不穏な陰
中断を提案されたあの将棋以降、印達は負け無しだった。
つまり、五連敗後の八連勝。
その結果、宗銀を『定角落ち』にまで追い込んでいた。
定角落ち――つまりは常に上手の印達が角行を落とす手合いである。
角行は飛車と並んで非常に強力な駒だ。
これを常に落として勝負になる実力差は四段差ということになっている。
余談であるが、羽生さんは「神様と将棋を指して勝てますか?」という問いに対して「神様が角落ちなら勝てる気がする」と答えたことがある。
つまり、角落ちとは『史上最強格の天才』と『神様』と同じくらいの距離、それくらいの実力差ということだ。
印達の実力は更に一皮剥けていた。
覚醒した天才――いや、鬼才。
『伊藤家に鬼のように強い子供がいるらしい』
その噂は遠く江戸を離れ、京都や加賀にも届いていた。
連勝し余裕がうまれたのか、印達の顔色は若干だが、良くなっている。
相変わらず痩せてはいたが、一時期に比べると明るく笑うようになっていた。
それに対し、宗銀の発する気配は殺気の混じったものだった。
いや、それは宗銀に限らず、印達を睨む大橋本家の目は恐ろしく剣呑である。
それも当然だろう。
同じ段位なのに角落ちの実力差という屈辱に耐えられる勝負師などいない。
もしもいるとしたら、それは勝負師ではない。
+++
宝永七年(一七一〇)三月十九日。
『争い将棋』は第五十四番。
それは対局前の一幕であった。
将棋盤のある部屋。
これから戦う印達と宗銀の二人だけが残されている。
沈黙が二人の間を横たわっていたが、目が合ってしまう。
宗銀の視線は鋭い。
親の敵でもここまで鋭い視線は向けないであろう。
しかし、視線は鋭いだけで、別に害意や敵意が含まれているわけではない。
ただただ、「今日こそは勝つ」という想いを乗せているのだ。
宗銀は印達に慇懃な挨拶をする。
「お早う御座います」
「……はい」
「今日こそは――」
「……はい」
「……印達殿?」
虚ろな表情と不確かな返事の印達に、宗銀が顔を顰める。
実際、焦点が合っていないようだ。
返事も一拍遅い。
「、はい」
「顔色が優れませんが、だいじょ……」
そこで宗銀は真剣勝負の場でこの配慮は無礼かもしれない、と口を閉ざす。
そもそも、負け越しているのだから、そんな余裕もない。
相手は四歳年下とはいえ、自分を上回る棋力の持ち主なのだから――。
「いえ、将棋を指しましょう」
「はいっ」
印達の口数は少ない。
短く頷くばかりである。
印達は宗銀の気迫に気圧されたから不調――というわけではなかった。
純粋に体調が悪かったのである。
周囲も口にせずとも心配していたが、将棋は始まった。
いや、始まってしまった。
序盤から宗銀が有利に局面を進める。
印達は角行がないという上手の不利を必死に覆そうとしていたが、歩切れに苦しむ。
結果、宗銀の優勢のまま、局面は進む。
対局中、印達は頻繁に厠へと席を外していた。
それは将棋の手を読む事に疲れ、気分転換するため――ではなかった。
「ゴホッ、オホッ……」
印達は厠で咳き込んでいた。
音が聞こえないように小さく身体を折り曲げ、必死に発作を鎮めようとしていた。
辛そうで、苦しげで、弱々しい。
「ッ―――――」
ただ咳き込むだけではなく、口元へ当てた手拭いにはべっとりと血が混じっていた。
病の足音。
確かな気配を印達自身自覚している。
しかし、それを他者に気取られないよう印達は気を使っていた。
その理由はたったひとつ。
――ここで中断になってはたまったものではない。
局面はあまり自分に有利ではないが、最後まで諦める気はない。
勝利の可能性が完全に潰えるまで印達は指すつもりだった。
その目から力が失われる事はない。
平静を取り戻すまで落ち着いてからどうにか席に戻る。
五連敗からの八連勝。
敗北の恐怖と勝利の快感。
その葛藤から、印達の中から冷静な判断力は既に失われていた。
そして、奮闘むなしく、この対局は印達の敗北となる。
+++
勝負が終わった後、印達は立ち上がる事もできないほど消耗していた。
まだ十代前半の若者とは思えない、朽れた老木のような体勢で項垂れている。
そして、それに最初に気づいたのは対局相手の宗銀だった。
「……印達殿?」
「…………」
印達は返事ができない。
できるわけがない。
彼は座ったまま、失神していたのだから。
疲労困憊し、体力の消耗が過ぎ、気力で意識を繋げるにも限界が訪れたのだから。
「印達殿!?」
それから大騒ぎだった。
町医を呼び、診断の結果は悲惨なものだった。
印達が患っていたのは労咳である。
いわゆる肺結核。
現代でも多くの人間の死亡原因となる難病だった。
しばらく対局できなくなるほど、印達の体調は悪化していた……。