第五話 虚を夢む 其の伍
時刻は十一時五〇分、三時間目の終了五分前を示していた。
「やっと終わる…」
楓子は机に突っ伏し、成績呼票を手で折り曲げながら、今にも溶けそうな覇気のない声で言った。
楓子は決めた。帰ったら、この前買った牛乳プリンを堪能しよう。とにかく今は、糖分を摂取したい。
今日は特段疲れた。暑さがひどいのも原因の一つだが、いちばんの原因は…
「でねでね? その時お父さん、なんて言ったと思う? あの人、お前に娘はやらん!って。鳩にだよ? もう、笑っちゃうよね!」
………うるさい。
叶は本当によく喋る。周りの声でかき消されるからと、授業中だろうが構わず話しかけてくる。死ぬほどどうでもいい話を延々と聞かされないといけないのだ。隣の席がこいつなんて、貧乏籤もいいところだ。
「ねぇフー子ちゃん聞いてる?」
叶がいやらしい笑顔でこちらを覗き込む。くそうぜえ。
「ねぇずっと無視ぃ? 普通に傷つくんですけどぉ?」
なら話さなければいいじゃないか。楓子はそう呟きそうになったが、我慢した。
「うわぁ、わたし泣いちゃうよ? いいの? ねぇ、ほんとに泣くよ?」
楓子は変わらず無視を決め込んだ。何が悲しくて、メンヘラなセリフを連呼されなければならないのか。
「うわぁ血も涙もないわぁ。悲しすぎて目から牛久大仏出るわぁ」
「…意味わかんない」
「あっ!反応した!」
楓子が呟くと、叶は嬉しそうに、席に座ったまま跳ねた。
が、机に膝を思いっきり打ち、タコのような表情をした。
「痛ってぇ! やべぇ足打った、死ぬ…」
「…死んでしまえ」
「うわー!言っちゃいけないこと言った!チクチク言葉だー!私不登校になっちゃいますぅー!」
叶が両手で自分の肩を抱きしめるような姿勢で仰け反った。
その時、授業終了を伝えるチャイムが鳴った。
「えー、ということで、通知表返却終わり」
樫木が、そう言って起立の号令をかける。
「やっと終わったー!」
「ねぇあとでズダバ行こ?」
「納豆食いたい…」
陽キャのうるさい声が耳を貫く。だが、やっと終わった。この地獄から解放される。
楓子は号令後、そそくさと帰りの準備を始めた。叶が下校中ついてきたりする前に、さっさと帰ってしまおうという算段だ。
だが、誰よりも早くロッカーに鞄を取りに行くと、叶も楓子に張り合うように、素早く鞄を取って帰りの準備を始めた。
叶は、逃がさないよとでも言うかのような、悪い笑みを楓子に向けている。楓子は思わず顔を顰めた。
*****
帰りのホームルームが終わり、樫木が号令をかけた。
「起立! 礼!」
「さいならー」
「さよならー」
生徒達は適当な挨拶をし、鞄を持って各々の行動をする。
机を整え、窓を閉める者。仲のいい友達のところに駆け寄る者。
そんな中、楓子は叶にも詩乃にも目を向けず、そそくさと教室を出ようとした。その時…
「フー子ちゃん、逃がさないよ」
叶が、手をもきもきと動かしながら、楓子の前に立ちはだかる。
楓子は、とても嫌そうな顔を作って言った。
「なんで、そんなに私に絡むの?」
そういうと、叶は一瞬フリーズした後、太陽のような笑顔に戻った。
「そりゃあ君! せっかく同じ学校になったんだから、旧交を温めようと…」
「旧交は意味違うよ…」
そういうと、叶はまあまあと手を振った。その時…
「ねぇ茨木さん、放課後一緒に、新しくできたズダバ行きません?」
突然、叶を呼ぶ声がした。叶に声をかけたのは、クラスの優等生兼お嬢様系陽キャ女子、学級委員の津田真子だった。楓子にとっては一生関わらないような人種だ。
「え、え、私?」
叶は少々戸惑った顔をした。
「そう!茨木さん、折角同じクラスになったから、仲良くしたいなーって!」
真子は、お得意のいい子オーラで叶に絡んだ。
だが叶は嫌がる様子もなく、ぱぁっと明るい笑顔を咲かせた。
「いいですね! じゃあ、フー子も一緒に行こうよ!」
「えっ、あ、いや…」
「え? か、椛本さん…?」
しかし、先ほどまでいい笑顔だった真子は、途端曇った顔をした。
楓子は、「うっ…」と声を漏らした。嫌われているのは知っていたが、ここまでわかりやすい反応をされると辛い。
「だめ、かな?」
だが、涙目の上目遣いで頼む叶を見て、真子は再び明るい笑顔になった。
「い、いや、勿論いいですよ!てことで椛本さん、よろしくお願いしますね!」
「え? いや私は…」
「やったぁ! よかったね、フー子ちゃん!」
叶がぽんぽんと肩を叩く。
「そんな…」
楓子は絶望した顔で、世界の終わりのような声を漏らした。