第二十七話 狡猾な蛙 其の伍
高等部の教室棟は、中等部のそれとは比べられないほど端正だった。
白磁の壁には汚れやひび割れがない。新校舎ということもあってか、不思議と人工的な匂いを感じる気がした。
「夏休みだってのに、また学校に来ることになるなんて……」見慣れない廊下を歩きながら、楓子は不満げに呟く。
昨日、病院を出た後、楓子たちは真子の家に泊まらせて貰うことになってしまった。
初めに話を持ち掛けられた時は、申し訳なさやらなんやらで断った。成り行きで決めていい話ではなかった。がしかし、謙遜心皆無な叶は一切遠慮をしない上、意志薄弱な楓子も結局は真子の言葉に甘えてしまった。
幸いにも義母の朱里は『楽しんできな』と、あっさり許可をくれた。
真子が御泊りのお誘いをくれたのは、病院で説明を受けていなかった叶に先の誘拐事件について話すためでもあったらしく、楓子も自分を納得させる口実ができてしまったため、それ以上はもういいだろうと、考えるのは諦めた。
なんとなくで話は進んでしまったが、楓子は正直なところ、その事件とやらには関わりたくなかった。五年も未解決の事件なんて、現実味のない話についていけなかった。
しかし、困ったことが起きた。
叶が完全に乗り気になってしまった。
考えてみれば、そうなることは想定しておくべきだった。誘拐事件……それもカゲロウ絡みの調査だなんて香ばしい話に、叶が釣られないはずがない。
楓子は何度も『考え直そう』と言ったが、叶は十個ほど年が戻った赤子のように、『私にも協力させて』の一点張りだった。
しかし、叶としても、ただの興味本位ではなく『蝋折としての責務があるから』という理由があるらしく、頭ごなしに否定はできなかった。
終いに楓子も折れた。
殆ど流されるような形で、事件の調査を約束してしまった。
自分はなぜこうにも朝令暮改なのかとつくづく思う。
しかし村瀬と真子に加えて叶が一緒なら、安心できる。詳しくは知らないが、少なくとも村瀬は、カゲロウの一匹や二匹……匹といっていいのか知らないが、仲間にしているのだろう。
なにより、叶にはツッキーという心強いカゲロウがいる。楓子はそう、無理矢理に自分を納得させていた。
そこで昨日、楓子はどんな話が出るのかと気を硬くしていた。……が。
昨日は本当に大変だった。
叶への説明が終わった後、駄菓子屋に寄っていたという国尚が帰ってきたのであるが、帰って早々に発せられた暴言に叶が興奮した。それを収めるので精いっぱいだった。
昨日はそれだけで終わった。
村瀬が『ノイローゼになりそうや』と言っていた。楓子も同意見だった。
就寝間際に真子が『明日、病院にいたアゼミさんって人について調べにいこう』と言ってくれたおかげで話はまとまった。
それだけだ。昨日の進展はそれだけだった。
方針が決まっただけでも良かった。と思うべきか。しかし何も貢献していない楓子にこんなことを言う権利はないのだが。
そしてとうとう、アゼミと話をするために、楓子達は学校を訪れていたのだ。
「中等部棟も、こんくらい綺麗だったらなぁ」
叶が「ええっ」と大げさなリアクションをとる。
「中等部の廊下だって全然きれいじゃんか。何が不満なの」
「汚いわけじゃないけど、高等部が凄すぎる」
「まあ、そうか」
楓子と叶はくだらない会話を交えながら、廊下を歩いていた。すれ違う人びとは皆、楓子を優に超える背丈だ。高校生という存在が与える威圧感は、楓子を委縮させるには十分だった。
「それにしてもそのアゼミって、本当に勾玉を持ってたの?」不意に叶が聞いてきた。
「あぁ、うん……妙に真っ赤なやつだったよ」
「ふぅん」
おかしい、と、今までにないほど真剣な顔で言う叶に、楓子の口からは思わず阿呆の様な声が出た。気を取り直す。
「おかしいって……」
「私の茨木家ともう一つ、薄井家っていう二つの家系……『二大蝋家』なんて呼ばれてるけど、その二家だけは特殊で、当主の記憶を勾玉に受け継いでカゲロウそのものを伝承させてきたんだよ。ツッキーもそれなの」叶は眉間に皺をよせ、顎を突き出すようにして唸った。「だから、勾玉って云うのは茨木家と薄井家で、それぞれ白と黒の一つずつしかない筈なのに……」
つまり、本来は白黒で一つずつしかないはずの勾玉に、赤色があるのはおかしいということだろう。
ただ、すべての勾玉が蝋折繋がりではないはずだ。単にそういうファッションという可能性も……
「いや、ないか」
思わず、自笑気味な言葉が出た。
「なんか言った?」
「なんでもない。それより、弓道場行かないと。こんな遣り取りしてる場合じゃないのに……」
「あっ、余計なこと思いついた!」
「黙れ」
閑話休題。
兎に角。
楓子達は、弓道場に向かわないといけない。
そこが、初めにアゼミを探す担当の場所だったからである。
叶の前途的な脅しを切り捨て、楓子はきょろきょろと辺りを見回した。
アゼミが如才中……正確にはその高等部の生徒だということは、村瀬の友人が特定したらしい。旧友で、インターネットを介した情報追跡はお手の物なんだとか。
畦巳芭。
それがアゼミの本名だった。
如校高等部の二年B組。所属部活は弓道部だが、彼女以外の部員がいないらしい。なんでも、六人居た三年部員は試験前で引退。実はアゼミの同期にもう一人男子部員がいたらしいが、数か月前から不登校。
それでも廃部にはならず、部室だった弓道場は現在空き状態らしい。
楓子と叶の最初の調査場所は弓道場。
村瀬、真子(国尚は如校生ではないため来ていない)の二人は二年B組である。
「あ、これ地図逆だった!!」途端、叶は気が付いて叫んだ。
見ると、彼女の持っている学校案内パンフレット(数量限定)は、向きが上下逆になっていた。表紙に描かれた恐らく学校のオリジナルキャラクターであろう犬が、地面に人差し指を立てている。
「道理でいつまで経ってもたどり着かないと……」
「だ、だってこの地図分かりにくいんだもんっ。製作者、絶対悪意あるよ」
「失礼なことを」
楓子は叶が持つパンフレットを覗き込んだ。
その中の一項目である学校案内の地図を見ると、弓道場は渡り廊下前のトイレの対面の通路の先にあった。
渡り廊下前のトイレ。
楓子の目の前にある。
「ここか」叶は、先ほどの出来事などすべてなかったかのように、弓道場に続く通路に振り返った。
「うん、そうだね……」人ごみや叶の失態で色々と疲れたからか、楓子は既に満身創痍であった。
だが、弓道場に行く前に……と、楓子は叶に声をかけた。
「トイレ行ってくる」
急に尿意が込み上げてきたのだ。
「了解。私ここで待ってるね」
叶はそう言うと、トイレに向かう楓子に、ぶんぶんと腕を振って合図をした。それで周りの眼が集まりだしたので、楓子は気まずくなってそそくさとトイレに入った。
*****
用を済ませた楓子は、洗面台で手を濯いでいた。
夏場でも水道の水は冷たかった。室温が低いのもあるのか、指先が少しだけかじかんできたのを楓子は感じた。
手を洗いながら、ふと鏡に映る自分と目を合わせてみる。
鏡に映る自分は、不愛想な目つきでこちらを睨んでいた。なんだか無性にイライラしてくる。自分の顔だが。
鏡と睨み合って勝手に苛立つだなんて至極不毛なことをしていると、なんだか惨めな気分になってきた。
「あほらしい。さっさと戻ろう」
そう言って、踵を返そうとした。
だがその瞬間、肩にポンと優しい感触が当たった。
「えっ」
楓子は驚愕で固まる。叶の悪戯だろうか。いや、鏡は何も映っていない。
自分の心臓がとびきり大きく跳ねたのを感じた。
カゲロウ……だろうか。鏡に映るのは、情けない表情のまま固まる自分の姿だけだ。でも、カゲロウは云ってみれば怪異だ。鏡に映らないなんてことは、十二分に有り得る。
もし、振り返ってカゲロウが居たら、全力で叫ぼう。そしたら叶が気が付くはずだ。叶が来てくれれば絶対にどうにかなる。
それに、自分はこれから怪異事件の調査をするんだ。この程度のハプニング、切り抜けられなくて如何する。
楓子はそう心を落ち着けると、恐る恐る振り向いた。
途端、からんという音と共に、モップが床に落ちた。
唖然とした表情のまま固まってしまった。
どうやら、倒れてきたモップの柄が肩に乗っかっただけだったらしい。
人生で初めて、モップに激しい苛立ちを覚えた。
「ふざけやがってよぉ」
楓子は体を怒りで振るわせながら、呻きにも近い声を捻り出した。
しかし、唐突に、ある違和感を覚えた。
先ほどまで、楓子の近くにこんなモップはなかった。恐らく、モップは掃除用具入れか何かに入っていたであろう。
なぜ、今ここに。
考える余裕はなかった。
刹那、楓子の口元を、何者かの手が押さえつけたのだ。
声は出せなかった。
驚いて、咄嗟に自分を拘束する手を掴んだ。だが……
「無駄だよ」
続けざまに背後から聞こえた声。その声に、楓子は目を見開いた。
アゼミの声だった。
「ちょっと大人しくしてね」
彼女は楓子の耳元で呟いた。
そのとき、楓子は彼女から、仄かに嗅いだことがある香りがした気がした。昨日、病院で麦茶を奢ってもらった時にも感じた、どこかツンとくる不思議な香り。
そうか。
今、はじめて気が付いた。逆にこれまで、何故気が付かなかったのだろうか。
これは、カゲロウの香りだ。




