第十五話 ひと夏の白昼夢 其の弐
宿題を持って帰り忘れた。
そのどうしようもない事実に気がついたのは、自宅近くの通りに差し掛かった頃だった。
先ほど聞いた、詩乃の『それ、明日までだよ』というセリフが頭をよぎる。今からでも取りに行くべきだろう。
「ああ、めんどくさ」
取り敢えず、荷物だけ整理して自転車で戻ろう。そう決めた楓子は家の玄関扉を開けた。
「ただいま」
いつもはその言葉に返事はない。
だが、今日は違った。靴を脱いでいると、リビングから「おかえり」と、聞き馴染んだ声が聞こえてきた。
直後、声の主は若干の早足で、トタトタと廊下を歩いてきた。
目に映るのは、青いピンで髪を留めた、背の高い彼女の姿。
「久しぶり」
言葉と共に、その瞳が優しく細められた。相変わらず彼女は笑顔が苦手なのだろう。
楓子の同居人である朱里。
言ってみれば楓子の親代わりであるが、実母である冷子の生前から一緒に暮らしているこおもあって、楓子にとっては本当の親と変わりはない。
「帰ってたんだ」楓子は、久しぶりに見る朱里の姿に頬が緩んだ。
朱里は笑いながら答える。
「久しぶりに休み取れたんだ。楓子も元気そうね」
楓子は「まあね」と返しながらそばを通り過ぎ、リビングへ入った。
いつも通り背嚢をかたわらに降ろし、流し台へ向かう。
錆びでざらついた蛇口を捻ると、一瞬遅れて水が流れだす。楓子はそれをガラスのコップに注ぐと、一気に飲み干した。
猛暑の帰路で乾ききっていた喉が、やっと潤いを取り戻した。
朱里は話を切り出した。
「そういえば、楓子は聞いたかな。中学生が行方不明になった事件」
「なんかニュースでやってた」
「そおそ。だから、楓子が襲われないか心配だったんだよ」
朱里がテレビの電源をつける。
「行方不明かぁ」タオルで手を拭いた楓子は、何気なく食卓に目を向けた。
食卓の端には、ニチニチソウが飾られている。薄紫色の綺麗な花だ。詩乃が、誕生日プレゼントにとくれたものだった。
詩乃は花が好きだった。楓子はあまり好きではない。だのに、貰い物に対する義務感からか、気がつけば水をやるのが日課になっていた。
「私、夏祭り行ってくる」
「町内会のやつね。詩乃ちゃんと?」
「まあね」
今日は一人多いけど、と小声でつぶやく。もう一度玄関へと足を向ける。
「ふぅん。十時までには帰ってきなよ」と、背後から朱里の声がした。
玄関の扉を開けて、楓子は適当に返事をした。
*****
辺りはだんだんと、夜の空気になっていた。
楓子が学校に戻った頃には、山の端から覗く橙に、幾筋かの雲がはっきりと見えるようになっていた。
ノートを回収した楓子は、その景色を窓際席から静かに眺めてみる。
将棋倶楽部の人たちは、先ほどまで盤の片付けをしていたらしいが、もう撤収したようだ。空き教室には楓子以外、誰もいない。
湿気た暑さは過ぎ去った。
その代わりに乾いた暑さがやってくる。
詩乃も、もう帰ったのだろう。門限まではあと二十分と少ししかない。
宿題も回収できたし、早く帰ろう。この頃は夕飯は、レトルトで済ますのがほとんどだった。早く帰って、朱里の手料理をたっぷりと味わいたい。
そんな楽しみを思い描きながら、楓子は教室の扉に手をかけた。
しかし。
「あかない」
楓子は、自分が直面した事象を声に出してみた。
扉が開かない。
鍵をかけられたか。しかし楓子が教室に入ったのはつい先ほどだ。となると今先刻……
「いたずら?」
真っ先に思い浮かんだのは笹本たちだった。彼女らが楓子を教室に閉じ込めたのだろうか。だがどうであれ、ここを出れないことには何もわからない。
……上の窓からなら、出られるかもしれない。
教室と廊下を隔てる壁の天井近くには、風を通すための小窓がある。小柄な楓子なら通れなくはないはずだ。
楓子は目の前にあった机に足を乗せた。だが生憎、机の上から背伸びをしても窓には届かない。
なら、重ねればいい。
楓子は一度机から降り、机より少し小ぶりな椅子を持ち上げて、机の上に乗せた。椅子の乗せられた机の隣に、もう一つ机をくっつける。
一つ目の机に乗ると、それを足場にして椅子に足をかけることができる。そこで背伸びをすれば、窓に手首をつけられるほどの高さになった。
「んしょっ」
思い切り足場を蹴り、窓の縁を掴んだ。蹴った椅子が床に崩れ落ち、派手な音を奏でたのが間近で聞こえた。
楓子は窓にぶら下がるような体勢になる。そこから、腕に力を込めた。
「ふんっ」
掛け声と共に思い切り踏ん張ると、窓から身を乗り出せた。
しかし、楓子はそのまま窓から落下してしまい、勢いで視界が大きくぶれる。
直後、背中に衝撃。軽い痛みはあるが、なんとか教室から出ることができたみたいだ。
「やったぜっ」
楓子は歓喜の表情で顔を上げた。
それは一瞬だけだった。
楓子は身体中の血の気が引いていくのを感じた。
目の前にいたのは、文字通り "バケモノ" だった。
大きな毛玉に四肢が生えたような姿。辛子色の毛の間から巨躯を支えるのは、丸太のように太い六本の腕だ。
毛玉の胴体からは、他にも幾本もの腕が生えており、それぞれが自我を持つように蠢いている。
そいつには顔があった。毛玉の中心の出っ張った部分に、お面のような顔がついている。
それは獅子に似ていた。肌は生気のない藍色で、焦点の合わないぐるぐるの目に、裂けたように大きな口を持っていた。
口腔から飛び出た巨大な牙は、バケモノの息遣いにあわせてケタケタと揺れている。
「ひっ」
楓子の口から弱々しい声が漏れ、脚が震える。上手く息ができない。鋭く冷たい空気が、楓子の喉を突き刺す。
"そいつ" は息がかかりそうなほど顔を近づけ、どこを見ているかもわからない目で楓子を見た。
化け物の、生暖かい息が楓子の頬を撫でる。
『逃げなきゃ』と本能が告げる。
動け、動け動け動け動け……!
そう念じ続けてやっと、体は動き出した。
弾かれたように、バケモノから離れる。とにかく、必死に足を動かした。
胸が痛む。息遣いに混じって、悲鳴が漏れる。
授業での短距離走よりも、公園で詩乃と鬼ごっこに興じた時よりも、楓子の足は速く動いていた。
減速せず、渡り廊下を駆け抜ける。階段を最後の数段を飛ばしながら駆け降り、校庭へ繋がる階下を目指した。
楓子を追いかける足音はもう聞こえない。だが、逃げだすことに夢中な楓子はそれに気づかなかった。
その時、楓子は何かにぶつかった。
どんっ、と衝撃が走り、楓子の体が弾かれる。
「いっ」
尻餅をついた楓子は、腰をさする。
咄嗟に閉じていた目を開けると、目の前には人の足。
人にぶつかってしまったようだ。
「あ、すみませ……」楓子が謝ろうと顔を上げる。その瞬間、楓子は声を漏らした。
楓子のぶつかった相手は男だった。男は黙って楓子を見下ろしていた。
楓子が軽く悲鳴を上げたのは、楓子を捉える男の瞳が、氷点下の青氷のような冷気を帯びていたからだった。
「子供か」男は、表情を変えずに呟いた。
どこか幽霊じみた雰囲気。学校にこんな先生はいなかったはずだ。
それに、格好も教師の装いではない。浅葱色の鳥裾外套を着て、頭には朱殷の鹿打帽をかぶっていた。
以前見た推理モノのドラマに、同じような格好をした探偵がでてきた気がする。
「失礼」その言葉と共に、男は楓子の来た階段の方へ急ぎ足で向かっていった。瞬間、彼の首元に、ひもでつながれた黒い勾玉が揺れるのが見えた。
途端に楓子は、はっとして彼に声をかけた。
「ま、まって! そっちには幽霊が……」
だが、楓子の訴えは彼には聞こえなかったらしい。男は楓子に見向きもせず、階段を駆け上がって行った。
もし聞こえていたところで、『幽霊』に関する警告なんて、誰も聞いてくれるわけないが……
「どうしよう……」
追いかけるべきなのだろうか。だが、行ったところで何ができる。楓子はただ、視えるだけ。
「よし、見なかったことにしよう」
そうだ。どうせ、楓子が行ったところで何もできない。他の人に幽霊は見えないのだから、心配することはないはずだ。
それに楓子は、危害を加えてくるような幽霊にあったことはない。大丈夫だ、多分。
楓子が自分を正当化しようと脳内暗示をかけ始めた時、急に背後から声がした。
「楓子っ!」
「ふぉっ」
いきなりのことで、楓子はびくりと肩を震わせた。が、声の主が詩乃だと気づき、ほっと胸を撫で下ろす。
「詩乃……」
駆け寄ってきた詩乃は少し息を切らしながら言った。
「楓子、なんでまだ学校いるのよ」
その問いに、楓子は少し気まずそうに「宿題を忘れて取りにきました……」と呟いた。
そんな楓子に詩乃は、「忘れん坊なんだから」と、仕方なさそうに微笑んだ。そらで思い出した。
橋で会った少年に誘われた夏祭りのこと、詩乃に伝えておかないと。
「ねえ、詩乃」至って自然に、言葉が出る。「今日、夏祭り行かない?」
楓子は詩乃にそう誘った。詩乃は一瞬きょとんとしたが、直後、満足げに頷いた。
「楓子から言ってくるなんて珍しいね。そっか、夏祭りかぁ。わかった、じゃあ一緒に行こっか」
そう言ってにこりと笑った詩乃は、踵を返すと弾むような足取りで玄関の方へスキップして行った。
詩乃のことだから、「勉強しろ」とでも言われてしまいそうだったが、杞憂だった。
詩乃の後を追いかけながら、楓子は不意に、あの蜘蛛のようなバケモノの姿が頭に浮かんだ。
……思い出すと、背筋がぞくりと冷えた。
ダメだ、思い出すのやめよう。折角詩乃と帰れるのだから、あの時のことなどすっかり忘れてしまおう。
楓子はそう思うことにして、玄関から靴を取った。
その時、不意に階段に目がいった。
ぼーっと眺めていると、玄関口から詩乃が「早くっ」と楓子を呼んだ。
化け物の姿はない。それなのに、階段に落ちた翳りの中から、何かがじっと見つめているような気がした。
「うん、今行くよ」
乾いた暑さが、楓子の頬を撫でていった。




