第一話 虚を夢む 其の壱
日本から季節が消えた。
二〇〇五年から十年の間に、地球は急激な気温上昇に見舞われた。
テレビでは毎月のように気温変動の推移がニュース報道され、とうとう季節という概念は意味を持たなくなった。
日本での四季の消滅は気候変動や異常気象の影響であると言われているが、某大学の惑星科学科教授はこの説を完全否定している。
世界には、四季のない国は多く存在する。しかし、たったの十年で急激に気温が上昇し、四季の気温が一定になることはまずあり得ない。
政府は、この前代未聞の異常気象に「暑熱恒久化現象」と言う名前をつけ、その原因を調査している。しかし、五年経った今でも進展はない。
「椛本、起きろ!」
先生の叫び声に、楓子ははっと顔を上げた。
周囲のクラスメイト達は、彼女を横目に見ながら、クスクスと笑っている。
「授業中に寝るなと何回言わせるんだ…」
二年一組担任の樫木が、呆れた顔を横に振る。
「すみません」
「謝んなくていいから寝るなよ。あと少しで終わりなんだから」
「はい……」
彼女は面倒臭そうに謝った。
椛本楓子。如才中学校に通う彼女は、夏休み二日前の授業の六時限目、授業終了五分前に、盛大に居眠りをかましていた。
変な夢を見たからだろうか、妙に体がだるく感じる。周りからの、嘲笑うかのようないやらしい視線が頬を刺す。
特に、楓子を毛嫌いしている夏野凛という少女は、刀の切先を思わせるような、鋭い眼差しをもって、楓子を睨んでいた。
彼女に嫌われている理由は、楓子自身も分かっていた。納得はしていない。
楓子には、白沢詩乃という唯一の友達がいる。凛は、詩乃のことをずいぶん気に入っているようで、詩乃と親密な楓子に、いささか嫉妬のような感情を抱いているのだろう。
彼女だけではなく、大半のクラスメイトが、楓子のことを嫌っているが。
それは、楓子がただ陰気だからではない。
彼女は人気のないところで、何もない空間を見つめたり、さも何かがいるかのように撫でるような仕草をするのだ。それをある日、数人の男子に見られ、その日を境に、クラスメイトは楓子を気味悪がり、疎外するようになった。
理由はある。
彼女には、幽霊が見えるのだ。
始まりは楓子が九つの頃、母親が病気でこの世を去った。それからというもの、幽霊が見えるようになってしまったのだ。
幽霊の姿はさまざまであるが、目が血の塊のように真っ赤であること……それだけは皆同じだった。
楓子に、奴らのことは全くわからない。楓子にしか見えないうえに、これといったアクションも起こしてはこない。
だから、勝手に幽霊と呼んでいたのだ。
楓子は、凛の悪態もいつものことだと勝手に納得して、鋭い視線を受け流した。
*****
暑い。
真夏の太陽はアスファルトの地面を焼き、灼熱の大地へと変えている。
「あぢぃ」
鬱陶しい蝉の声が耳を劈く。これだから夏は嫌いだ。
「早く帰りたいよう……でも歩きたくない……」
生気のない声が喉からこぼれた。
まだ、校門を出てから五分も経っていない。
「詩乃はいいなぁ。自転車で帰れるんだもんなぁ」
届きもしない恨み言が宙に浮く。
横断歩道を渡り、民家に沿って舗道されている道路を歩く。
ふと、三十センチくらいの大きさの四肢の生えた丸い生き物が、曲がり角から姿を現した。
「うっ」
楓子は思わず顔を引き攣らせて、唸り声をあげた。
この丸っこい幽霊は街中に何匹かいて、いつも街を周回しているのだ。
可愛いといえば可愛いのであるが、何を考えているか分からなくて不気味だ。
分かりやすい幽霊なんていたことはないのだが。
楓子は、幽霊を無視して長い住宅街沿いの道路を歩いていくと、やがて目の先に、広葉樹に隠れた鳥居がうっすらと見え始めた。
「えぇっと、お賽銭お賽銭……」
鞄から財布を取り出しながら、参道を歩く。
楓子は、夏場はこの神社で涼むのが日課となっていた。
鎮守杜が都合よく日差しを遮ってくれるのだが、この神社が涼しいのには他にも理由がある。
悪霊がいると言われているのだ。
神社に幽霊とは訳がわからないが、何やら昔、ここの巫女をやっていた女性が突然死したらしい。更にその死体の首に、指で掴んだ跡があったことから、怪異が化けて出ると言われ始めるようになったのだ。
「はぁ、涼しい」
楓子は狛犬の像にもたれかかりながら、財布を口に運ぶ。
中の小銭がチャリンと音を鳴らした時、楓子ははっと正気に戻った。
「あっぶねえ!」
危うく水と間違えて財布の小銭を飲むところだった。夏の暑さで少々頭がやられてしまっている。最近は年中真夏のようなものだが……
まずいまずい、と財布をポケットに戻しながら、ふと、楓子は目線を上げる。向かいにある手水舎の前に、人の姿が見えたのだ。
この神社で他の参拝客を見たのは久しぶりだった。
しかも金髪だ。
ばっさり切られ、規則性がなく乱れている短い金髪が目に飛び込んだ。少女だ。
歳は楓子と同じくらいだろう。肩にかけている鞄を、ごそごそといじっている。
向こうを向いていてよく見えないが、少なくとも同じ学校の生徒ではなさそうだ。
同年代らしい金髪の女子なんて、見たことがなかった。そもそも楓子の学校の校則では、髪を染めるのは禁止されていたはず。
しかし、楓子はそれとは別に彼女から何か不思議な雰囲気を感じていた。
存在感が薄いというより、まるで本当に存在していないかのように、気配が無い。人ではなく、立ち木を見ているかのような感覚。
楓子ははっと我に帰った。人のことをジトジトと眺めては、失礼になる。
楓子はそう自分を諭しながら、無理やり気を逸らそうと鞄の中を漁り、折りたたみ携帯を取り出した。
携帯の時刻は十七時五七分を示していた。思ったより長居してしまったようだ。
いつもならまだその辺をぶらぶらしたり、も考えるが、今日だけはそういうわけにはいかない。なんせ、アーティストの「HIASOBI」が地上波の生放送に出るのだ。大の「HIASOBI」好きの楓子にとっては、絶対に見逃すわけにはいかないイベントである。
「そろそろ帰るか」
立ちあがろうと腰に力を入れたところで、楓子は目を見開いた。
金髪の少女の足元を、何かが蠢いていた。
影だった。
彼女から落ちている影が、ざわざわと蠢いていた。
言葉にならない声が漏れる。
さらに、あり得ないことが起きた。
その影は、地面から離れ、空を移動しだしたのだ。
影……もはや影と呼んでいいのかさえ定かではないそれには、目と思わしき二つの赤い点があった。幽霊と同じ、血の塊のような赤い眼。
影は少女の身体を回る様に昇っていき、真上に頭を据えた。警戒しているのか、じっと楓子を見ている。
「ひっ」
影と完全に目が合い、恐怖に声が漏れ出る。
この影は幽霊なのだ。確信はないけれど、しかし直感がそう言っていた。
しかし、他の幽霊とは明らかに違う。楓子はその影に、禍々しさのようなものを感じ取っていた。
現実を受け入れ難かった楓子は、見間違いであることに一縷の希望を託し、目を擦った。
………五秒ほどたって、目を開けた。開けた瞬間、少女の影は元に戻っていると信じたかったが、そんな希望はこの瞬間に、虚しく打ち破られたのだった。
影の色は黄金色になっていた。真っ赤な目だけは変わらずに、楓子を凝視している。それに加えて影の主である女の子も、怪訝そうに楓子を眺めていた。
彼女の眼の片方は白い眼帯で隠されているが、もう片方の眼は隠すのがもったいないほどに綺麗な赤だった。幽霊たちとはまた違う、奥行きのある透き通った赤。あの影は彼女に取り憑いているのではと思ったが、そんなふうには見えない。
この少女が怪異なのかもしれない。
更に、彼女の首元に白い勾玉が掛けられているのを見て、楓子は今すぐにでも逃げ出したい気分だった。
あの女の子はこの神社に住み着く亡霊なのだろう。そうに違いない。
眼帯をした女の子は楓子に向かって歩いてきた。影の幽霊も、彼女についていくかのように近づいてきた。楓子は未だ動けずにいる。
一体、どうするのが正解だ。
眼帯の女の子は楓子の目の前まで来ていた。奥行きのある赤い双眸が、楓子を縛り付けている。
高価ではなさそうな白のシャツは、襟が黄色のリボンで止められていた。黒のスカートは小さくなびいていた。
悶絶している楓子の顔を、女の子はずいと覗き込んだ。楓子は死を予感した。
そのときだった。
「つっきーが見えてるの?」
突然のことに、楓子は驚いて口をパクパクさせてしまった。
「私の影のことだよ。その反応からして、やっぱり君見えてるんでしょ?」
どうやら、彼女の影は「ツッキー」という名前らしい。その雰囲気からは考えられないふんわりとした名前に、戸惑いを隠せなかった。
そんな楓子に構いもせず、彼女はつづけた。
「私は茨木叶。あなたの名前は?」




