第二十八話 狡猾な蛙 其の壱
泥から浮き上がるかのような目覚めだった。
胸の辺りから、形容しがたい感覚が過ぎ去っていくのを感じた。なつかしい夢を見ていたような気がする。
目を覚ましていちばんに感じたのは、鼻をつんざく消毒液の匂いだった。妙な緊張と不安感が楓子をあおる。
病室とは人を嫌に緊張させるものだ。
人が生まれ、そして没する場所。死に最も近い場所。
寝台車を運ぶ人達が、ガラガラと音を立てて廊下を横切った。
楓子はゆっくりと息を吸い、深い吐息を落とす。通路のベンチに腰掛けている人間は楓子以外にいなかった。
「叶……」
突如として倒れた叶は救急車で病院に運ばれた。楓子は付き添いとして付いてくることになった。
曰く、命に別状はないらしい。何事もないことを願うばかりだった。
「喉乾いたな」
ずっと緊張していたせいか、今になって、どっと疲れがのしかかってきた。
お茶でも買おうと、楓子はベンチから立ち上がった。
トイレの前まで歩くと、自販機の並んだ小ぶりな休憩スペースがあった。
投入口に百円硬貨を二枚入れ、お気に入りの麦茶のボタンを押す。だが、待っても受け取り口からは何も出てこなかった。
「嘘っ。売り切れ?」
楓子はもう一度ボタンを押した。が、何も出てはこない。
はぁ、とため息が漏れる。渋々、別のものを買おうとした。
その時、ふと背後から人の気配を感じた。
楓子が振り返るよりも早く、声をかけられた。
「これが欲しいの?」
そこには、楓子とあまり年は離れていなそうな女性がいた。
「えっ……」
楓子は突然のことで驚き、上手く言葉を発せなかった。
「じゃああげるよ」彼女はふっと笑い、手に持っていた麦茶を楓子に差し出した。
「い、いいのですか……」
楓子が返すと、またもアゼミは笑った。
少なくとも同学年では無さそうだ。同い歳でこれほど上品に笑う人間を、楓子は見たことがなかった。
「変な喋り方だね。いいよ、まだ口つけてないし」
"変な喋り方だね"。その言葉が楓子の心を痛めつける。
しかし、麦茶をくれると言うのだ。なんだか申し訳なくも、いい人はいるんだな、と思った。
「じゃ、じゃあ、お金だけでも……」
「ああ、いいって。私の気分だし」
楓子は躊躇いながらも麦茶を受け取った。ふと、彼女の顔に目が向く。
背筋にぞくっと悪寒が走ったのを、楓子は感じた。
彼女の瞳孔は猫のように切れ長で、赤く染まっていたのだ。髪は漆黒。光を吸い込んでしまうんじゃないかと思わせるほどの、完璧な黒だった。
「あの、私の顔に何かついてる?」
ふと彼女が口を開いた。少しまじまじと眺めすぎてしまったようだ。
「えっ、いやあの、その……なんでもないです」
「ええ、ほんとう?」
彼女は困ったように笑った。楓子は彼女から、仄かに嗅いだ事のある香りがしたような気がした。
それが一体、何の匂いだったかは、よく思い出せなかった。
「私、アゼミっていうの」
彼女はアゼミと名乗った。
「わっ、私は楓子です」
楓子がそう答えると、アゼミは「楓子ちゃんね」とはにかんだ。名前を呼ばれ、どこか小恥ずかしくなって俯く。
「……私、友達のところ行かないと」楓子は不意に呟く。
「あー、そっか。じゃあ、また会えたらお話しよ」
「は、はい……あ、麦茶ありがとうございます」
礼を言うと、アゼミもにこりと微笑む。
また、という言い方に、楓子は妙な引っ掛かりを感じた。
*****
一定間隔で並ぶ銀の扉が、視界を流れていく。病室廊下を歩くと、どうしても弱まることのない死の気配を感じてしまう。
楓子の足取りは決して軽いとは言えない。だが、はじめに比べればマシになった方だ。
先ほど、アゼミに貰った麦茶を口に含む。味わい慣れた、濃厚ながらも爽やかな旨みが喉を潤す。
小さな影が見えた。
「ん、なんだあれ」
小さな影……それは、本当に影だった。
その姿には見覚えがあった。動物特番で、人の肩に乗っているのを見たことがある。確か、スローロリスという動物だ。
だが違うのは、そいつの体はもやにかかったように真っ黒だということだ。
それは、すばしこく動き、三九六と番号の振られた鉄扉のノブにしがみついた。巨大な二つの瞳は赤く異様な輝きを放っている。
「カゲロウ? 病院にまで……」
次の瞬間、楓子の目は見開かれた。あることに気がついたからだ。
三九六号室、叶のいる病室だった。
スローロリスに似たカゲロウは、器用に体重を傾け、ノブを捻って開けた。
「待っ……!」
僅かに開いた扉の隙間から、奴は中に滑り込んだ。明らかに意図した動きだ。楓子は焦って追いかける。
楓子は、少しだけ開かれた扉を押して開け放ち、部屋に飛び込んだ。
静かに目を閉じて布団に包まれている叶の枕元には、カゲロウが佇んでいる。
そいつは布団をボフボフと沈ませながら歩き、叶の首元に、その小ぶりな手をかけた。
そいつは、叶の首に噛みつくべく、ガァッと口を開けた。二本の牙が曝け出される。ドラキュラを連想させるような、鋭く長い、内回りの牙。
「このッ……!」
楓子は走り出していた。
勢いを殺さず、カゲロウと叶のいるベッドに飛び掛かった。
しかし、カゲロウは軽快な動きで回避し、床に着地する。
「おわっ……」
バランスを崩した楓子は、そのまま叶の腹部に顔面ダイブを決めた。叶が「ぐぇっ」と鈍い声を上げる。
「ご、ごめん……!」
楓子は咄嗟に謝る。だが、苦痛の表情のまま固まる叶は、起きる気配がない。楓子のダイブのダメージだけで、幸いにも噛まれずに済んだようだ。
しかし、叶に危険が迫ったというのに何故、ツッキーが反応しなかったのだろう。
いや、そんなことは後で考えればいい。
「あの馬鹿猿……」
スローロリスのようなそいつは、鉄製の床をカツカツと音を立てて走り回っていた。
「次は捕まえて……」
突然、だった。
楓子は首に温もりを感じた。
「え」
その温もりは、すぐに苦しみへと変わった。
「あぐっ……?!」
首を何かに固定されて動けない。引き剥がそうともがくも、びくともしない。そこで初めて、何かの正体がわかった。
誰かの腕だ。首を絞められている。しかし、それだけじゃない。皮膚を突き刺すような、冷たく鋭い嫌な感触がある。
刃物を突きつけられている。
温度を断たれたような孤独な絶望が、楓子の身体を駆けた。
スローロリスのカゲロウは、そんな楓子を叶の隣から眺めている。自身を捉える無機質な双眸に、楓子は悪寒を感じる。
「叫んだら殺す」
背後から脅す声。その声を聞いた途端、楓子の脳は困惑に埋め尽くされた。
「村瀬……くん……?」
「全部、吐いて貰うで。"指" のこと」
指。心当たりのない単語に、楓子の困惑はさらに煽られる。
第一に、何故だ。何故この人が……
楓子を襲った声の主は、楓子の同級生で、肝試しのメンバーの一人、村瀬次郎だった。
*****
「村瀬くん……なんで……」
楓子は戸惑いながら言う。
その言葉に、村瀬は舌打ちで返した。
「惚けんなや。……茨木叶のあの勾玉の事、俺が知らんと思っとるんか?」
「まが、たま……」
楓子は困惑したまま固まる。
村瀬の声色が変わった。
「まさか、本当に知らないんか」
「し、知らないです、何も……」
楓子の頭に、ある考えが浮かんだ。
自分は叶の事を何も知らない。でもこの人からは……村瀬からなら、重要な何かを聞き出せるかもしれない。
「ウソはついてなさそうやな。取り敢えずは信用する」村瀬はそう言って、刃物を楓子から離した。
「あ、ありがとう……」
楓子は振り返って村瀬に向き直る。
彼は、質素な灰色のパーカーに黒のズボンという出立ちで、どちらも無地だった。
鋭く、目つきの悪い目。顎には、薄いニキビの痕があった。手に持ったナイフは光を反射して白く光っている。
ぞくりと背筋が冷えた。
村瀬は、「ここで話すのも何や、場所を変えるぞ」と、顎で病室の方を示した。
考えれば色々な疑問があるが、キリがない。自分はあまりにも叶のことを知らなすぎる。
村瀬は表情を変えることなく言った。
「ついてこい」




