第三話 虚を夢む 其の参
楓子は必死に叫んだが、叶は阿呆っぽい顔のまま、カバに上半身をかぶりつかれた。
楓子は思いっきり悲鳴をあげた。カバのカゲロウは、叶の体を飲み込もうと、さらに深く叶を咥えようとする。
叶の体の、すでに六割ほどがカバに咥えられていた。
楓子がやるしかない。なんとか、このカバから叶を助けだすしかない。
しかし、カゲロウの倒し方なんて楓子は知らない。思い出せ、座右の銘。こういう時はとにかく……
楓子は腕を振りかぶり、力一杯にカバを殴りつけた。………つもりだった。
「ごふうっ」
声を漏らしたのは叶だった。
楓子の拳は、叶の顔面を殴っていた。
パンチを繰り出す直前に、カバのカゲロウは叶を口から離したのだ。
楓子の全力右片手突きを頬にまともに受けて、叶は大きくのけぞる
叶の体は宙を舞い、そしてコンクリの地面に倒れた。
「ごっ、ごめんっ」
「フー子ちゃん……」
謝る楓子の顔を見ながら、叶は恨めしそうに唇を震わせていた。
「手加減しろって……」
「んな大袈裟な。そんな痛くないでしょ」
楓子の言葉に、叶は「ばれたか」と嬉しそうに呟くと、バタッと起き上がった。
叶がカバの頭を撫でたところで、楓子は疑問に思った。
「そいつって……いや、そのカゲロウって危なくないの?」
「ああ、大丈夫。こいつは基本無害だからね、多分」
叶はそう言って笑った。最後の一言が少々気にかかるが、叶にはめちゃくちゃ強い「ツッキー」とやらがいるから、大丈夫なのだろう。
「そのツッキーって、叶の影なんだよね。カゲロウは人の記憶が姿を持ったものなんじゃないの?」
楓子はシンプルに疑問を投げかけた。
その質問に、叶は唸る。
「うん、まあ、そこらへん曖昧なんだけど……人って、存在しないものでも名前をつけて概念にするでしょう。お化けとか。そういう人の思い込みから生まれるのがカゲロウなんだよ」
楓子はどう返して良いかわからなかった。
「でも、この子は他のカゲロウとは性質が違うっていうか……つっきーは元々、私のお姉ちゃんの影なんだ」
急な話に、楓子は驚いた声を出してしまった。
「つっきーは……ホントは名前も違うんだけど、私の家では太陽の神様って言われてるんだ。お姉ちゃんはつっきーの器として役目を継いだんだけど、突然いなくなった」叶は、薄く笑うように言った。「何も言わずに消えたんだ。私はその時のこと、なんにも覚えてなくて」
叶の表情は、話とは裏腹に、他人事のような笑みだった。不気味なまでに。
「私の目的は、なんとかしてお姉ちゃんを探すこと」
そう言って笑う叶に、楓子はやっと、言葉を返した。
「姉探し、ねえ」
「それにしても、フー子ちゃんがつっきーに襲われた時は面白かったよう」
そう呟くと一転、叶は愉快そうな顔で言った。
可哀想だとか思ってしまったが前言撤回だ。一回くらい殴っても許されないだろうか。
でも、何故だろう。不思議と悪い気持ちはしなかった。
「日も落ちてきたし、私そろそろ帰るね」
叶はそう言うと、肩にカバンを掛け直す。制服の皺が増える。夕日を背景に立っている叶は、どこか人間離れした雰囲気を醸している。
楓子はその姿をじっと見つめると、一つ息をついた。
「じゃあ、また会えたら」
「ふうん、そんなに私に会いたいの?」
「殴るよ」
「ごめんなさい」
楓子が拳を作って見せると、叶は「怖いねえ」と呟きながら、足早に参道を歩きだした。
だが、何を思い出したのか、真顔で振り返り、楓子のところに戻ってきた。
「忘れてた忘れてた。連絡先交換しよっ! 楓子ちゃん、携帯持ってるでしょ」
唐突な言葉に、「えっ、ああ、うん」と微妙な返答だけが漏れる。
「持ってるよ」
「私は今持ってない!」
「なんだお前」
楓子は思い切り叶の頬をつねった。
「いぃ痛い痛いっ、ごめん嘘! 冗談!」
叶が必死にもがきながら楓子から離れた。あんまり叶をいじるとまたツッキーとやらに襲われそうなので、楓子も勘弁してやる事にする。
「馬鹿なこと言ってないで。連絡先交換するんでしょ?」
「ごめんってば。ちょっと待って」
叶は謝りながら、肩掛け鞄を開いた。
「あっ、これこれ! 私の電話の番号ね」
「ありがと……」
叶は一枚、紙切れを楓子に渡した。楓子はそれを、素早くポケットにしまった。
「気が向いたら掛けるね」
「うん。多分私出ないけど」
楓子がもう一回殴りかかりそうな構えとったあたりで、叶が「冗談だって!」と焦り出した。
「はあ。初対面の他人に対してこんなにイライラするものなんだ」
「えへ」
「褒めてないよ」
調子に乗り始めた叶に突っ込んで、楓子は踵を返した。
「もう行く。じゃあね」
「ええ? もういっちゃうのお?」
「先に帰るっつったの誰だよ」
楓子は一瞬足を止めたが、また歩き出した。今夜はHIASOBIが生放送に出るのだ。このままでは永遠に帰れない気がしたので、無理矢理にでも切り上げる事にした。
「ふぅん、わかった。またねっ!」
「うん、また」
叶の元気な声が参道で響く。名残惜しさもあったが、そのまま神社を後にした。
歩きながら、ポケットから叶に渡された紙切れを取り出す。その紙切れには、番号とともに『友達になれ』と手書きの文字が添えられていた。
「変なやつ」
ぶっ飛んだ子だったな、と楓子は改めて思う。
ほとんどましになった暑さだけが、独り歩く楓子の体に染み込んでいた。




