第十四話 或る指 其の壱
本にのめり込んでいる間は、自分に関わろうとしてくる全ての情報から目を背けることができる。
音であったり姿あるものであったり、雑念……つまりは思考であっても遮断できる。
ランボオのノヴェレットを閉じると、丹田からじんわりと何かが染み込んでいくような感覚があった。
仄かにペパーミントの香りがする自動車内の窓辺で、鹿野衣織はぼんやりと朝方の恩田駅を眺める。
鹿野が乗っているのは銀のセダン。神奈川県警の白面車両だ。
その時、助手席のドアが開き、「鹿野ォ」と声を掛けられた。同僚の金守だ。
「珈琲買ってきた」
彼は助手席に乗り込みながら、鹿野に缶コーヒーを差し出した。左手にはもう一つ持っている。
「どうも」そう言って受け取る。
「相変わらずの詩篇趣味かい。そろそろやぞ」
金守が自分の左腕にかかった銀色の腕時計をつつく。時計の針は九時丁度を示していた。
鹿野が受令機をとった。「機捜一○三、これより青葉署管内の重点密行に入る」
了解の返事を聞いてから、鹿野は受令機を置いた。
「今日の任務は張り込みも兼任やと」金守は珈琲を飲みながら愚痴った。「所轄の人使いの荒さはどうにからならへんのか」
「金守さんは刑事歴長いでしょう。なんとか言ってやってくださいよ」
鹿野はくたびれた声で答え、リモコンキーを差し込む。聞き慣れたエンジン音が鳴った。
「くだらねえ反抗なんてしてたら、お前の相棒から外されてまうわ」
金守はそう言って、缶コーヒーをカップホルダーに置いた。
鹿野はショパンのCDを止め、アクセルを踏んだ。恩田駅のパーキングを出て北上する。
今日は七月二五日の金曜日。機捜の任務は重点密行に限られるが、今回はとある中高一貫校の張り込みも兼ねている。
七月に入った途端に、学生の行方不明者が相次ぐようになったのだ。その行方不明者のほとんどが、如才中等教育学校という学校の生徒だった。
「物騒な話ですね。金守さんはどう思いますか」鹿野が運転しながら言う。
すると金守は「その話やけどな」と、薄い笑みを貼り付けた。
「俺は幽霊の仕業やと疑っとる」
「また幽霊ですか」鹿野は僅かながら、眉間に皺を寄せた。
「鹿野お前、全く信じてへんな。俺が大阪府警にいたころは……」
「その話、何回目ですか」
鹿野がため息をつくと、金守は手をダッシュボードに乗せ、トントンと指を鳴らした。
「まあ聞け。逆に、鹿野はどんなふうに考えとるんや」
唐突な問いに、鹿野は運転しながら思案する。
「被害に遭った学校は二校。失踪時期からして、同一犯か、複数人による誘拐の可能性が高いかと」
「へえ。流石、いかにもな仮説やな」
その時、金守の受令機を通して指示が入った。
『県警から各局。青葉署管内山道にて男性の遺体入電中。現状は県道一三九号沿い緑山峠……』
「住吉神社から向かいます」
金守はそう言って受令機を切り、鹿野に目で合図をした。鹿野は交差点でハンドルを切った。
*****
山道に入ってしばらく行くと、乗用車立ち入り禁止と書かれた看板が見えてきた。
「ほな行くか」
「ええ」
鹿野は金守と同時に車を出る。
しばらく歩くと、先行した若い警官が何やら少女に聞き取りをしていた。現場にはすでに大勢の野次馬が群がっている。
警官は初動鑑識官の田村という男。真逆、もう到着しているとは思わなかった。
彼は二人に気付いたようだった。
「あっ、お二方。ご苦労様です」
「随分到着が早ぇな。そんでそのコが……」
「ええ。この女の子が遺体の第一発見者です」
田村の隣にいる、制服を着た三つ編みの少女は、礼儀正しくも深々と頭を下げた。
「白沢詩乃です。初めまして」
「金守や」
「鹿野です、はじめまして」
死体を見たショックでまともに話せないだろうと思っていたが、その白沢と名乗った少女は驚くほど丁寧な物腰で言った。
落ち着きすぎている、とも鹿野は思った。




