婚約破棄ですか? あなたのほうが、よほど“無能”でしたわね
「お前みたいな堅物女に、王妃の器なんてあるかよ!」
その日も、玉座の間に第一王子マーリオスの罵声が響き渡っていた。
「王妃ってのは、王の隣でにこやかに笑っていればいいだけだろ? それすらできないお前は、本当に“無能”だな!」
その矛先となったのは、彼の婚約者であるグレイシアだった。
グレイシアは、ヴァレリア王国の王女。
エルグランド王国との友好の証として、第一王子マーリオスと政略的な婚約を結んだ、誇り高き姫君である。
富と知恵の国──ヴァレリア。
剛勇と武力の国──エルグランド。
かつて二国は力を合わせ、世界に平和と均衡をもたらした。二百年を経た今もその同盟は続き、両国の未来を繋ぐ象徴として選ばれたのが、グレイシアだった。
格式、教養、政治的見識──
王族に必要なすべてを備えた彼女は、どこから見ても王妃にふさわしい存在だった。
だが──
婚約当初から、マーリオスの態度は侮蔑的なものだった。
ドレスを選べば「地味」、意見を述べれば「女のくせに口出すな」。王宮主催のパーティーでは、「無能」「知性のかけらもない」「女として終わってる」などと、平然と人前で彼女を嘲った。
グレイシアは何を言われても耐えていた。
これは国のため。政略結婚とはこういうものだと、自分に言い聞かせながら。
けれど、どれほど尽くしても、マーリオスの態度が改まることはなかった。
彼は幼い頃から優秀と持てはやされ、将来を嘱望されて育った。その姿を見て、父であるエルグランド国王は早々に政務の表舞台から退き、国の舵取りをすべてマーリオスに託した。
だが、その期待に応えることなく、彼は慢心と傲慢を募らせ、ついには政務すら放棄してしまう。
「政務など地味な仕事は、リチャードにでも任せておけばいい。“無能”なあいつでも、今みたいな平和ボケした国の政務くらいはこなせるだろ」
そう吐き捨てるように言い放ったマーリオスは、その後も酒と狩猟、女遊びに明け暮れる日々を送っていた。
なかでもアメリア・リシュタイン侯爵令嬢とは、「真実の愛」を掲げ、たびたび逢瀬を重ねながら、その関係を誇らしげに周囲へ吹聴していた。
国が崩壊せずに済んでいたのは、ひとえに補佐官リチャード・アルバインの存在があったからに他ならない。
マーリオスの認識とは裏腹に、リチャードは卓越した政治手腕と冷静な判断力を兼ね備えた人物だった。
それでいて、彼は温かな心を持ち合わせていた。グレイシアがマーリオスの心ない言葉に傷つくたび、リチャードはそっと寄り添い、穏やかな声で励ましの言葉をかけてくれた。
「グレイシア様のご意見は、国政において極めて有益です。……殿下がそれを理解されないのは、まことに残念なことですが」
その穏やかな声音と誠実なまなざしが、どれほど彼女の心の支えとなったことだろう。
いつしか、グレイシアの胸には、リチャードへの淡い想いが芽生えていた。
しかし彼女は、その気持ちをそっと胸の奥にしまい込んだ。
国のために──
そして、婚約者として、未来の王妃としての責務を果たすために──。
◇
ある日。
「グレイシア、俺はお前との婚約を破棄する。アメリアと結婚することにした。お前はもう──用済みだ」
その一言で、玉座の間が凍りついたように静まり返った。
日々の暴言に、グレイシアの我慢も限界に達していた。それでも感情を抑え、努めて冷静に問いかける。
「……理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
「お前には女らしさがない。口うるさくて、堅苦しい。アメリアは違う。俺に従順で、俺の意を汲んでくれる理想の妃だ。それに今後、エルグランド王家に“無能”な他国の血を混ぜるつもりはない。我が国には、我が国の優れた血統だけがふさわしい」
得意気に自分勝手な理由を語るマーリオスに、グレイシアは悔しさを通り越して、思わず笑みをこぼした。
「ふふ……左様でございますか。それでは、ヴァレリア王国へ帰還させていただきますわ」
「勝手にしろ。二度とその顔は見たくもない」
婚約の重みを理解していなかったマーリオスに呆れながら、グレイシアは静かに一歩前に進み、穏やかな笑みを浮かべて告げた。
「では、これまで続けてきた経済援助および開発協力は、本日をもってすべて打ち切らせていただきます。どうぞ、残された方々でご健闘なさってくださいませ」
「……は?」
マーリオスの口がぽかんと開き、目を見開く。
「ま、待て。それじゃあ……我が国の財政も、発展政策も……!」
「ご存じなかったようですが、婚約破棄とは同盟の解消を意味します。ヴァレリア王国が長年続けてきた援助や協力は、今後一切行われません」
「ば、馬鹿な! お前らが手を引けば、この軍事大国の後ろ盾がなくなるんだぞ!? 二百年にも渡って築かれてきた友好関係が──!」
「この平和な時代において、軍事大国の後ろ盾など不要。それに──知略と最新技術を駆使するヴァレリア軍と、人海戦術に固執するエルグランド軍。もし交戦となれば、勝敗は火を見るより明らかでしょう」
「くっ……我が国の未来はどうなる……!?」
「それは、“王妃にふさわしい”と仰ったアメリア様とご一緒に、お考えくださいませ」
そして、リチャードが一歩前へ進み、恭しく頭を下げた。
「私も、グレイシア様とともにヴァレリアへ参ります。今後は、王女殿下の補佐官としてお仕えいたします」
「お、お前まで……!? 裏切るのか、リチャードッ!!」
「忠誠とは、国と主君に捧げるものです。妄信的に怠惰な王子に縋ることとは、決して同じではありません。それに……殿下から見れば、私も“無能”な存在でしょう。この国に私は必要ありません」
そして、グレイシアとリチャードは一礼すると、その場を静かに後にした。
◇
リチャードと共に、ヴァレリア王国へ帰還したその日、グレイシアは王都の門を越えた瞬間、胸の奥から安堵の息を漏らした。
長く、重たかった異国での日々がようやく終わりを告げたのだ。
王宮の正門前には、国王と王妃、そして兄のカイラス王子が出迎えていた。
「……おかえり、グレイシア」
父の低く穏やかな声。それは王としてではなく、ひとりの父親としてのものだった。
彼は、グレイシアの肩にそっと手を置き、深く頭を下げる。
「辛い思いをさせてしまったな。本当に、すまなかった」
王族としての威厳を保ち続けてきた父が、娘に頭を下げる──その姿に、グレイシアは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
隣にいた兄カイラスが、少し苦笑して口を開いた。
「俺はな、最初からあの婚約話には反対だったんだ。マーリオスの評判は、正直良くなかったしな。女癖の悪さも、軽薄な言動も、全部耳に入ってた」
「……兄上」
「でも父上は“二百年の盟約を大事にすべきだ”って。伝統と国益を優先されたんだよ」
兄はそう言って、ちらりとリチャードを見やる。
「だから俺、お前があっちに行く前に、信頼できる男に頼んでおいたんだ。お前のそばで支えてくれるようにってな」
グレイシアは、はっとしてリチャードの方を見る。
「……リチャード様が?」
「そう。こいつは不器用だが、誠実で、誇り高い男だ。俺の大切な妹を託すなら、これほど頼れる存在はいないと思った。……もともと補佐官という立場だったのも、うってつけだったしな」
「兄上……」
グレイシアは胸の奥が、暖かな光に包まれるのを感じた。
マーリオスの心ない言葉に耐えた日々。そっと差し伸べられたリチャードの言葉に、どれほど救われていたか。
「リチャード様……あなたは、最初から私の味方でいてくださったのですね」
そう言って微笑むと、リチャードはほんの少し目をそらし、照れくさそうに言った。
「私がしたことなど、取るに足りぬことです。……ただ、少しでもあなたの役に立ちたかっただけです」
その言葉で、グレイシアの目に、そっと涙がにじんだ。
◇
それから数か月後。
リチャードはヴァレリア国王から信任され、軍の責任者として重用されていた。
一方、エルグランド王国では──
マーリオスが国王に即位し、アメリアを王妃に迎えていた。
しかし政務は場当たり的で、内政はたちまち混乱。貴族同士の対立は激化し、税収は急落。民の不満は各地で爆発し、王国は荒廃の一途をたどっていた。
「な、なぜだ……“無能”なリチャードにできて、俺にできないはずがない!」
そう嘆くマーリオスは、自らの責任を省みることなく、他者を非難する。
「すべてはヴァレリアの陰謀だ! グレイシアとリチャードが我が国を衰えさせているのだ! 我らは誇りと栄光を取り戻すために立ち上がる! 軍事大国エルグランドの力、今こそ見せてやる!」
マーリオスの独断で、ヴァレリア王国に戦争を仕掛けた。
「無謀ですね」
リチャードは冷ややかに言った。
「敵にするには不釣り合いな相手ですよ、マーリオス王」
戦争は、一日で終わった。
いや、正確には、戦闘らしい戦闘すら起きなかった。
マーリオス軍は指示系統が混乱し、将校たちは互いに責任を押し付け合い、兵は勝手に持ち場を離れて逃げた。
一方、リチャードが率いるヴァレリア軍は訓練された精鋭揃い。国境に整然と布陣し、「これ以上進軍すれば即座に包囲される」という現実を突きつけた。
結果、マーリオス王は、白旗を掲げて城に逃げ戻った。
◇
玉座の間には、マーリオスひとりしかいなかった。開戦に伴い、冷静に二国の戦力を見極められる者は、王城を離れたのだ。王妃であるアメリアすらも。
玉座の間に足音が響く。
現れたのは、リチャードとグレイシアだった。
マーリオスは、椅子にふんぞり返ったまま、二人を見下すように笑った。
「ほう……“無能”どもが何しに来た? 勝ち誇ったつもりか?」
かつての尊大な口調は、敗北を経てもなお変わらない。
リチャードは黙って一枚の書類を差し出す。
「エルグランド王国は本日をもって、ヴァレリア王国の属国とします。また、あなたの王位は剥奪し、国外退去を命じます」
「は、はあ!? 冗談じゃない! 俺はこの国の王だぞ!? 俺がいなきゃ、誰が国を導く!? 俺の統治能力は──」
その瞬間、グレイシアが一歩前へ出た。
「内政を混乱させ、他国に無謀な戦を仕掛ける──そんなあなたに、統治の才などあるはずがありません」
マーリオスが口を開きかけたその瞬間、グレイシアの右手が勢いよく振りぬかれた。
──パァン!
鋭い音が玉座の間に響き渡る。
マーリオスは頬を押さえ、目を見開いた。
「あなたのほうが、よほど“無能”でしたわね」
鋭い平手打ちとその一言で、マーリオスの誇りは粉々に砕かれた。
「うわあああああああっ!!」
彼は大声を上げて泣き出した。王の威厳など、もはやどこにもない。
リチャードが静かに言葉を告げた。
「命を取られないだけでも、ありがたいと思ってください」
マーリオスは、泣きじゃくりながら、震える手で書類に署名をした。
◇
その後。
エルグランド王国はヴァレリアの属国として再建が進められた。エルグランドの新国王に任命されたリチャードと、正式に彼と結婚したグレイシアが政務を担っていた。
二人の誠実な統治により、腐敗は一掃され、民の暮らしは着実に安定していく。王国には、笑顔と秩序が戻りつつあった。
「民の声を聞ける今が、何より幸せだわ」
「……私もです、グレイシア」
二人は並び立ち、未来を見据える。
“無能”だと蔑まれた者たちが、王国を導く新たな“光”となっていた。
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