3話 目覚めの春
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光が差し込む病室で、まぶたをゆっくり開けた。
目の奥に刺さる痛みと、どこか遠くで聞こえる声。
「……茉央、目が覚めた?」
ベッドのそばに、見慣れた笑顔があった。
結衣菜だ。
小学生のころと変わらない、柔らかくて優しい顔。
でもどこか、大人びていた。
「結衣菜……?」
声が、かすれて出た。
息をするだけで精一杯の気分だった。
「おかえり。」
結衣菜は泣きながらそっと手を握ってくれた。
その手の温もりに、心の奥の何かが震えた。
どうして彼女がここにいるのかなんて、考えられなかった。
ただ、あの笑顔が「まだ僕を知ってくれている」ことが嬉しかった。
入院中の生活は夢のようだった。
でも、結衣菜は結衣菜が「転校した後の話」をまだ知らない。
言わなければいけない。
そう考えるだけで息が苦しくなる。身体中が震える。
一回全ての騒動を話してみれば良いかもしれない。
でも、言えない。
そんな精神状況不安定な僕を、
普通に接してくれる結衣菜に心が痛んだ。
古傷を抉るような感覚で。
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ある日、結衣菜が僕に勉強を教えている時。
ふと結衣菜の顔を見た。
転校したあの日よりも大人びた顔。
長いまつ毛。キラキラと輝く金色の瞳。
全てが魅力的だった。
「どうしたの?」
結衣菜が顔をあげた。
口が勝手に動いてた。
「もう、結衣菜は僕と関わらない方がいい。」
「なんで?」
僕は、頭に血が上った。
「こんなやつと、関わってたって意味がない。
僕は唯夏と……いや、すべて自業自得なんだ。
意味がない。生きている価値がない!」
「僕なんか、もう……」
言葉が喉でつかえた。息が苦しい。
「唯夏と……あの日、全部が終わったんだ。」
「灰翔に突き飛ばされて、気づいたら車の音がして」
結衣菜は、悲しい目をしていた。
光が全て奪われていった。
そっか結衣菜もやっぱり……
「変わっちゃったね。茉央……」
結衣菜は、僕の首に両腕を回した。
そして自分の胸に頭を引き寄せるように包囲した。
何も言わない。言葉がなくても、伝わるものがあった。
「茉央の気持ちは、よく分かった辛かったね……
私も辛かった。新しい学校で常に学年1位だとさすがに周りからの視線が痛かった。逃げたかった。
そしたらさ、茉央が車に轢かれたって。走って病院に行ったよ。唯夏よりも。あなたのお母さんよりも。
もう私は、茉央がいないと生きていけないの……
同じ気持ちでしょ? 」
結衣菜は、泣きながら笑った。
くしゃくしゃの結衣菜の顔を見て決心した。
これから新しい僕を作ろう。そう思った。
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「そういえば結衣菜ってどこの高校行くの?」
「一応私立の難関高校に行くつもり。」
いつも通りに勉強してた。いつも通りの話だ。
結衣菜は勉強を教えるのが上手だ。
まさか、模試で結衣菜の志望校がB判定だなんて。
「僕、結衣菜と同じ高校に行きたい。結衣菜を隣で支えたい。」
結衣菜は驚いてた。
「じゃあもっと勉強教えないとね! 」
結衣菜の顔が赤い。
そしたら結衣菜がボソッとつぶやいた。
「一瞬……告白かと思った……」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。でも、それを恋だと呼ぶにはまだ怖かった。
僕は気づかないフリをした。
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退院の日。
母がベッドの脇に置いたのは、少し皺の寄った学生服だった。
胸ポケットには名札。
そこに書かれた「氷見茉央」という名前が、もう自分のものではない気がした。
「学校、来週から行けそう?」
母の声がやさしく響いた。
「……うん、たぶん。」
口だけが勝手に動いた。
鏡の中の自分は、まだあの日の“途中”で止まっていた。
あの廊下の夕日。
灰翔の笑い声。
唯夏の手の温もり。
全部、まだ夢の奥にある。
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外に出ると、春の風が頬を撫でた。
世界はまるで何事もなかったように、当たり前に動いていた。
病院の門を出たとき、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
唯夏だった。
髪が伸びていた。
制服の袖口から覗く手首が細く、どこか儚げだった。
「……唯夏。」
小さく呼んだ。
唯夏は振り返る。
けれど、その目に懐かしさの色はなかった。
「あ……ひ、氷見くん……だっけ?」
胸の奥が、一瞬で空洞になった。
その声のトーン、目の泳ぎ方。
全部が他人行儀だった。
「元気そうだね。」
「うん。……いろいろ、あったけど。」
唯夏は、ぎこちなく笑った。
その笑顔の奥に、どこか罪悪感のような影が見えた。
「灰翔くん、最近すごいよ。人が変わったみたい」
唯夏は、灰翔に憧れたような顔をして言った。
唯夏は、春の街に溶けるように歩き去っていった。
胸の中で何かが、完全に壊れた音がした。
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その夜、机の上には参考書が並んでいた。
結衣菜が昼間置いていったものだ。
ページの端に、小さな文字でメモが書かれている。
「ここ、苦手って言ってたから。次、いっしょにやろうね。」
その文字を指でなぞるだけで、少しだけ呼吸ができた。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、そこに結衣菜が立っていた。
紙袋の中にはノートと数本のシャープペン。
「今日、顔色悪そうだったから……勉強、少しだけ一緒にしようと思って。」
彼女は笑った。
部屋に入ると、机の上にあった制服を見て、静かに言った。
「無理しなくていいよ。行きたくないなら、行かなくてもいい。」
「……でも、みんな行ってるのに。」
「みんなに合わせて生きるの、疲れたでしょ?」
その言葉が、胸の奥に優しく刺さった。
結衣菜は机にノートを広げた。
静かな夜の中で、鉛筆の音だけが響いた。
「学校に行けなくても、ここでなら勉強できる。
それに……茉央は今、生きてる。それが一番すごいこと。」
僕は、ペンを持つ手を止めた。
涙が落ちて、ノートの端が滲んだ。
「結衣菜……僕、まだ世界が怖い。」
「うん。でも、誰かの隣なら少しは見えるかもね。」
結衣菜は、やさしく微笑んだ。
その夜、僕は初めて学校じゃない教室で勉強をし
た。
窓の外には春の風。
そして、机の上には小さな希望の光があった。
世界に戻るのは、もう少し先でいい。
でも、もう一度歩き出せる気がした。




