第十一話 水涸れ
「ただいま」
叶はアパートの玄関ドアを開いた。奥の部屋から「おかえり」と祖母の声が聞こえる。
履き慣れた黒いシューズは、バックステーを指先で軽く押すだけで簡単に脱げる。首を圧迫する襯衣の襟ボタンを外しながら、リビングの扉を開ける。
真っ先に目に入ってきたのは、机と並ぶ二人がけのソファで分厚い小説に向き合う祖母の姿だった。
「学校はどうやった?」祖母が手に持つ小説を閉じ、叶に目を向けた。
「最高っす。友達もできたし、今度肝試しにも行くんだよ」
叶が言うと、祖母は皺だらけの顔に、更に皺を増やして笑った。
「それはよかった」
叶は、彼女の隣に腰を下ろした。
「お婆ちゃんはこの家、慣れた?」叶が足を揺らしながら言う。
「住めば都よ。叶と住めて良かったわ」
叶はその言葉を受けて、無意識に口元が緩んだ。
「叶も段々、蒼ちゃんに似てきたね」
「お姉ちゃんに?」叶は怪訝そうに言った。「私、言うほどお姉ちゃんに似てるかぁ?」
「あの子がそこに居るみたいだよ」祖母はそう言ってにこりと笑う。「あの馬鹿息子から、こんなに可愛い子が生まれるとは思わんかったわ」
叶の口から、満足げな笑みがこぼれた。
祖母の言う馬鹿息子とは、叶の父親のことだ。蝋折の家業で、叶を色々な場所へ連れまわしている。
「お姉ちゃん、帰ってくるかな」
不意に叶が呟くと、祖母の眉が少し動いた。
「いつか帰ってくるよ。陽ノ月様も、蒼ちゃんの帰りを待っとるしな」
「つっきーでいいって言ってんじゃん。紛らわしいし」
叶が言うと、祖母は「神様に向かって愛称呼びなんて罰当たりやぞ」と苦笑した。
『ツッキー』は神様である。
叶の姉は、茨木家を代々守っている日照りの神、"陽ノ月" を叶に残して、どこかに行ってしまった。奔放の極みのような人である。
だが、叶は、そんな自由奔放で底なしに優しい姉、茨木蒼のことが大好きだった。
叶は天井を眺めながら、うわごとのように呟く。
「また会いたいな」
祖母は何も言わなかった。




