第八話 死蝋の貴方 其の弍
おかえり、と声が聞こえた。
帰宅するや否や、白沢は靴を脱ぎ、自室に続く階段を駆け足で登った。すぐに、こじんまりとした部屋が目に飛び込んできた。
鞄を机の上に雑に起き、ふかふかのベッドに身を投げる。ぼふん、という緩く柔らかい感触を手のひらで感じながら、足だけで器用に靴下を脱ぎ、携帯に手をかけた。
ブラウザを起動し、『影 妖怪』と検索をかける。
ひとつ文献を読み込もうとしたところで、はっとして携帯を切った。
「どうしちゃったんだろ」
体を起こし、深呼吸を挟む。そうすれば少しでも気が晴れると思ったが、期待通りの結果はなかった。
楓子はあの後、どうしているだろう。
白沢は、とうとう楓子の家まで行くことにした。
階段を駆け下り、サンダルを履く。普段なら靴だが、正体不明の焦りが、靴を履くだけの一手間を許さなかった。
背後から母の声が聞こえて、「すぐ戻るから」とだけ答え、玄関を飛び出した。
楓子が学校以外の用事で外に出ることはめったにない。メールで家に向かう旨のメッセージを送って、電源を切った。形送った直後に切ったせいでメッセージは送信されなかったが、白沢はそれに気づかなかった。
行き慣れた目的地に行く道中で、白沢はふと足を止めた。
黒ずくめの、背の高い人間が一人、立ちふさがるようにして立っていたからだ。
白沢は驚いて止まっていた。
「白沢詩乃」
黒いパーカーと黒いズボンという格好。白沢はある可能性に辿り着いた。
ストーカーだ。家を知られているということは、つまり、跡をつけられていたということ。
「ひっ」
一気に恐怖に煽られた白沢は、逃げ出すべく走ろうとした。だが、そいつに手首を掴まれ、ぐんと視界が曲がる。
躍起になって手を引こうとしたが、それも敵わない。
「イヤ!」
引き剥がそうにも、力が強すぎる。掴まれている腕が痛い。白沢の手首を拘束している手指は、妙に冷たく、刺すような感触がした。
黒いフードを被った人物は、宥めるように言った。
「私は貴方の味方ですよ」
「うそだっ!」
「貴方、影の妖怪を見た事があるでしょう」
それを聞いて、途端、白沢は表情を一変させた。
「どうしてそれを……」
そいつはふっと笑い、手を離した。白沢は、逃げ出そうとはしなかった。
「私は怪異の祓除を生業としていてね」
そのとき、白沢は気がついた。
「私に協力してくれないかな」
その声が、女性だということに。
白沢は相変わらず、疑いの目を変えない。
しかし、怪異なものを見たことも事実。茨木叶の影が蠢いていたところを、白沢は目に焼き付けている。
そうなれば、聞くしかない。
「それなら教えて。その怪異ってのが何なのか。貴方の考えは知らないけど、協力するかは話を聞いてから決める」
白沢が言うと、女性は「ええ」と頷いた。
「ここで話すのもなんだ、私についてきて欲しい」
「っ、その手にはのら……」
「妖怪のこと、知らないままでいいので?」
白沢は敵意を込めて彼女を睨んだ。しかし彼女に臆する様子はない。
「怪しむのは当然。しかしいずれは、私に感謝することになるさ」
白沢は迷っていた。ついて行った先で何をされるかわからない。殺されることだって、有り得るのだ。
しかしその恐怖より、「妖怪」への恐怖の方が、心の中には大きかった。
楓子が茨木といることで何か酷い目に会うかもしれない。白沢はそれで腹を決めた。
「案内して」
女性は依然顔を見せぬまま笑った。
「喜んで」
*****
女に連れられて、白沢は峠道を歩いていた。
「ここって……」
『緑山峠』と記された看板が目に入った。
緑山峠。暗くなると怪奇現象が起きると噂される場所だ。心霊スポットのような扱いを受けている。
確か、同学年の生徒に行方不明者がいるらしい。
しばらく歩いたところで、白沢は話しかけようと口を開いた。しかし丁度、女は足を止めた。
二人の他には、人っ子一人居やしない。
「自己紹介がまだだったね」
女はそういって振り返った。それから、深く被っていたフードを脱いだ。
ふわっと弾けるように、毛量の多い金髪が飛び出した。
「仕事柄、名前を名乗るわけにはいかなくてね。私のことはAと呼んで欲しい」
Aと名乗った女の顔立ちは、それこそ彫刻や絵画を思わせるような、なめらかな美形だった。青空を閉じ込めたような瞳が、静かにこちらを見据えている。
その首元には、彼女の目と同じ蒼色の勾玉が掛かっていた。
「私を信用してくれた礼として、答を教えよう」
白沢は今度こそ、化け物たちのことを聞こうと決心した。しかし次の瞬間には、両手で口を覆った。
白沢の足元で、黒い影が蠢いていた。
「ひっ」
思わず声が漏れた。
震えて動けない。
黒い影のような生き物は、オオサンショウウオとそっくりの見た目をしていた。違うところと言えば、その双眸が真っ赤であることと、全身が真っ黒なことだ。
「怖がらなくていい。そいつは、君の心の中にいる "怪奇" だ」
怯える白沢を気遣ってか、Aが優しい微笑みを浮かべた。
「怪奇……?」
「人なら誰でも宿している。心に、卑しき怪異を。でも、ほとんどの人間は知ることすらできない。怪異を認識できるのは、蝋折と呼ばれる体質をもつ者だけだ」
Aは話を始めた。
「見える者達は、人の記憶や感情から生まれる怪異を、カゲロウと呼ぶ」
「どうして、私にそれが……」
「君は特別なんだ」
Aはそう言って、白沢の頬に手を当てがう。
名を名乗らない謎の女性。怪異の存在。疑わしき要素しかないのに、白沢は吸い寄せられるようにして、Aの瞳を見つめていた。
「きっと、強い感情を宿すカゲロウを見たことで、奴らのことが見えるようになったんだね。君はやっぱり特別だよ」
「特別……」
「君には素質がある。特別なんだ」
そう頬を撫でられた白沢の目は、催眠術にかかったかのように虚に転じた。
一心に、Aの目を見て。
「君には伝えておかなければいけないことがある」
白沢の頬に当てていた手を、Aは頭に乗せた。
「伝えないといけないこと?」
「カバモトフウコに関わることだからよく聞きなさい」
それを聞いて、白沢は頭に、思い切り殴られたような衝撃を覚えた。
「どうして楓子のことを……!」
表情を変えて激昂する白沢に、Aはそれも見据えていたような瞳で頷く。
「君が怪異を見た時、君の友人の椛本楓子は、茨木叶という同級生と居ただろう?」
それを聞いた時、白沢はハッとした。
「あ……」
白沢の記憶では、転入生の茨木の影が浮き上がり、楓子をいじめるリンを押さえつけていた。
「君も見たろう。茨木叶は危険だ。体の半分をカゲロウに侵食されている。彼女本人がカゲロウのようなものだ」
白沢は考え込んだあと、口を開いた。
「……茨木と一緒にいたら、楓子はどうなるの」
「想像したくないだろう」
白沢はびくりと体を揺らした。
「そんな……」
「安心してくれ。そこで君に協力を頼んだ」Aは真剣な眼光を白沢に浴びせた。「椛本楓子を茨木叶の魔の手から救うには、茨木叶に取り憑いているカゲロウを引き剥がすしかない」
白沢はしばらく恐怖に立ちすくんでいたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「……それで楓子を助けられるなら」
Aは微笑んだ。
「助かるよ。君のお陰で人を救える」
そう言って、Aは白沢の肩に手を置いた。そして紙片を渡した。「これで指示を出す。今日は帰りなさい」
急に帰されて、白沢は混乱したが、Aの促すような目を見て、ここでの反発は無意味だと悟った。
あたりが暗くなり始め、すっかり人もいなくなった頃、Aは峠道で、一人微笑んでいた。
「本当に扱いやすい」




