2-1. 新型インフルエンザって、なぁに?
「えっ」
そんな言葉が僕の口から漏れた。けど、内心では「ああ、やっぱりね」って感じではあった。GWが明けてすぐのオフィスに集められた全社員――つってもほんの二十人ほど――を前に、社長が決定事項を伝えたところだ。会社が今月限りで解散することになったのだと。ま、そうなるかな、という気はしていた。
この会社はITエンジニアリングの業務委託をメインの事業としているが、実態はほぼエンジニアの派遣と言えた。今年に入ってから、契約を打ち切られてオフィスに戻ってくる同僚が徐々に増え、年度が変わったところで、ごく一握りを例外として仕事が全消滅してしまった。それでも会社は営業努力を続けていたようだけども、先々月からの給与カットに続き、今日の発表となったわけだ。三月にオフィスに戻されてから僕は上司とともに短期の受託開発業務を担当していたけど、それも今月いっぱいで終了するところだ。
今回は会社都合となるので失業保険はすぐに出ます、などと社長は話を続けていた。
僕はため息をついた。
リーマンショックなる単語をやたらとニュースで耳にするようになったのは去年のいつ頃だったか。もちろん僕にはなんのことだかわからなかったし、興味もなかった。アメリカの経済問題らしいという程度には理解していたけど、自分には縁もゆかりもないと見ていたのが正直なところだ。相当の月日が経った今頃になってそれが我が身に降りかかってこようとは。
ハローワークってトコに行くことになるのだろうか。どんなところなんだろ。なんか職にあぶれたオジサンたちがウヨウヨしているイメージなんだけど。怖そう。
そんなことを考えているうちに社長の話が終わり、その場は解散となった。
心配なのはトートのことだった。
僕らの奇妙な同棲生活が始まってから一ヶ月半ほどだ。実を言うと彼女と僕の関係は手を握るところから進展していない。寝るときは、彼女がベッド、僕は床に寝袋――友達がキャンプに連れて行ってくれたときに買ったヤツ――だ。当然キスもしていないのだ。なんというか、ある意味、タイミングを逃してしまったのかもしれなかった。けど彼女と一緒にいるというだけで僕は満足だ。本当に僕らは仲良くやっているし、下手なことしてその関係を壊したくはない。それにきっかけさえあれば僕らの関係は先に進むだろうという感触もあった。何も焦ることはないだろう。
だが僕が職を失ってしまうとなると、それを彼女がどう受け止めるか予想のつかないところではあった。
ちなみに彼女自身は本当にまったく働いたことがないとのことだった。お金が必要なときはどうするの、と僕が訊いたら、お金なんて勝手にやってくるものじゃない? という返事だ(そりゃあ、彼女のような超弩級の美人ならそうなのかもしれないけどさ)。そもそも誰かと一緒に暮らしていればお金なんてそんなに要らないし、と。
ということは、もし僕が無一文になったらその瞬間に彼女は別の誰かと暮らすことを選ぶということなのかもしれない。
ああ、それだけは絶対に避けなければ――。
いつものように駅前の弁当屋で夕食を買って帰った。玄関に迎えに出た彼女は、僕の顔を見るなり言った。
「なにかあったみたい」
今月で会社が解散になるという話を僕が伝えると、
「別の仕事を探すのね」
何でもないことのように彼女は言った。
「んー、でもこの不景気だからなあ。そう簡単に就職先が見つかるかどうか……」
そう返すと、彼女は不思議そうな顔で僕を見返した。
「見つかるよ」
彼女の口調は、慰めとかでなく、単なる規定の事実を伝えるかのようだった。
「だといいけど……」
その言葉には反応せず、彼女は弁当をテーブルに広げた。彼女にはいつもの海苔弁当、自分には今日は唐揚げ弁当を買ってきた。とても少食な彼女は、弁当の半分を取り分けて僕の皿に乗せるという毎度の作業に取り掛かった。普段、彼女は昼食も摂っていないようなのだ。お金は渡してあるのだけど、手のつけられていることがほとんどない。
僕は台所からコップをふたつと焼酎の瓶を持ってテーブルについた。まずは彼女のコップに酒を注ぐ。この瞬間の彼女はいつも嬉しそうだ。本当にお酒が好きなのだろう――家では大量に飲むことはしなかったけれど。毎晩の食事の際に飲むのは、日本酒、焼酎、ワイン、梅酒といったもので、以前にはビール系ばかりだった僕も最近は彼女の影響で同じようなものを飲むようになった。休みの日に一緒にディスカウントの酒屋に行って仕入れている。彼女が選ぶものには不思議とハズレがない。
「いただきまーす」
僕は唐揚げを口に放り込んだ。いつものように彼女はまずコップに口をつけた。
二人きりの食事――幸せだ。これ以上に完璧な暮らしがあるだろうか。だが、もしかしたら今に僕はこの暮らしを失ってしまうのかもしれない。果たしてそんなことに耐えられるだろうか――。
彼女の眉根が寄った。
「なんで起こりもしない未来のことを思いわずらうの?」
突然の鋭い指摘に僕はご飯を喉に詰まらせそうになった。少しむせてしまった。二度、三度と咳をして、それから口を開いた。
「あれ、そんなに顔に出てた?」
彼女は無言で頷いた。
「ごめん」
僕は謝った。彼女と暮らしていて、たまにこうして理不尽に怒られるというか、奇妙な(そして図星な)指摘をされることがあるのだけど、僕はとにかく謝ることにしている。
「謝らなくていい。私は不思議に思っただけ。なんで人間はいつもそうなのかな、って」
僕は笑った。
「まるで君は人間じゃないみたいな言い方だね」
「いいから食べて。私は直斗さんが幸せそうにご飯を食べるところを見るのが好きなの」
そう言って彼女は微笑んだ。必然、僕も笑顔になるしかない。
食事を終え、テレビを点けた。彼女は食事の後片付けをし始めた。
彼女はものすごく綺麗好きだ。今やこの部屋は彼女の来る前からは想像がつかないほど整理整頓されている。その一方で彼女は全く料理はしない。そもそも食べるということに興味を持っていないようだ。けれど、毎朝おいしいコーヒーを淹れてくれたりとか、ときにはパンをトーストするくらいのことはしてくれたりもした。
片付けを終えた彼女が隣に来て座った。ウチにはソファなどという気の利いたものはない(そもそもそんなスペースがない)ので、床のクッションに座り、ベッドを背もたれがわりにする、というのがくつろぎのスタイルだ。
途中から見始めたバラエティ番組が終わり、その後に短いニュースが流れた。関西のほうで新型インフルエンザの感染が確認されたという報道に、珍しく彼女は関心を向けた。
「新型インフルエンザって、なぁに?」
「さあ……。風邪の一種なんだろうけど……。鳥インフルとか言ってたヤツとは違うのかな」と僕。
「ふーん……」
彼女とは対照的に僕はそのニュースにまったく興味がなかった。それこそ自分には全然関係のない話だ、と思ったのも束の間、こう口にすることとなった。
「あっ、これ、実家のすぐ近くだわ。アハッ……いや、笑えないけど」
一瞬だけニュースの現場映像に映った光景に見覚えがあった。懐かしい神戸の街。
その光景を目にしたことで、今年のGWには帰省をしなかったことが思い出された。給与カットされた身分でチケット代を捻出するにも苦しかったうえに、トートをひとり残して帰るのは論外にも思え、かと言って彼女を家族に紹介するにはちょっと時期尚早な気もした。そこまでの仲だとはまだ言えないような……。
テレビのリモコンを取り、チャンネルを1に変えた。普段はNHKなんて見ることないけど、彼女が興味をもっているようだし、地元の映像がもっと映らないかなと。おそらくちょうど夜のニュース番組が始まる時間だ。
画面には天気予報が映し出された。黙って画面を眺めていると、トートは僕に寄りかかってきた。チラと見て、彼女の顔もテレビに向けられていることを確かめた。
ニュースが始まった。トップの映像がやはり地元の光景だった。先の民放で流れたヤツとほぼほぼ一緒ではあったが。「おお」と僕は口にした。
「ここ、僕の生まれ育ったとこ」
画面を指さし、僕は彼女にそう言った。
「うん、あなたと私は、そこへ一緒に行くことになるんじゃないかな」
「えっ」
突然のセリフに顔が赤らむのがわかった。心臓がドキドキした。どういうことだろ。つまり彼女は、いずれ一緒に僕の両親に挨拶に行くことになると考えている、としか解釈のしようがなかった。
そんな僕の動揺に関係なくニュースは進んだし、彼女はテレビの画面を見続けていた。
キャスター曰く、神戸市内の海外渡航歴のない高校生が新型インフルエンザに感染したことが確認され、それを受け政府は対策レベルを第一段階から第二段階に引き上げる、と。
続いて解説員とキャスターのやり取りがあった。僕はもう関心を失っていたけど、トートが画面を注視しているのでチャンネルをそのままにした。
この二月に新型インフルの流行がはじまったメキシコではすでに何十人も死亡した、とか、WHOがパンデミックの可能性を示唆している、とか、先月末に警戒水準をフェーズ5に引き上げた、とか。
海の向こうの話だろ、関係ないね、と僕は思ったが、トートは解説を真剣に聞いているようだ。彼女の新たな一面を見た気もした。
一緒に故郷に帰る。そんなつもりが彼女にあると知れたことは嬉しかった。すぐにでもチケットを買いに行きたいところだったが、先立つものがない。金だ。チケット代どころではない。今の貯金の状況だと、せいぜい三ヶ月くらいの生活費にしかならない。それまでに次の仕事を見つけねば。もし貯金が尽きてしまったら――。どうしても思考はそっちの方向に行ってしまい、さっきの喜びも束の間、またしても僕はブルーになってしまった。
急に頬になにかが触れた、と思って見たら、彼女が僕の頬に手を回していたのだった。少しびっくりしたけども、努めてそれを隠しつつ僕は彼女に顔を向けた。まっすぐにこちらを見ている神秘的な黒い目と見つめ合う形になった。
「私がいなくなることが怖いのね」
彼女の美しい唇から声が紡がれた。
「……うん」
またもやの奇妙で鋭い指摘。僕は素直にそれを認める以外のことはできなかった。
「大丈夫。あなたが望まない限り、私はあなたから離れない」
「トート……」
嗚呼、僕がそんなことを望むわけないじゃないか――けど僕はそれを口にすることができなかった。そうする前に彼女の唇が僕の口を塞いだからだ。




