第十七話 ひと夏の白昼夢 其の肆
銃口にコルクを嵌め、ズレがないように確認してからフォアグリップを引いた。
左肘を前方に突き出し、左手で右手首を掴む。腕の向きは水平に調節し、照準の位置を目に合わせる。これが、楓子にとって一番安定する構えなのだ。
三人は台上でコルクガンを構え、『じゃがみこ』を狙っていた。
「三人とも凄い真剣だねぇ。是非とも、景品を持ち帰ってくれよう」
褐色肌の店主のゆるい応援が、祭り騒ぎのノイズに混じって聞こえてくる。
楓子は不意に、かたわらの二人に目配せた。
二人とも、コルクガンの銃口をじゃがみこに向けている。準備はできているみたいだ。
楓子は照準に目もとに戻す。じゃがみこのパッケージはそれなりに大きい。人の腕くらいの大きさだから、当てるのは簡単だろう。
だからこそ、倒すのが難しい。射的の景品の獲得条件は撃ち落とすこと。
箱の最も衝撃に弱く、バランスが定まらない場所……上部を狙うのがポイントになる。
ふっ、余裕だぜ。楓子は心の中でそう呟くと、引き金に指を掛ける。そして引き金を……………引いた。
コルクが、パァンという乾いた音と共に放たれる。だが、放たれたコルク弾は、じゃがみこパッケージに当たることはなかった。
「えっ」
それどころか、コルク弾は全く関係のないカエルのぬいぐるみを撃ち落としたのだ。
「ナイスショット」主催の兄さんは、チリンチリンとベルを鳴らしながら、落とされたカエルのぬいぐるみを拾い上げた。
「そん……な……」
楓子は、じゃがみこを逃したという事実に、ただ立ち尽くすしかなかった。絶望で声が出ない。なんということだと、声が漏れた。
立ち尽くす楓子の手に、店主はカエルのぬいぐるみを持たせた。彼は温かい笑顔だった。
しかし、楓子の視線は店主には向いていなかった。
詩乃と孝史が、ニヤニヤと楓子の惨劇を笑っていた。
その表情は邪悪そのものだった。言われなくてもわかる。心の中で、哀れみの言葉をかけているに決まっている。
「くそおっ」楓子は右拳で地面を殴った。だが土は思いの外固く、拳には強い痛みが走った。
「痛ってぇ……!」
楓子は、痛む右拳(自分で痛めた)を、痛みが収まるように左手で抑えた。
その時だった。
パァンと乾いた音が鳴った。
楓子ははっとした。体を起こすと、詩乃がコルクガンを構えたまま固まっていた。
楓子は景品のほうへ目を向けたが、じゃがみこは依然として、台の上に佇んでいたままだった。
途端に、詩乃は楓子の方へ振り返る。
「外しちゃった」
詩乃の表情は満面の笑みだった。
そんな矢先、再び銃声が響いた。
楓子は目を向ける。
孝史は満足げに、構えていたライフルを下ろしていた。同時に、じゃがみこのパッケージが、台の上でグラグラと揺れ始めた。
揺れたじゃがみこは数秒間、台の上で揺れながら耐えていた。だが、二、三秒の沈黙のあと、じゃがみこは台から落ちた。
孝史が撃ち落としたのだ。
楓子の口から感嘆の語が漏れた。
店主は鈴を鳴らしながら、「ナイスショット」と、楓子のときと全く同じリアクションをした。
撃ち落とされたじゃがみこは、彼から孝史に手渡された。
「すっ、すごいじゃんっ」詩乃も驚きを隠せていない様子で、孝史に言った。「これ、結構難しかったよ」
当たりもしなかった奴が何を言っているんだ、と楓子が罵倒すると、詩乃も、同じようなもんだろ、と抗議してきた。
しばらく、孝史の興奮がおさまることはなかった。
*****
カエルのぬいぐるみを、軽く握ってみた。
右手に力を込めると、カエルの土色の体はぐにゃぐにゃと形を変えた。
しばらく弄んでいるうちに、楓子はそのえに云えない感触にやみつきになっていた。
「気に入ってんじゃん」
大張テントを出たところで、詩乃が、楓子の手元に顔を覗かせて言った。
「触り心地いいから」
それは楓子の本心だった。
結果、じゃがみこを手に入れたのは孝史だった。
ただ、流れ弾で取ったこのカエルを、思いの外気に入ったので、楓子としては満足していた。
うふふ、と隣で、満足げな笑い声が聞こえた。
「じゃがみこ食べるの楽しみだなぁ!」孝史は喜びを抑えられないといった様子で言った。
何度聞いただろうか。そこまで喜ぶものだろうか。
「次はどこ行こうか」
不意に、詩乃が切り出した。
時間は有り余っているが、楓子もどこか回りたい気分だった。なによりも空腹だった。屋台を楽しみにして、わざわざ軽食で済ませているのだ。
「私、お腹すいたよ」
楓子が言うと、孝史も便乗した。
三人の意見は、とにかく何かを食べようということで合致した。
通りを歩くと、醤油やソースの香ばしい匂いが絶えず漂ってくる。
「何にしようかなあ」
「あっ、私、あそこの焼きそばにする。今炭水化物摂りたい気分!」詩乃がそう言って指さしたのは、『やきそば 大もり四百円』という謳い文句をあげていた屋台だった。
「いいねえ焼きそば。僕にも分けてよ」
「仕方ないなあ」
詩乃と孝史は『屋台で何を食べるか』という悩ましい議題について、考えを巡らせているところだった。
「ところで、楓子ちゃんは何にするか決めた?」不意に、孝史が楓子に聞いてきた。
「えっ……私は、えっと……」いきなりで、途端に楓子は言葉詰まる。毎回そうだ。楓子は食べるものを決めるのが遅い。
「焼き鳥かな」
少し悩んで、楓子は言った。
「焼き鳥かぁ」孝史が嬉々とした顔をする。
「それなら、みんなで買って分けようか」詩乃も乗り気な様子で、嬉しそうに表情を綻ばせた。「私、焼きそば買ってくる!」
屋台に向かって走っていく詩乃に、楓子たちは手を振った。
*****
屋台が集まる場所とは離れた公園のベンチに、楓子と孝史は並んでいた。公道に近いが、緑に囲まれた場所だ。
祭り騒ぎの音がやたら遠く聞こえる。
少しだけ、昂っていた心が落ち着いた気がした。
「詩乃ちゃんって面白いね」孝史が、地面を眺めながら言った。笑い声のようだった。
楓子は少しの間のあとで、「私とは真逆で明るいからね」と返した。
孝史の苦笑が聞こえた。
「でもさ、真逆なのに仲良いってすごいよね。心が通ってるっていうのかな」
「言い方だよ」
孝史の言葉に、楓子は少し照れた。
詩乃と仲が良いふうに見られると、無性に嬉しくなる。実際、仲がいいのは事実だが。
そのときだった。
楓子の見つめていた地面に、影がかかった。詩乃が返ってきたのかと、顔を上げる。
楓子は、一瞬で身体中の体毛が逆立つような、そんな感覚に襲われた。
「…………………え」
声が漏れる。
「どうしたの?」という孝史の声も、耳に入らなかった。
……何故だ。
何故、今になってこいつが。
楓子の眼前には、学校で見たのと同じバケモノが、涎を垂らして立っていた。
『それ』は、カタカタと不安定な牙を揺らしながら、孝史に向けて喉を鳴らしていた。
孝史は未だきょとんとした表情を浮かべている。
自分にしか見えていないんだと、楓子は気がついた。
「たけしっ」楓子は震える声で、孝史を呼ぶ。
彼は、「大丈夫? 顔色悪いけど……」と、怪訝そうな顔で言った。
走って人が多いところに行けば、逃げ切れるだろうか。
前に出会した時も、全力で走って逃げた。そしたら、気づいた時には、バケモノの姿はなかった。
楓子は息を呑んだ。
「あっ、あのさ孝史。ちょっと移動しない?」楓子は自分の顔が引き攣っているのをなんとか誤魔化そうと、笑顔を作りながら言う。頰が震えるのを感じた。
「いいけど」孝史は怪訝そうに声を落とした。「詩乃ちゃんは?」
楓子はもう、逃げ出してしまいたかった。
「し、詩乃も多分、私の考える事ならわかると思うし、逸れてもあとで合流できると思うんだっ」
楓子は必死に説得する。
一刻も早く、ここから離れないといけない。詩乃には悪いが、後で合流すれば大丈夫なはずだ。
「とっ、とりあえず、今は此処を離れ……て……」
楓子の声は、もぎ取られたように止まった。
孝史の腹部から、怪物の腕が飛び出していたのだ。
「か……はっ……」孝史の喉が、空気を絞られたような音を出す。怪物の腕が貫通したにもかかわらず、孝史の身体には傷一つついていなかった。出血もなく、まるで幽霊がすり抜けたみたいに。
楓子は声を出せなかった。
怪物は、幾度か指を動かすと、なにかをつかんだ。その『何か』は、服ごしに赤い光を発していた。
心臓だ。
孝史の、心臓。
瞬間、怪物は孝史の心臓を握りつぶした。
怪物の腕は、ようやく孝史の身体から引き抜かれた。孝史の身体は、糸の切れた操り人形のように地面に倒れ込んだ。
やがて、怪物の視線が、楓子に向いた。
友人が物言わぬ体に成りはてる一部始終を、楓子は声も出せずに見ていた。今起きていることが現実だと、到底思えなかった。
思いたくなかった。
震えが止まらない。
怪物の毛玉のような体から、幾つもの腕のようなものが飛び出した。それらは全て、楓子に伸ばされていた。同時に、バケモノの毛玉の様な体が、ぶわっと膨らむように逆立った。
腕は、楓子の両肩を掴む。楓子は固まったまま、静かにバケモノを見上げていた。
腕のうちの一本、バケモノの腹の下から伸びているとびきりおおきな腕が、楓子の胸元に伸ばされた。
その時だった。
刹那、黒い奔流が空を滑るように飛翔し、バケモノの巨躯を吹き飛ばした。




