第九話 The broken memory
「ただいま」
叶はアパートの玄関ドアを開いた。奥の部屋から「おかえり」と祖母の声が聞こえる。
履き慣れた黒いシューズは、バックステーを指先で軽く押すだけで簡単に脱げる。首を圧迫する襯衣の襟ボタンを外しながら、リビングの扉を開ける。
真っ先に目に入ってきたのは、机と並ぶ二人がけのソファで分厚い小説に向き合う祖母の姿だった。
「学校はどうやった?」が手に持つ小説を閉じ、叶に目を向けた。
「最高。友達もできたし、今度肝試しにも行くよ」
叶が言うと、彼女は皺だらけの顔に、更に皺を増やして笑った。
「それはよかった」
叶は、彼女の隣に腰を下ろした。
「お婆ちゃんはこの家、慣れた?」叶が足を揺らしながら言う。
「住めば都よ。あんたと住めて良かったわ」
その言葉を受けて、叶は無意識に口元が緩んだ。
「叶も段々、蒼ちゃんに似てきたね」
「お姉ちゃんに?」叶は怪訝そうに言った。「私、言うほどお姉ちゃんに似てるかぁ?」
「あの子がそこに居るみたいだよ」祖母はそう言って笑う。「あの馬鹿息子から、こんなに可愛い子が生まれるとはねぇ」
祖母の言う馬鹿息子とは、叶の父親のことだ。蝋折の家業で、叶を色々な場所へ連れまわしている。
「お姉ちゃん、帰ってくるかな」
不意に叶が呟くと、祖母の眉が少し動いた。
「いつか帰ってくるよ。陽ノ月様も、蒼ちゃんの帰りを待っとるしな」
「つっきーでいいって言ってんじゃん。紛らわしいし」
神様に向かって罰当たりやぞ、と彼女。
『ツッキー』は神様である。
叶の姉は、茨木家を代々守っている日照りの神、"陽ノ月" を叶に残して、どこかに行ってしまった。奔放の極みのような人であった。
叶は、そんな自由奔放で底なしに優しい姉、茨木蒼のことが大好きだった。
叶は天井を眺めながら、うわごとのように呟く。
「また会いたいな」
祖母は何も言わなかった。
*****
遡ること八日前。
七月十五日、深夜。二人の学生が緑山峠を歩いていた。
一人は如才中学校の生徒、武下信子だ。もう一人は、信子の彼氏である吉武将太。他校に通う信子の同い年である。
「あっつぅ。夜なのに暑いとか世も末だなぁ」
「オレ、眠いよ」
吉武が瞼の重そうな面持ちで呟く。信子は駄弁りながらも、彼を連れてゆっくりと歩みを進める。
「怪奇現象、ねえ」
「真子、ここでやばいのに出会したらしいよ。なんか出たらウケるね」
二人は談笑しながら夜闇を進む。
さふさふと草をふむ音がリズムを奏でている。
「風、寒いな」
信子がうわごとのように呟く。突如、前を歩いていた吉武が足を止めた。
信子は、急に止まった吉武の背中にぶつかる。
「わっ、ちょ、何?」
「………」
彼は何も言わない。
「ちょ、ちょっと、なんか言ってよ」
その時、吉武が振り返りざまに叫んだ。
悲鳴を上げる信子。バランスを崩し、尻餅をついた。
その様子をみて、吉武がふふっと笑う。
「引っかかってやんの」
「もう、驚かせないでよ!」
仕方なさそうに起き上がる信子に、吉武は「ごめんごめん」と半笑いのように謝った。
信子は拗ねたように、くるりと踵を返し、来た道を引き返し始めた。
「もう知らない!」
「ごめんって。軽い冗談みたいなもんじゃん」
ふざけた態度でおどける吉武が気に食わなかったのか、信子は「帰る!」と言って歩き始めた。
しかし、吉武は一向に追いかけてくるどころか、声をかけることすらしなかった。
信子は段々と寂しくなり、また後ろを振り向いた。
「なんで追いかけてこないの?」
彼は返事をしなかった。辺りが暗くてよく見えない。
「流石に傷つくんだけど。将太?」
彼を呼ぶ声は、夜の闇に響き、虚しく消える。
「……ねえ」
吉武のいたほうへ、ひたすら歩く。歩みは段々と早くなり、駆け足になった。
彼の姿は見つからない。信子は強烈な悪寒と不安感に襲われた。
その時、足に何かがぶつかった。
「いたっ」
何があったのだと目を凝らす。しかし、そのとき信子は一気に顔を青ざめた。
「嘘……」
吉武の持っていた懐中電灯が、土の上に落ちていた。
次に、首に何かが触れた。
信子は悲鳴を上げる。
それは手だった。冷たい手が、信子の首を強く掴み、締め上げていた。
「いっ、いや……!」
次第に意識は薄れていく。顔のあたりが一気に冷たくなっていくのが分かった。
「たすけて……」
やがて、信子は地面に倒れた。
背の高い人影が自分を覗き込んでいた。信子は意識が落ちる一瞬前、長い金髪が見えたような気がした。
信子の意識は暗転した。




