎藤を見やった。
「はい」
斎藤はなにかを言おうと口を開いていたが、そこから言葉はなかなか出てこなかった。だが播木には斎藤の言いたいことはわかっていた。先週にもしつこいくらいに聞かされたことだからである。
「お、俺は、だな。いまだに、あのノートを読むのに多大な苦労を強いられるんだ。読もうとしても、目がそれを拒否する。ページをめくろうにも、指が思いどおりに動かない。い、いまだに、〝彼ら〟の呪いは解けていないのだよ」
播木は表情を変えずにこう返した。
「あなたがたが記憶を奪われるより以前に書かれていた取材ノート、あなたがそれを読むことに困難が伴うことは先週も伺いました。ええ、確かに私はそれらを普通に読むことができました。あなたに掛かっている何らかの精神的ブロックがそのような状況を生み出していると考えるべきでしょう」
呪いなどというものの存在を認められない播木としては当然の返しであった。だがそのセリフをスルーするかのごとくに斎藤は続けた。
「当然、小林も同じだったはずだ。だから、ヤツがあれ以後、彼らについての調査を進めていたわけはないんだ。できなかったはずだ、たとえやろうとしても。いや、やろうとすら思わなかったに違いない」
播木は二つ目の段ボールの箱を開けながら、こう尋ねた。
「斎藤さん――、あなたは退行催眠療法を受けたことはないですか? 失われた記憶が取り戻せるかもしれませんよ。少なくとも、精神的なブロックを和らげる効果は多少なりとも期待できるはず」
退行催眠療法というのはリラックスした一種の催眠状態で過去を辿ることにより記憶を引き出す手法である云々という説明をする必要がなさそうだということは、斎藤の表情を見ればわかった。
「ああ――。それは俺も考えないではなかった。だが、記憶が奪われていたことに確信が得られた頃には、俺はもう〝彼ら〟については一定の納得をしていたんだ、省吾と木下くんのおかげでな」
木下という人物についても播木は先週の時点で聞いていた。斎藤の後輩にあたる毎朝新聞の記者で、NAL37便墜落事故の取材を担当したという。機内にいた父親の遺したメッセージの謎を探ろうとしていた省吾に、斎藤とともに協力した人物だ。
「俺がその取材ノートを読むことができないことに気づいたのは、さらにもっと最近になってからのことだ」
斎藤はそう続けた。
播木は手を動かしつつ、少し考えたあとで口を開いた。
「斎藤さん、もし、退行催眠を受けてみる気が少しでもあるのであれば、私たちがセットアップしますよ。経費はウチが持ちますし、優秀な精神科医に担当させます。おそらくは日本でも指折りの者に」
その申し出には斎藤も多少なりとは心を動かされたようではあった。
「うむ……、そうだな、少し考えさせてくれ」
「ええ」
短く返し、播木は三つ目の箱に取り掛かった。
「木下さんとは連絡を取っていただけたのでしょうか」
前回の訪問時にその人物の話を聞いて、播木はぜひ紹介をしてほしいと斎藤に頼んだのだった。だが木下は現在、シンガポールの支局長を務めているとのことで、電子メールで打診してみようと斎藤は返していた。
「連絡はして、返事もきた。シンガポールまで来てくれれば喜んでお会いしましょうということだったが……、どうかね? それが難しければ彼のほうが日本に帰ってくるタイミングを待つしかないが、当面その予定がないです、と書いてあった」
「なるほど……。ありがとうございました」
シンガポールへの出張も申請すれば許可は下りるだろう、と播木は考えを巡らせた。だが今はまだ機が熟していないようにも思えた。
「後日、再度連絡をとっていただくことになるかもしれません」
そう続けた播木の言葉に斎藤は頷いた。
「ああ、いつでも言ってくれ」
ずいぶんと協力的な態度だな、と播木は思った。隠居した新聞記者という立場の老人からすればこうして調査に関わることができるのが嬉しいのかも知れん――。
そのとき、部屋のドアをノックする音がして、続いて斎藤夫人がトレイを手に入ってきた。そこにはアイスコーヒーのグラスが二つ、載せられていた。
「今日は暑いので、冷たいものをお持ちしましたわ」
機嫌良さげに彼女はそう口にした。ようするに、この老夫婦は客人に飢えているのだろうな、と播木は考えるのだった。




