第十八話 ひと夏の白昼夢 其の伍
刹那、黒い奔流が、バケモノを横殴りにふき飛ばした。
それはかなりの距離を飛び、数十メートル離れた地点の芝生に倒れ、静止していた。
バケモノを弾き飛ばした漆黒の……ぼやけた影のような見た目をしたそれは、空間を漂っていた。
楓子は察した。
こいつも、あの獅子のようなバケモノと同じ『幽霊』なのだろう。
ふと、夜闇に声が響いた。
「間に合わなんだか……」
その声は丁度、孝史が倒れている位置から聞こえていた。
見ると、なにやら男の人が、倒れている孝史の身体を診ていた。
「生気がない……これは……」
「あ……」
楓子の声に、男は振り返った。
楓子は気がついた。
彼は、先刻前に学校でぶつかった、探偵風の鹿打帽を被っていた男だ。
何故、ここに。
男は言葉詰まったかのように、一言も発さなかった。何も言わぬまま、その冷たい双眸を、バケモノが飛ばされていった方へ向けた。
バケモノは黒い幽霊に追い詰められ、うまく姿勢を立て直せない様子でずりずりと後退していた。
獅子のバケモノを追い詰めている幽霊は、いつの間にか人のような形を成していた。
形を成した、といっても、輪郭は震えており、決して細かな形は定まらない。そいつの影の様な体は、一秒たりとも同じ形をとっていない。
その影のような黒い幽霊は、頭に鍔つきの山高帽子を被り、外套にマフラーまで巻いている。やはりどこか人間じみた風貌だ。
その面貌に、目や口と言った人間らしいものはなかった。ただ白い十字線が入っているだけ。
鹿打帽の男がつぶやいた。
「好きにしろ、『文学』」
『文学』と呼ばれた黒外套の幽霊は嬉しそうに手を振り上げた。そのまま、逃亡を図る獅子のバケモノに襲い掛かる。
楓子はやがて、ゆっくりと視線を戻した。
その目に映ったのは、鹿打帽の男と、地面に倒れる孝史の姿。
楓子の喉から、ひゅっと掠れた、声になるはずだったものが絞り出された。
男は、楓子の方を向いた。楓子は何かを言おうとした。しかし、何一つ言葉にはならずに消えた。
男は、鳥裾外套の内ポケットから、あるものを取り出した。
一冊の本だった。
鳥賊墨色の表紙。何の文字も刻まれていない。
今度は、本を持っていないほうの手が、楓子の頭の上に置かれた。
その瞬間、がくんと脚から力が抜けた。
「あっ?」
楓子の口から、意識とは関係なく、反射の声が出る。不思議な感覚だった。辛くも、心地良くも無い感覚と共に、楓子は自分の意識がどんどん薄れるのを感じた。
膝が土についた。しかし、土についた、という事実だけが頭に伝わるだけで、膝自体の感覚はなかった。
楓子はとうとう、意識を手放した。
――――――
暗い。
何も見えない。
何も聞こえない。
何も、感じない。しかし、何も感じない、ということだけは、確かに感じる。
朦朧とする、もはや意識と呼べるのかも定かでは無い闇のなかで、楓子は見た。
本がある。
色はわからない。形も定かでは無い。
ただ、本という概念だけが見えていた。
今度は、てが現れた。
人の、てのひら。こちらも形は定かでは無いが、それが指を広げ、本に近づいたことは定かだった。
――――――
目の前に、木々の枝葉の重なる光景が見えた。
さあさあと静かに揺れるそれを目にして、楓子はようやく、自分がほんとうに木を見ていることに気がついた。
自分が寝転がっていることに気がついた。地べたに。
両ほうの腕をあげて、手のひらを地面につく。それから、土を押して起き上がる。
服を見る。当たり前に、土で薄ぎたなく汚れている。
朱里に怒られるな、と楓子は思った。帰ってから、変な匂いのする、あの洗剤で手洗いをするのだ。そう思うと、楓子はどうしようもなく面倒くさくなった。
かなり長いこと、寝ていたのだろうか。いや、それよりもまず、どうして地べたに寝ていたのか。
そこで初めて、楓子は、疑問を抱いた。
「私、なにしてたっけ」
*****
夜道を歩いていると、祭りの賑わいはほとんど聞こえなくなっていた。
向かいから、誰かが走っているのが見えた。何かを叫んでいる。詩乃だった。その細い腕には、ビニール袋がかかっていた。
駆け寄ってくる彼女。
「なっ、なにしてたの、楓子……タケシくんは?」
タケシ、という言葉に、楓子は困惑した。
「タケシ……? な、何言ってんのさ。それに……私、どうして……」
「どうしてはこっちのセリフだよ!」
詩乃が大声を上げた。
楓子はなにがなんだか分からなくなった。
「タケシくんはどうしたの? 待っててって言ったのにいなくなったから……私探したんだよっ?! それなのに……」
「ちょっ、ちょっと待ってよっ」
大声でまくし立てる詩乃に、楓子は口を挟んだ。だが、詩乃は言葉を止めない。
「ね、ねえ楓子。ほんとうにどうかしちゃったの? そうだ、彼に聞こう。一回三人で話を……」
「だからっ……!」
楓子は詩乃の言葉を遮る。そして、叫んだ。
「タケシって……誰だよっ!」
途端に、詩乃の目が大きく見開かれた。楓子は、得体の知れないなにかが、二人の間を切り裂いたような気がした。
楓子の右頬に、強烈な衝撃が走った。
倒れ込み、地べたにしりもちをつく。
「え……?」
「もう知らないッ」
ぐわんと歪んだ視界に、踵を返した詩乃が映る。「待って」と声をかけようとした。しかし口を開けると、頬の痛みに悶える。
そこではじめて、詩乃に叩かれたことに気づいた。
*****
あれからどうやって家に帰ったのかはよく憶えていない。
「何かあったんでしょう」朱里が、夕飯のカレーにはほとんど手を付けないで言った。「やっぱり変だよ、楓子」
「大丈夫」楓子はそう残すと、食器をそのままに席を立った。
朱里は口を開いた。何かを言おうとしたのだろう。楓子はそれに気付かないふりをした。
彼女にまで、当たり散らしてしまいそうだったから。
「おやすみ」
楓子は一言呟くと、リビングを出た。
詩乃とは、あれから顔を合わせていない。連絡もとっていない。
鉛のように重くなった足で寝室への階段を登る。
楓子はその日初めて、詩乃にもらった花に水をやるのを忘れた。




