第三十五話 或る指 其の漆
老父が従業員一覧簿の入ったPCを持ってきてすぐ、鹿野と金守は『神室香織子』の名前を探した。彼女が第三者の口座に不正な送金等をしていないか調べるためだ。そのためには、従業員一覧簿の名簿に記載された店舗内IDが必要になる。
しかし、現在の、過去のどの一覧を探っても、彼女の名は見つからなかった。
「おかしいですね」鹿野は眉間に嫌な皺を集めて云った。「神室は少なくとも昨日までは書店の従業員だったはずですが……」
従業員一覧簿には、ソフトが使われていた。
「神室の名前を消した形跡はない。一旦、隊長に神室の情報の出所を探ってもらうわ」金守は、その言葉に鹿野がうなずくのを確認した。「何か知ってることはないですか」そして老父に話を振った。
「神室香織子という従業員を見たことはありません」
老父が云う。
「ですが、名前だけなら聞いたことはあります」
鹿野はふと、老父の口元が小刻みに震えていることに気が付いた。
「どこで聞いたのか、言えない事情でも?」金守は聞く。「ここには三人だけです」
すると老父は、何かを決意したように唾を呑んだ。
「数年前、或いは十年以上前、私がここで働き始めたころから、時々大柄な男たちが現れるようになったのです」老父は説明をつづけた。だがその声に先ほどまでの流暢さはない。「つい先日のことでした。久方ぶりに、また大柄な男達が来て、何か話していたんです。その会話の中に、神室という名前がありました。しかし、聞いたことは絶対に言うなって脅されて……」
鹿野は少し考えるそぶりをしてから、云った。
「ご協力ありがとうございます」
「偽情報を掴まされてたわけか」金守は小さく唸った。
一度、本部で情報の照合を行った方がよさそうだ。
その時、鹿野は本棚から何かを見つけた。
「あれ……何です?」
その言葉に、金守と老父も鹿野の視線を追う。同時に鹿野は立ち上がり、そこへ歩み寄っていた。
本棚からいくつか本が抜かれた形跡があり、本が傾き、何かが露出していた。
鹿野は周りにあった本をすべて、棚の上に除けた。そして、それを取り出した。
それは金庫だった。
子供の文房具ほどしかない、小さな金庫。四桁の暗証番号を要する金属製のダイヤル[[rb:鍵 > キー]]で固く閉じられている。
「これは……」
「はて、見たことがないですな」
老父と金守も、興味深そうに顔をのぞかせた。
その時、唐突に誰かの声が聞こえ出した。
「どうも、刑事さん」
三人は驚いて周囲を見回した。だが、この三人以外には誰もいない。
そこで、鹿野はまさかと、老父に駆け寄った。
「な、なにを」
「背中を向けてっ」
鹿野は鋭い声で指示をした。途端に老父は焦ったように背中を差し出した。
鹿野は老父のジャケットを調べ、そして見つけた。
小型受信機を。
「私は刑事さん二人には、危害を加えるつもりなどありません」その声は、変声機で声が変えられている。
「え?」
「私は、裏切り者を始末するために、今こうして話しているのだから」
受信機の向こうの声は、落ち着き払った声で言った。
「わ、私……?」老父は、怯えたような信じられないような、泣き笑いのような表情をしていた。「ほ、本当にすまないっ。話してしまったことは謝る! だから……!」
返答はない。
「待っ……!」
その時、金守が一喝した。
「誰だか知らんが、アンタは恐喝罪や。逮捕される」
「逮捕ね」だが、受信機の声は聞く耳を持たない様子で続ける。「それなら、こちらの手札も教えます」
途端に、だった。
老父が自分の喉を抑え、唸り声を上げ始めた。
「どうかしましたか?!」
咄嗟に鹿野が駆け寄り、老父の様子を見る。だが、老父はそれを乱雑な手つきで押しのけた。
「カラスの怪異です」不意に、受信機の声が言った。「船迫さん、貴方は死ぬ。『季節泥棒』の……穢れた悪夢より愛をこめて」
老父の口から、黒い塊が突き出した。それは頭だった。カラスの頭だった。
烏は老父の喉から頭にかけてを縦に引き裂いた。同時に鮮血が噴き出し、鹿野と金守の顔に降りかかる。烏は鮮血を突き抜けて飛びあがると、店の吹き抜け窓を抜け、空へと飛んで行った。
あとには、血だまりを残して倒れる老父だったものと、床に幾何学模様を描いて飛び散った鮮血だけが残った。




