第七話 死蝋の貴方 其の壱
白沢詩乃は、転入生の茨木叶を気にしていた。
金髪に眼帯という特徴的な見た目はもちろんだが、何より驚いたのは、楓子と異様に仲がいいことである。
もともと知り合いだったのだろうか。詩乃は楓子と幼馴染だが、しかし茨木と会ったことなど一度もなかった。
楓子について知らないことがあるというのは、少し不満だった。
白沢詩乃は完璧な生徒である。
成績優秀で、女子バスケットボール部では二年生ながらに副部長を務めている。次期生徒会会長候補として名高い、まさに模範となる生徒だ。
だが、そんな彼女に嫉妬の感情を持つ女子は少なくなかった。
小学生の頃は、詩乃をよく思っていない生徒、特に笹本とその取り巻き達からの嫌がらせを受けるなんていうのは日常茶飯事だった。
だからこそ、詩乃は楓子のことが心配なのだ。
靴箱には甲虫の死体を入れられ、教室に入るといつも教科書がなくなっていた。詩乃はそういう嫌がらせに、特に何を思うでもなかった。
ただ、楓子が心配だった。
「何者だろ、茨木ちゃん」
廊下を歩きながら、詩乃はうわ言のように呟く。
彼女は、図書室に本を借りに行ったあとだった。
今日は楓子とは帰らず、ばらばらで別れた。彼女ならきっと今頃は、さっさと家に帰ってゴロゴロしていることだろう。
いや、違うか。
確か、楓子は今日、クラスメイトの津田に遊びに誘われていた。
彼女が誘われるとはまた珍しいが、少しずつ人と打ち解けているのであれば、邪魔をするべきでは無い。そう思って、今日は帰りは誘わなかったのだ。
……実を言えば、詩乃がゆっくり本を読みたかっただけなのだが。
その時。
昇降口に、ふと見慣れた姿を見つけた。
しかし、それが意外な人物で、詩乃は思わず首を傾げる。
「楓子?」
忘れ物だろうか……と、呑気なことを考えていた詩乃の脳に、突如、ハンマーで叩かれたような衝撃が走った。
楓子は人と話していた。それも、夏野凛と、である。
「え」
それだけじゃない。
今日転入してきた生徒、茨木も、楓子の隣にいた。が、和やかな雰囲気ではなかった。
詩乃は嫌な予感がした。
駆け出したくなる衝動に駆られたが、それを咄嗟に押さえ、詩乃は周りにバレないように身を屈めた。そのまま、階段の前にあるホワイトボードに隠れた。
遠くて何を言っているのかはわからないが、なにやら言い合っているような声色である。
不安が募ってきた頃、突然、凛が目を見開いたのがわかった。
その表情を見て、詩乃は最悪の展開を予想した。
そしてすぐに、その予想は的中した。
凛が、弾かれたように腕を振り上げた。
「死ね、アバズレが!」
あの腕の振り方、考えるまでもない。
「やばっ……!」
詩乃は咄嗟に身を乗り出したが、間に合わない。楓子が殴られる……!
……しかし、凛の拳は楓子の眼前で止まっていた。
茨木が、凛の右拳を受け止めたのだ。
一瞬、詩乃はほっとしてしまったが、これで終わりじゃなかった。凛は、自分の拳を受け止められたことへの屈辱感からか、肩を小刻みに震わせていた。
しかし。
凛の体は、空気に固定されたかのように動かなくなってしまったのだ。
「え」
詩乃の口から、ふと声が漏れた。
「チッ! なにしやがった!」
凛は暴れようともがくが、その体が自由になることはなかった。
詩乃は驚愕した顔を浮かべたまま、廊下の床に膝をついていた。
凛の怒鳴り声に驚いたわけではない。
凛は気づいていない様子だったが、詩乃には見えてしまった。
凛が茨木に殴りかかろうとした時、茨木の影から、黄金色の幽霊のような怪物が踊り出し、巨大な四肢のようなもので、凛と取り巻き達の体を押さえつけてしまったのだ。
詩乃はその怪物の放つ異質で圧倒的な存在感に、強い恐怖にも似た感情に襲われた。
玄関からは、鬱陶しい日差しが迷い込んでくる。しかし、今この瞬間だけは、心地の悪い寒さが空間を満たしていた。
怪物による拘束を解かれ、自由になった凛は、不承不承去っていった。
その後、楓子と茨木は詩乃に気づかないまま去ってしまったが、詩乃はしばらく、呆気に取られた表情のまま下駄箱の方を眺めていた。
*****
下校時刻の五分前を伝える鐘が鳴り、詩乃の意識は現実に引き戻された。
先刻目にした光景は、脳内にくっきりと焼き付いている。
下駄箱の前に座り込む詩乃を見かねてか、担任の樫木が駆けつけてきた。
「おい、白沢。何かあったのか」
樫木に呼びかけられたが、しかし詩乃は顔を向けないまま、呟くように言った。
「カシキ先生、お化けっていると思いますか」
声は少し震えていた。
「オバケ? なんだよ藪から棒に」
樫木は一瞬意表をつかれたような表情をしたが、眉間に皺を寄せる。
「もしかしたら、いるのかもしれないな。でもどうしたんだ。白沢がそんなことを聞いてくるなんて……」
柄じゃないだろう、と樫木。
詩乃は一瞬固まったあと、とうとう学校を出るべく、シューズを履き始めた。
「いや、すみません。ただの出来心です」
樫木は戸惑いを見せたが、すぐに元の厳格な表情に戻る。「そうか」と言って、職員階段までの廊下を歩き去った。
詩乃はじんわりと汗をかいた手で目を擦り、無理矢理に凛とした表情を作った。
きっと疲れているんだ。お化けなんているわけない。いないはずだ。
楓子には今度、事情を聞こう。それで解決する。
「あほらし。今日は早めに寝よ」
詩乃はとっとと忘れてしまおうと決心し、昇降口を出た。
なるべく考えないようにしていたが、詩乃の脳裏には、先程の光景が鮮明に焼きついていた。




