第二十六話 ひと夏の白昼夢 其の漆
屋台が集まる場所とは離れた公園のベンチに、楓子と孝史は並んでいた。公道に近いが、緑に囲まれた場所だ。
祭り騒ぎの音がやたら遠く聞こえる。
少しだけ、昂っていた心が落ち着いた気がした。
「詩乃ちゃんって面白いね」孝史が、地面を眺めながら言った。笑い声のようだった。
楓子は少しの間のあとで、「私とは真逆で明るいからね」と返した。
孝史の苦笑が聞こえた。
「でもさ、真逆なのに仲良いってすごいよね。心が通ってるっていうのかな」
「言い方だよ」
孝史の言葉に、楓子は少し照れた。
詩乃と仲が良いふうに見られると、無性に嬉しくなる。実際、仲がいいのは事実だが。
そのときだった。
楓子の見つめていた地面に、影がかかった。詩乃が返ってきたのかと、顔を上げる。
楓子は、一瞬で身体中の体毛が逆立つような、そんな感覚に襲われた。
「…………………え」
声が漏れる。
「どうしたの?」という孝史の声も、耳に入らなかった。
……何故だ。
何故、今になってこいつが。
楓子の眼前には、学校で見たのと同じバケモノが、涎を垂らして立っていた。
『それ』は、カタカタと不安定な牙を揺らしながら、孝史に向けて喉を鳴らしていた。
孝史は未だきょとんとした表情を浮かべている。
自分にしか見えていないんだと、楓子は気がついた。
「たけしっ」楓子は震える声で、孝史を呼ぶ。
彼は、「大丈夫? 顔色悪いけど……」と、怪訝そうな顔で言った。
走って人が多いところに行けば、逃げ切れるだろうか。
前に出会した時も、全力で走って逃げた。そしたら、気づいた時には、バケモノの姿はなかった。
楓子は息を呑んだ。
「あっ、あのさ孝史。ちょっと移動しない?」楓子は自分の顔が引き攣っているのをなんとか誤魔化そうと、笑顔を作りながら言う。頰が震えるのを感じた。
「いいけど」孝史は怪訝そうに声を落とした。「詩乃ちゃんは?」
楓子はもう、逃げ出してしまいたかった。
「し、詩乃も多分、私の考える事ならわかると思うし、逸れてもあとで合流できると思うんだっ」
楓子は必死に説得する。
一刻も早く、ここから離れないといけない。詩乃には悪いが、後で合流すれば大丈夫なはずだ。
「とっ、とりあえず、今は此処を離れ……て……」
楓子の声は、もぎ取られたように止まった。
孝史の腹部から、怪物の腕が飛び出していたのだ。
「か……はっ……」孝史の喉が、空気を絞られたような音を出す。怪物の腕が貫通したにもかかわらず、孝史の身体には傷一つついていなかった。出血もなく、まるで幽霊がすり抜けたみたいに。
楓子は声を出せなかった。
怪物は、幾度か指を動かすと、なにかをつかんだ。その『何か』は、服ごしに赤い光を発していた。
心臓だ。
孝史の、心臓。
瞬間、怪物は孝史の心臓を握りつぶした。
怪物の腕は、ようやく孝史の身体から引き抜かれた。孝史の身体は、糸の切れた操り人形のように地面に倒れ込んだ。
やがて、怪物の視線が、楓子に向いた。
友人が物言わぬ体に成りはてる一部始終を、楓子は声も出せずに見ていた。今起きていることが現実だと、到底思えなかった。
思いたくなかった。
震えが止まらない。
怪物の毛玉のような体から、幾つもの腕のようなものが飛び出した。それらは全て、楓子に伸ばされていた。同時に、バケモノの毛玉の様な体が、ぶわっと膨らむように逆立った。
腕は、楓子の両肩を掴む。楓子は固まったまま、静かにバケモノを見上げていた。
腕のうちの一本、バケモノの腹の下から伸びているとびきりおおきな腕が、楓子の胸元に伸ばされた。
その時だった。
刹那、黒い奔流が空を滑るように飛翔し、バケモノの巨躯を吹き飛ばした。




