2話 静かに崩れてく
教室の窓の外で、春の終わりを告げる風が吹いていた。
いつもより少し静かな朝だった。
「朝倉、転校するらしいよ」
そんな噂が流れたのは、たしか昼休みの終わり頃だったと思う。
チョークの音が止まったみたいに、クラスが一瞬だけ沈黙した。
それからの一日を、僕はほとんど覚えていない。
放課後、帰り支度をしていた結衣菜が僕に気づいて笑った。
「あ、茉央くん。……ごめんね、急で。」
机の上に置かれたプリントの角を指でなぞりながら、
彼女はいつものように明るく話していた。
「お父さんの仕事の都合でさ、
来週から違う中学行くことになっちゃって。」
「……そっか。」
それだけ言うのがやっとだった。
教室の窓から差し込む光の中で、結衣菜の髪がふわりと揺れた。
「じゃあね、茉央くん。……またいつか、ね。」
その「またいつか」が、
どうしても「さよなら」に聞こえた。
僕はその日、初めて「声が出ない」ほどの寂しさを知った。
彼女の背中が遠ざかっていくのを、ただ見送ることしかできなかった。
―――
帰り道、唯夏が小さく笑って言った。
「結衣菜ちゃん、転校しちゃうんだって」
「ああ、らしいね。」
「寂しくないの?」
唯夏の瞳が、まっすぐ僕を見ていた。
「別に。……もう昔の話だから。」
唯夏は少し驚いたように眉を動かした。
けれど、次の瞬間、
その目がどこか「安心した唯夏の顔」を見逃さなかった。
「……そっか。じゃあ、これからは私だけ見ててね。」
その一言で、心がやっと動いた気がした。
僕の中の「誰か」が笑った。
そういえば、今日は唯夏の誕生日だ。
「唯夏。今日誕生日じゃん。家空いてる? 勉強しに行きたいんだけど……」
この静かな雰囲気を濁すにはちょうどいい。
しかも、唯夏は多分本当の意味を分かっていた。
「うん! いいよ! 」
唯夏の瞳が宝石のように輝いていた。
―――
唯夏の家で黙々と勉強している。
時々チラッと目を合わせてくれる隣の唯夏がとてもかわいい。
そう思ってしまっていた。
「ちょっと待ってて」
僕は立ち上がり冷蔵庫の中にある「一つのもの」を持っていくのだ。
「じゃじゃーん! この日の為にケーキを買ってきました! 一緒に食べよ? 」
唯夏は、驚いて言った。
「えっ! 私のため? 」
そう、君のため
ケーキを食べて、一息ついたところでプレゼントをあげた。ちょっと前に流行ったハンディファン。
唯夏は、予想外のことで頭がパンクしそうだった。
でも、唯夏は覚悟を決めた顔をしていた。
なんで唯夏は、「本当の意味を理解していた顔」をしていたのだろう。
そう思っていたのも束の間。
「茉央……」
唯夏が僕を押し倒して、半ば乗っかる形で床に乗っかった。
そうしているうちに、僕と唯夏の口は重なる。
「唯夏……」
手を握り合う唯夏の手は熱い。
―――
「おはよ、茉央……」
「あっそっか……」
気づいていたら僕は寝ていた。
何も考えずに学校に行った。
時すでに嫌な予感がしていた。
結衣菜が消えた教室。
代わりに唯夏の声が満ちていく。
いつの間にか僕は、
「好き」よりも「必要」を求めていたんだと思う。
でも、僕は知らなかった。
人間の本当の怖さを。
―――
多分、あの日のお昼休みだと思う。
ありえないほどの量、の人が廊下にいる。
僕を指差す人すらいる。
もしかして。
予想した瞬間鳥肌が止まらなくなった。
全身からの怖気が喉を焼き尽くす。
僕は俯いたまま机の木目を見ることしか出来ない。
灰翔の顔が見えた冷たい目だったけど口元は笑っていた。
怖い。いたくない。つらい。つらい。つらい。
トイレに逃げ込んだ。口から出てはいけないものが出た気がする。
―――
教室に戻ると、誰かの笑い声が一瞬止まる。
振り返ると、みんなが「別に何もないよ」みたいな顔をしていた。
授業中、プリントを回す時だけ、指先が触れないように避けられた。
名前を呼ばれなくなって、
僕の存在が「ノイズ」みたいになっていくのを感じた。
―――
唯夏も、周囲から責められるようになった。
最初は一緒に立ち向かおうとしてくれるけど、やがて彼女も距離を置き始める。
帰るたび、唯夏の「ごめんね」の回数が増えた。
手を繋いでも、前みたいに強く握り返してくれない。
僕は笑って「大丈夫だよ」と言った。
でも、その「笑い方」を自分で見て、ぞっとした。
鏡の中の自分が、誰かの真似をしてるみたいだった。
唯夏の方が色々と大変だっただろうに……
夜、スマホの画面を見ても、文字が意味を持たない。
名前も、顔も、言葉も、全部に「輪郭」がなくなっていく。
唯夏のメッセージが届くたびに、心の中で何かが壊れる音がした。
「また明日ね」
その「明日」を、僕はもう信じられなかった。
―――
放課後の廊下は、いつもより眩しかった。
夕日が床に反射して、世界の輪郭が滲んで見えた。
「なぁ、茉央。」
背中の方から灰翔の声がした。
反射的に振り返った。
あの時と同じ笑い方をしていた。
「最近さ、唯夏とも話してないんだろ?」
「……なんで知ってるの。」
「そりゃあ、みんな知ってるよ。
お前らの話、もうクラスじゃ知らないやついねぇもん。」
その瞬間、喉の奥が冷たくなった。
灰翔の声だけが、世界の中で鮮明に響いていた。
「言っとくけど、俺、悪気はねぇからさ。
みんなの話題作ってやっただけだろ?」
「……灰翔、何がしたいの。」
「お前の本音が聞きたいだけ。」
彼は、僕の目の前に立った。
目の奥が、笑っていなかった。
「お前さ、優しいフリして、結局誰かに認められたいだけだろ。
唯夏のことも、必要とされたかっただけじゃねぇの?」
その言葉で、心の奥がざらついた。
「違う……僕は、ちゃんと、」
「ちゃんと? 何を?」
灰翔が一歩近づいた。
僕の胸ぐらを軽く掴む。
「お前さ、ほんとに自分のこと、わかってねぇよな。
弱いくせに、守られたいくせに、
それを認めるのが怖いだけじゃねぇのか。」
灰翔の息が近い。
笑ってるのに、目はずっと寂しそうだった。
「俺、こういうやつ見るとムカつくんだよ。」
その言葉が、頭の中で何度も響いた。
世界が、音を失っていく。
「やめろよ……」
声が震えた。
「やめろって言えるなら、最初から壊れねぇだろ。」
灰翔が笑って手を離した。
「お前さ、俺が突き飛ばしても、たぶん何も言わねぇだろうな。」
そう言って背を向ける。
廊下の向こうで、彼の影が夕日の中に伸びていった。
僕はその影を見つめたまま、
自分が何も言えないことに気づいた。
ただ、心の奥で小さく「終わった」と呟いた。
夕日の廊下で、灰翔の靴音が遠ざかっていく。
僕はその音が消えるまで、呼吸することを忘れていた。
この日、僕の世界は確かに壊れ始めていた。




