月と硬貨
がらんとした郊外の2LDKのマンション。厳しい冬の夜気が窓を震わせている。広いテーブルも、大きな炊飯器も、共働き前提の返済も、一人では少々持て余している。半年前の離婚以来、この部屋の意味は大きく変わった。
ベッドの脇に置いてある段ボール箱には、まだ元妻の荷物が残っている。メールで催促はしたものの、取りに来る気配はない。捨てるわけにもいかず、かといって送るのも面倒だ。昼間は仕事に追われ、夜は無駄にテレビをつける。誰かと話したい気持ちはあるが、独身の友人はもう少なく、既婚者に連絡を取る気にもなれない。
特に気になるのはキッチンの壁紙だ。防汚・防水加工の無地の壁紙にしたかったが、可愛い柄がいいという妻――今は元妻――の意見で決めた。彼女は『家族が増えたら、こんな柄が良いと思えるはずよ』と言っていたのだった。でも今は、その小さな花の模様が、妙に目に付く。
正月の帰省。母が兄の家族と同居している。小学3年生の甥っ子にお年玉を渡す。無邪気な笑顔に救われる。一人での帰省を疑問には思わないのか、そういう話をしてはいけないと言い含められているのか。母の気遣うような視線を感じつつ、おせち料理を食べながら、兄と互いの仕事の調子などを尋ね合う。昼からビールなど開ける。少しずつ気が緩んでくる。おせちの黒豆を箸でつまみながら、去年の今頃のことを考えた。元妻と二人で実家に来て、この同じ座卓を囲んでいた。その記憶が、今は遠い昔のことのように感じられる。
食後のスマートフォンには、決まり文句の年賀メッセージが流れていく。型通りのやり取りに少し虚しさを感じていた時、中井誠司からの突然のメッセージが入ってきた。
「坂本、久しぶり。実家?」
返信するまでに少し間を置く。画面を見つめたまま、返事をすべきか迷う。中井とは卒業して別れて以来、しばらく年賀状のやり取りをしていた。今では、たまにSNSで近況を見る程度だ。最近、『人は何のために生きるのか』『現代人に必要な心の安らぎとは』といった投稿が増えていて、少し距離を置いていた。
「ああ、帰省してる」
「俺も近くにいるんだ。今夜メシでもどう? 山田も来れるかも」
中井と山田。高校の頃よく一緒に遊んだものだった。中井は小柄でスポーツ万能。山田が大柄でのんびりタイプ。自分がメガネキャラで雑学は知ってるけど成績は悪い、そんな組み合わせの三人だった。山田とはSNSでもつながってなかったから、本当にどうしてるのか分からない。
***
夕方、駅前のファミレスで二十年ぶりに会った中井は、見違えるように変わっていた。いつも動き回っていた彼に、なんだか落ち着きが出ている。スポーツ刈りだった髪も、社会人らしい短髪に変わっていた。
「いやあ、親も歳取ったよな」
メニューを見ながら投げかけてくる。
「ああ」
「正月って、なんか落ち着かないよな」
話が自然に流れる。懐かしい話に花が咲く。
「山田は? 遅いな」
「子どもが熱を出したらしくて」
「あいつは、いい父親っぽいもんな」
「変わらないよな、あいつは」
昔から面倒見のよかった山田は、きっと子煩悩な父親になっているに違いない。一方、自分は……。
「そういえば、今日うちで集まりがあるんだけど」
中井はさりげなく切り出した。
「飲み会みたいな感じ。来てみないか?」
少し警戒する。彼のSNSの投稿が気になっていた。
「宗教とかじゃないだろうな」
思わず口をついて出た言葉に、少し後悔する。
「ああ、まあ」
中井は意外なほど素直に認める。
「でも、お前を勧誘するつもりはないから。ただの飲み会のつもりで来てよ。費用もいらないし、気に入らなければすぐ帰ってもいい」
「それに、出会いがあるかもしれないぞ」
こちらが返事に迷ったのを、察して付け足す。
「ああ、悪い。まだ、そんな気にはなれないよな」
もしかしたら、最初から離婚を知って誘ったのかもしれない。でも、昔のままの話し方をする中井に悪い感情を持つことはなかった。勧誘というよりは、彼なりにできることをしているのだろうと、思い切って中井の家を訪れることにした。どうせ、兄家族が同居している実家に帰ったところで、気を使うだけだ。
***
古い住宅街。平凡な一戸建ての玄関を開けると、お茶の香りが漂ってきた。リビングには既に数名が座っていた。
奥の方に座っていた中年の夫婦は、時々顔を見合わせて頷き合っている。手作りらしいクッキーの差し入れを持ってきていた。若い女性は一人で来ているようで、膝の上のスマートフォンを落ち着きなく触っている。その隣には、温厚そうな年配の男性が、分厚い手帳を広げて何かメモを取っていた。思っていたより普通の人たちだ。壁には仏画でも十字架でもなく、穏やかな風景画が飾られている。
「今日は白石先生にも来ていただいてます」
中井が丁寧に紹介する。
「普段はなかなかお会いできない方なんですが、今日は特別で」
「白石です」
黒のワンピース姿の女性。控えめな化粧と知的な雰囲気。どこか懐かしい印象を受ける。しかし、その印象は誰に似ているのか思い出せない。
「困っていることを話し合って、分かち合う。これはとっても大切な『行い』です」
柔らかな物腰と芯の通った話し方。おそらく自分と同年代だろうが、他の人たちとは少し違う空気を持っている。
「私は各地の『例会』で、皆さまの困りごとを聞かせていただく『役目』をしております」
彼女は参加者の目を、順番に見ていく。一瞬目が合い、少し戸惑ってしまった。
「今日は、皆様のお話を聞かせいただければと思います。よろしくお願いします」
一礼すると、会場から軽い拍手。
「どなたか、話したいことはありますか? 今日は先生もいらっしゃいますし……」
中井が司会進行をするようだ。それにしても、これはもう完全に宗教の集まりだ。居心地が悪い。
「先生」
後ろの方に座っていた若い女性が、遠慮がちに手を挙げる。
「来月、バレンタインなんですが」
白石が、静かに視線を向ける。
「チョコレートを贈るかどうか迷っていて……」
女性は言葉を詰まらせる。
「この集まりに参加するようになって、今までのように何も考えずにはいられなくて」
「私もです。キリスト教の聖人の日なんですよね? 私たちが参加していいものなのかどうか……」
年配の男性が続ける。
「ええ、もちろん私にくれるような人がいればですが、ははっ」
軽い冗談に少し場が和らぐ。
白石が穏やかに微笑んだ。
「では、今日はバレンタインのお話をしましょうか」
***
話が始まった。3世紀のローマ、クラウディウス二世の時代へと話は遡る。兵士となる若い男性の結婚を禁止した皇帝。密かに結婚式を執り行っていた司祭バレンタイン……。
「すみません」
思わず口を挟んでしまった。会場の視線が一斉に集まり、少し気恥ずかしくなる。
「結婚が禁止されてるのに、結婚式をしても無効というか、意味がないのでは……」
白石の表情が柔らかくなる。
「当時は結婚は法的なものというよりは、宗教的な儀式だったのです。ですので、式には意味があったのですね」
静かに微笑みながら、視線を合わせてくる。
「聖バレンタインは密かに結婚式をしていたことが発覚し、最終的に269年2月14日に処刑されたと伝えられています」
「結婚式に関わった神父、いえ、司祭が処刑されたということは……」
いらない話をしてる自覚はある。中井には悪いが、面倒なヤツだと思われれば、勧誘されずにすむだろう。
「結婚した人たちも処刑されたんですか?」
「結婚した人たちの処罰については定かではありませんが、司祭の処刑には明確な理由がありました」
真摯な表情で話を続ける。
「当時のローマは多神教で、ユピテルを主神とするローマの伝統的な神々を祭っていました。そして、皇帝崇拝も行われており、皇帝は神的な存在として扱われていました」
「では、そのときキリスト教は……」
「非合法な宗教だったんです。禁じられていたキリスト教の司祭が、皇帝の権威に歯向かったということが問題だったんでしょうね」
「結婚したこと自体ではなく、宗教の問題ということですか」
ゆっくりとした頷きが返ってきた。なるほど。でも、まてよ。なんだかおかしい気がする。
「そうすると、非合法だったキリスト教に、問題になるほど大勢の適齢期の男女がいて、さらに、そのバレンタインさんは、一人で全員の式を挙げたんですか?」
***
「いい質問ですね」
白石は続ける。
「実は、この話には様々な説があって、本当にあったことなのかと疑問に思う人たちもいます。ただ、キリスト教では、彼は正式な聖人として認められ、多くの信徒に親しまれてきました」
キリスト教徒向けの作り話だと遠回しに言ってる気がした。ちょっと面白い。だが、彼女はそこには深入りせず、歴史の説明を続けた。
14世紀、イギリスの詩人チョーサーが『鳥の議会』という作品で、この日を恋愛の日として描いた。それ以降、バレンタインデーは恋愛の日として祝われるようになっていった。18世紀にはイギリスで恋人たちがカードを贈り合う習慣が生まれ……。
「そして日本では、1930年代に神戸のチョコレート会社が、女性から男性へチョコレートを贈る習慣を提案しました」
昔からチョコレート会社の陰謀だって言われてたよな。でも、ここにいる人たちは宗教と関わりがあることだから気にしているのだろう。
「ということは……」
先ほどの女性が期待を込めて尋ねる。
「バレンタインと、チョコレートは関係ないんですか」
「はい」
丁寧な口調で答えが返ってくる。
「チョコレートを贈り合うのは、キリスト教の習慣ではありません」
会場からほっとしたため息が漏れる。先ほどまで硬かった表情が、少しずつ和らいでいく。中年の夫婦は顔を見合わせ、年配の男性は手帳に何かを書き込んでいる。
「つまり」
何度も質問してしまった手前、ちゃんと理解したと言っておかなければ。
「宗教的なエピソードにちなんではいるけど、宗教としての行事や習慣ではないから、問題ないということなんですね」
白石の目が、かすかに光った気がした。
「その通りです。私たちはチョコレートを贈り合ってもいいんですよ」
あの女性が嬉しそうにしている。きっと意中の誰かに贈るのだろう。
十年前のバレンタインデーを思い出した。「これ、義理じゃないです」と少し上目遣いの元妻。数日後、「おいしかった」と伝えてデートに誘ったのだった。あのチョコ、今なら甘ったるくておいしいとは思わないだろう。
***
「例会」が終了し、他の人たちが帰りはじめた。中井に声を掛ける。
「じゃあ、今日はそろそろ・・・」
「白石先生、どうだ?」
「え?」
「昔好きだった子に似てると思わないか?」
懐かしい記憶が蘇ってくる。そうだ。学生時代に好きだった子に似ている。憧れていたが、結局声をかけることもできずじまいだった。でも、似ているはずなのに、なぜか顔が思い出せない。
「覚えてたのか」
「まあな。お前があんなこと話すの珍しかったからさ」
昔の思い出を大事にしてくれていることに、胸が温かくなる。
「ちょっと残ってくれないか。実は、先生が……」
彼女にはどこか引き込まれるものがある。話の魅力もあるが、元妻が感性の人だっただけに、白石さんのきちんと説明しようとする姿勢には好感が持てた。
「坂本さん」
彼女が近づいてきた。スカートを軽く押さえながら、ソファの横に腰かける。
「バレンタインの話、面白い視点でしたね」
そう言われると、少し恥ずかしくなった。面倒な話をして嫌がられたかと思っていたが、むしろ楽しそうな表情を浮かべていることにホッとする。
「もう少しだけ、飲みながらお話しませんか?」
入信の勧誘ではないかという警戒は残るが、そんな単純な話ではないだろうという予感があった。自分みたいなタイプは宗教には入らないと分かっているだろう。その上での誘いかもしれないと思うと、少し華やいだ気分になる。中井の策略かもしれないが、今は感謝したい気分だった。部屋の隅で、さりげなく片付けを始めた彼の後ろ姿に、思わず微笑みがこぼれる。
***
「迫害に立ち向かったバレンタインが殉教して聖人になったという話は、効果的な物語だと思ったんですけど」
ちょっと背伸びした話題を出す。
「その、布教というか、信者の信仰を強化するために役立ちそうだなって」
「その通りですね。物語には力がありますから」
言葉が続く。
「そして、物語は真実でなくてもいいのです」
「ええ。タネがあると分かってても、手品には見とれてしまうのと同じかなと……」
つい、彼女の顔を見つめていたことに気づいて、視線をそらす。
「手品とは、面白い例えですね」
彼女は微笑んだ。
「でしたら……ここでちょっと体験してみませんか?」
「体験、ですか?」
「はい。ちょっとした手品です」
ハンドバッグから黒いスカーフを取り出した。
「目隠しをさせていただけますか?」
***
少し躊躇したが、中井が近くにいることもあり、同意する。柔らかな布が目の前を覆った。
「両手を出してみてください」
一瞬、手が触れ合い、どきりとする。手のひらに何かを載せられる。表面は滑らかで冷たい。金属だろうか。
「これは何でしょう?」
「硬貨、でしょうか」
「はい。では、もう一つ」
もう片方の手のひらにも同じような感触。
「同じ硬貨ですね」
「本当にそうでしょうか?」
含みのある声。
「目隠しを取ってみてください」
スカーフを外す。片方の手の百円玉が冷たく光る。しかし、もう片方は――空っぽ。
「えっ」
思わず声が出る。動揺を隠せず、両手を何度も裏返してしまう。
「こちらの手には何も載せず、同じように手首の内側を触れただけです」
彼女の指先が手首の内側をなぞった。さっきと同じ感触に、なぜかゾクリとした。
「言葉と期待が、実際の感覚を作り出すこともあるんです」
少し間が開く。
「……物語が、と言っていいかも知れませんね」
差し出したスカーフを受け取ると、少し考え込むように視線を落とし、それから窓の外を眺めた。
「今夜は、月が見えませんね」
自分も夜空を見上げる。厚い雲が月を隠している。
「そうですね」
「でも、雲の向こうにあるはずです」
彼女は一瞬黙ってから、続けた。
「けれど、本当にそうでしょうか」
「え?」
「私たちは月があると信じています。でも、今この瞬間、誰も見ていない月は、本当に存在していると言えるのでしょうか」
「でも、常識的には……」
「常識は」
彼女はグラスに手を伸ばす。
「これまでに聞いた言葉や、自分の期待の集まりですよね?」
「それは……みんなの経験が違えば、常識も違ってくる、ということでしょうか」
少し戸惑った。単なる価値観の違いの話ではなく、もっと本質的なことを言いたいようだ。
「そうです。あなたの『当たり前』は、人によっては『当たり前』ではないかもしれません」
彼女が、赤い液体の入ったグラスを、軽く持ち上げる。
「たとえば、私の見る『赤』があなたの見る『赤』と同じかどうか、誰にも分かりません。私たちは同じものを見てても、それぞれが違う『赤』を感じているかもしれない。でも、言葉があるから同じだと思いこんでいる。そうやって私たちは世界を共有できていると信じているのです」
「つまり……、言葉や期待によって、それぞれが見ている世界が違っていてもおかしくない、ということですか」
「ええ。私の言葉があなたの期待を作り、あなたはその期待通りの感覚を感じた。でも、実際にはそこに何もなかった」
微笑みとともに、その言葉が投げかけられる。
「私たちの見ている世界も、同じなのかもしれません」
***
「そうなると、何を信じれば……」
「宗教も、その選択肢の一つです」
やはり、その話か。胸の奥が少し冷める。
「でも、宗教って作り話みたいだし、その話にも矛盾があって……」
そこまで言ってから慌てる。
「あっ、すみません。決して信仰を否定するつもりでは……」
「ええ。教義の中に矛盾があることは事実です」
静かな声が返ってきた。
「それに、教義やその解釈は、時代とともに変化していきます」
「どういうことですか?」
「昔は、太陽が地球の周りを回っているように見えました。教会もそのように教えていたのです。でも、実際は違いましたね」
「地動説の話ですか」
「そうです。進化論も同じです。最初は否定していた教会も、今では『神がそのように世界を作られた』という立場をとっています」
「時代によって変化する……それって、絶対的な真理ではないということになりませんか?」
「その通りです。でも、それは否定につながることではありません。宗教は世界や神を語る方法でもあります。方法が時代とともに発展するのは、科学でも同じだからです」
「なるほど……」
ちょっと、納得してしまいそうになる。だけど……。
「キリスト教だとそうでしょうけど、同じ神を信じるユダヤ教やイスラム教はどうなんですか?」
「ユダヤ教は、宗教と科学の関係について昔から深い議論を重ねてきました。タルムードという経典には『神は自然の法則に従って世界を創造した』という考え方が示されています」
「どういう意味ですか?」
説明が続く。
「自然の探究は、神の創造を理解することにつながるという考え方です。イスラム教も似たような立場をとっています。中世には、イスラム世界が科学の中心地でした」
「他の宗教は違うんですか?」
「たとえば日本の神道のように、自然そのものを神聖なものとして捉える考え方もあります。その場合、自然の法則を解き明かすことは、決して信仰と矛盾しないのです」
「仏教は?」
「面白いことに、仏教には『縁起』という考え方があります。すべては因果関係の連鎖で説明できる、という立場なのです。仏教には神もいませんし、科学的な世界観に、実は一番近いものかもしれません」
少し考えてから質問する。
「では、宗教って結局、説明の仕方が違うだけなんでしょうか?」
***
「その『説明の仕方が違う』ということが、重要なんです」
「どういうことですか?」
グラスの氷が揺れる。
「歴史的には、神を信じる人々と信じない人々との対立よりも、同じアブラハムの神を信じるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間での争いの方が深刻でした」
「そういえば、そうかもしれないですね」
「同じものをわざわざ違う風に説明するのは、その説明自体に重要な意味があるからです。たとえば、極端な例ですけど」
「ええ」
「『世界は5秒前に、過去の記憶も含めて誰かが作った』という説明は、反証することができません。ある意味で完璧です。でも、そのような説明を信じる人はいません」
「それは極端すぎるからですか?」
「説明というものには、それぞれ意味があるのです。単に『神様がそう決めた』で終わらせないのには、理由があります」
「理由……」
少し暗い部屋の中に、落ち着いた声が響く。
「説明というのは、その世界にどう生きるかという指針を与えてくれます。世界が5秒前に作られたと聞いたところで、私たちの今は変わりません」
「確かに」
「そして、過去も未来も意味を持たなくなってしまいます。記憶が作り物だとしたら、今この瞬間の経験にも意味がなくなってしまう。そう思いませんか?」
グラスの水面が、天井の照明を映していた。
「私たちは意味を求めているということでしょうか」
「ええ。自分の人生に、世界に、そして他者との関係に。宗教は単なる世界の説明ではないのです。その説明の中で『どう生きるか』という問いへの答えを示そうとしています。だからこそ、説明の違いが重要になるのです」
「生き方の違いということですか?」
「そうです。ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ。あるいは仏教や神道であれ。それぞれの説明は、それぞれの生き方につながっています」
***
「単に『神がそう作った』と言うだけでは、あまり意味がないと……」
「はい。説明できないことを『神の思し召し』のように解釈するのは、宗教者としての『逃げ』だと私は思っています。人々の期待に応えてないからです」
静かな声が紡がれる。
「たとえば、人との出会い。これを『運命』という言葉で片付けてしまえば簡単です。でも、本当の出会いには、もっと複雑な物語があるはずなのです」
互いの状況や意思、タイミングや偶然もあるだろう。
「今日ここで、白石さんと会ったことも?」
彼女はそれには応えず、ゆっくりと微笑んだ。
「バレンタインデーの話に戻りますが、作り話だと分かっていても、物語は人の心を動かします。多くの人を行動に駆り立てるだけの力があるのです」
「宗教もそうだということですか?」
「ええ。文句のつけようがない完璧な教義で理論武装をしても、人は動きません。むしろ、説明しきれない部分、理解しようとしても完全には理解できない部分にこそ、価値があるかもしれないのです」
***
夜はいつの間にか更けていた。中井の気配も消えていた。
「坂本さん」
名前を呼ばれ、物思いから覚める。
「私、ここでは先生なんて呼ばれていますけれど……」
少し口調が変わる。
「この宗教、全然信じてないんです」
「えっ?」
「信じていなくてもいいんです」
静かな声が続く。
「聖バレンタインの話だって、歴史的事実だと信じているキリスト教の聖職者は少数派ではないでしょうか」
「でも……」
「現代では、キリスト教の聖職者が『神がいないという仮説』を研究することも許されています。『最終的には神の存在を確認するための手段』という建前さえ保てば」
スカーフを手に取りながら続ける。
「日曜教会に行く人も、信仰ではなく、イベントとして参加している方がほとんどです。家族や友達や地域の社会的なつながりのために。初詣に行く方だってそうですよね」
「だから……」
そう言って、黒いスカーフで目隠しをする。
「月があるかどうかはどちらでもいいのです。みんながそこにあると思っていれば、月はあるのです」
***
翌月のバレンタインデーに、白石さんからチョコレートが届いた。もちろん「義理じゃないですよ」なんて言葉はない。シンプルな黒い箱を開けると、丁寧に並べられたチョコレートの香りが広がった。苦みの強いビターチョコレート。それは、宗教活動の一環だったのだろうけど、その時の私には、とても深い問いかけに感じられた。
それをきっかけに、この新興宗教に運営スタッフとして深く関わるようになった。白石さんは巧みだった。「信じていない」と打ち明けることで警戒を解き、教義や信仰ではなく、現実の利益を示したのだと思う。それは新しい目的を見つけ、寂しい休日を埋めてくれる仲間との居場所であった。
あの頃の孤独で、元妻の色がついたマンションを維持するための日々が、いつしか新しい意味を持ち始めていた。平日は会社に通い、夜と休日を宗教活動に充てるようになった。持て余していたマンションは、今では週に二回の例会場として使われている。かつての静かすぎる部屋に、人々の話し声が満ちている。寂しい夜に耳につく風切り音も、誰かの笑い声に変わった。
仕事も変わってきた。これまで窓の外を見つめながらぼんやりと過ごしていた昼休みは、例会で話すネタを考える時間に変わった。同僚たちの他愛のない会話に、ふと耳を傾けることもある。そこに潜む小さな悩みは、きっと例会で共有できるはずだ。
壁紙の模様が、以前とは違って見える。小さな花びらの連なりは、いつしか人々の顔のように見えてきた。笑顔で、でも何かを求めるような表情で。元妻が選んだその模様は、今では例会に集まる人々の姿と重なっている。
中井と白石さんは、離婚後の空虚な生活と仕事の行き詰まりにつけ込んだのかもしれない。彼らは、郊外の駅近2LDKという格好の布教拠点までも手に入れることができた。それが運営スタッフとしての自然な解釈だ。でも、私はそう考えない。考えたくない。一緒に働きたい人としてスカウトされたのだと信じることにしている。あの夜の硬貨も、雲の向こうの月も、信じる者にだけ存在するのだから。
しいな ここみさま主催の『冬のホラー企画3』参加作品です。
作中のバレンタインや宗教についての「解説」は、史実としての正確さよりも、主人公の心を動かす「言葉」としての役割を重視しています。豆知識として捉えないでいただければ幸いです。