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5話 君を赦して、僕を信じた朝

沈んだ空の下、俺と灰翔の間に吹く風だけが音を立てていた。

 視線を合わせたまま、どちらも言葉を探している。

 もう二度と、こんな風に向き合うことはないと思ってた。


「……久しぶりだな、氷見」

 先に口を開いたのは灰翔だった。

 声が少し掠れている。

 その声を聞いただけで、胸の奥の古傷が痛む。

 でも、不思議と逃げようとは思わなかった。

「この前、唯夏と会ったんだろ。……あいつ、まだお前のこと……」

「言わなくていいよ」

 遮った。

 灰翔は一度うつむいて、小さく息を吐いた。


「俺さ……ずっと言えなかった。あの日、押したのは俺だ。冗談でもなく、本気でもなく……ただ、腹が立ってた。

 何にかって? たぶん、自分だと思う。

 家じゃ兄貴と比べられて、何やっても認められねぇ。

 学校じゃ、お前が黙って努力してるのが気に入らなかった。なんでそんなに静かに、ちゃんと頑張れんだよって……」

 灰翔の拳が震えていた。

 それを見て、胸の奥で何かが音を立ててほどけていくのがわかった。

「それで、お前を突き飛ばした。

 後悔しかなかった。

 救急車のサイレンが鳴った瞬間、俺、終わったと思った。

 夜も眠れねぇ。……何回も謝ろうと思った。けど、どうしても言えなかった。俺が“赦されたい”だけな気がして。」

 

その言葉に、胸が締め付けられた。

 灰翔の中にも、壊れるほどの痛みがあったんだ。

「……赦すとか、そんな簡単に言えることじゃないよ」

そう言いながら、俺はゆっくりと顔を上げた。


 「でもね、もう憎むのも疲れた。

  灰翔があの日、何を抱えてたのか、今やっと分かった気がする。

  俺も弱かった。誰かを責めることでしか、自分を保てなかった。」

 灰翔が顔を上げる。

 目が少し赤い。


 「……氷見、お前……ほんとに、変わったな。」

 少しだけ笑ってみた。

 

「違うよ。変われたんじゃなくて――誰かが変えてくれたんだ。」

 結衣菜の笑顔が頭に浮かぶ。

 あの柔らかい声が、今も背中を押してくれる気がした。

「なぁ、灰翔」

「ん?」

「もう、終わりにしよう。俺たちの中の“あの日”を。」

 灰翔はゆっくり頷いた。

 その瞳の奥に、初めて“人間の顔”が見えた気がした。


 風がまた吹いた。

 冬の冷たさの中に、春の匂いが混ざっていた。


―――


和解したはずなのに、胸の奥はまだざわついていた。

灰翔と別れた帰り道、曇った空の下で深く息を吸う。


――受験。

それは、ずっと見ないふりをしてきた現実だった。

学校に行かなくなってから、廊下の音も、教室の匂いも、全部トゲのように胸に刺さるようになった。

そんな場所で、俺は試験を受けなきゃいけない。

考えただけで、手が汗ばむ。


翌日、集合時間の一時間前。

家の前で立ち尽くしていると、背後から不器用な声がした。

「……動けねぇか。」

振り向くと、灰翔がいた。

目の下に少しクマを作っていたけど、真っ直ぐ俺を見ていた。

「……悪ぃ。また来た。」

「いや……来てくれて、ありがとう。」

たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじんと温かくなった。

灰翔は照れたように頭をかきながら続ける。


「送るよ。お前一人だと……また全部抱え込んで倒れるだろ。」

そんな風に言われて、少し笑いそうになった。

こいつ、変わったな――そう思った。

ふたりで歩き出した、その時だった。


「おはよ、茉央くん! ……灰翔くんも。」

結衣菜が駆け寄ってきた。

マフラーの端がふわっと跳ねて、冬の匂いが近づいてくる。


「ねぇ、手……冷たいでしょ?」

そう言って、結衣菜は俺の手に自分の手を添えた。

「ひっ……ちょ、結衣菜!?」

「大丈夫だよ。……ほら、深呼吸。」

その温度に、胸の奥の強ばりがすこしずつほどけていく。

結衣菜はまるで心の奥に手を伸ばして整えてくれるみたいで、

触れられたところから、安心が染み込んでいった。

「茉央くん、今日だけじゃないよ。これから何回だって……私がそばにいるから。」

その言葉が、心の中心を震わせた。


灰翔が視線をそらしながら、ぽつりと呟く。

「……言うじゃん。」

「黙れ灰翔。」

「すんません。」

そんな会話に、思わず笑った。


結衣菜が俺の手を握る。

「怖かったら、ぎゅってしていいよ。」

温度が伝わってくる。

その一瞬で、世界が少しだけ軽くなる。

「……行ける?」

「うん……行ってくる。」


結衣菜は、ニコッと笑い学校に向かった。


こんな風に笑える日が来るなんて、少し前の俺には想

像もできなかった。


―――


中学の校門が見えた瞬間、呼吸が止まった。

重くて黒い記憶が押し寄せてくる。

昇降口の音。

机に落ちた紙くず。

笑い声。

保健室の真っ白な天井。

足がすくんだ。


「……入れない。」

喉から絞り出すように言った。

その瞬間、灰翔が肩を掴む。


「茉央。ここはもう、お前を傷つける場所じゃねぇ。

 “過去の俺たち”がいた場所だ。今の俺たちが入る場所だよ。」

その言葉が、胸に落ちた。


二人で校舎に足を踏み入れた。

まるで“過去のゴースト”を乗り越えるように、一歩ずつ。


―――


試験中も、何度も手が震えた。

でも、顔を上げるたびに思い出す。

結衣菜の手の温度。

灰翔の言葉。

そして「もう逃げない」と決めた自分。

最後のマークシートを塗り終えた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

――終わったんだ。


―――


結果発表の日。

掲示板前はざわついていて、冷たい風が吹き抜ける。

俺は息を呑んで番号を探した。


「……あった。」

自分の番号を見つけた瞬間、視界が滲んだ。

その後、少し離れたところで――

「茉央! 受かったよ!!」

「っしゃあ!! 俺もだ!!」

結衣菜も灰翔も、自分の番号を見つけて笑っていた。

結衣菜は真っ先に俺に駆け寄ってきて、軽く袖を掴んだ。


「……ねぇ茉央くん。」

「ん?」

「一緒に行けるね。同じ高校。」

その言葉が、胸を刺して、溶かして、満たしていった。

俺は泣きながら笑った。


「うん……ありがとう。

 俺、生きててよかった……」

冬の風の中で、三人の影が並んで揺れた。

その影の真ん中には、ようやく前を向ける自分がいた。

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