御城将棋
宝永六年(一七〇九)十月二十二日。
『御城将棋』実施。
その場には、印達も宗銀も出勤していた。
御城将棋とは、年に一回、将棋家の人間たちが徳川将軍の前で対局をするという行事であり、将棋家にとっても最も大切なお仕事であった。
場所は江戸城内黒書院の間で行われた。
余談であるが、現在の関西将棋会館の対局室『御上段の間』はここを模して建てられている。
さて、『寺社奉行支配並遠国町人御礼格式』の規定によると、御用達町人としての将棋家にはいくつかの義務や制約があった。
一つ目は勤務期間。毎年、四月朔日の『お目見え』から十二月七日の『お暇』まで奉公すること。ただし、江戸城内に常勤するのでなく在宅勤務だった。
二つ目は、徳川家の冠婚葬祭には登城して参列しなければならないということ。
三つ目は、毎年秋か冬に出仕して、将軍の御前で技芸を披露しなければならないということ。
四つ目は、その他の行動総てを寺社奉行の指示に従わなければならないということ。
――以上である。
御城将棋とはこの中で、三つ目の義務であった。
さて、この『将軍の御前で技芸を披露せよ』という文言を読むと、御城将棋とは将軍の前で将棋を指せる名誉あるものと思うかもしれないが、そんな事はなかった。
まず、将軍がわざわざ見に来る事が稀。
代わりに月番の老中が観戦する事になっていたが、それも短時間立ち寄る程度。
だから、いわゆる天覧試合や御前試合のような『命懸け』というほどのものでもなかったようだ。
出勤したのに、結局体調不良で指さずに帰宅なんて事もあった。
そもそも、この頃には『内調べ』と呼ばれる作法が取られていた。
それは『予め事前に最後まで指しておいて、それを城内で再現するというもの』であった。
要は、御城将棋は形骸化していたのだ。
しかし、それは仕方ない面もある。
将棋の玄人は一つの局面を考えようと思えば、延々考え続ける事ができる。
何時間でも。
何日間でも。
余談であるが、現代でも『名人戦』など丸二日かけて対局する将棋は存在している。
更には、歴史の中には『南禅寺の決戦』や『天竜寺の決戦』と呼ばれる持ち時間三十時間の将棋もあった。
これはなんと一週間かけて一局の将棋を指した。
達人にとって考慮時間はいくらあっても困らないもの。
だから、御城将棋でも対局中の将棋を中断し、家臣の屋敷へ移動してから指し継ぐという事もあったようだ。
使用時間超過で、城内が使えなくなる事態を避けるために、この『内調べ』と呼ばれる文化は生まれたのだった。閑話休題。
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その日の御城将棋は次の通り。
大橋宗銀五段対二代伊藤宗印八段(印達の父親)。
手合いは角落ちの下手。
伊藤印達対三代大橋宗与七段(大橋分家)。
手合いは香落ちの下手。
ちなみに、上手と下手は、駒落ち将棋の用語である。
対等な勝負をするために、段位差に応じて駒を減らし、実力差を埋めるのだ。
印達も宗銀もこの御城将棋は共に勝利している。
八段は『半名人』、七段は『上手』と呼ばれている。
特に八段は名人一歩手前ということもあり希少な存在。
そんな実力者たち相手に駒落ちとはいえ少年二人は勝利。実力と有望さを遺憾なく発揮している。
天才少年の面目躍如というところだ。
ところで、御城将棋は形骸化することで、別の目的が生まれていたし、楽しみもあった。
こんな記述がある。
『御城では朝晩とも美事な御料理を頂戴した。御膳は朝は二汁五菜で御酒は数献いただき御吸物や御肴も色々出された。一の膳も二の膳も塗り木具で、御菓子は蜜柑と柿で朝晩ともに御濃茶を頂いた。福阿弥老と順阿弥老が料理に御付きになり、給仕は坊主衆がなされた。(増川宏一著・『将棋の歴史』より)』
現代でも将棋のタイトル戦では『勝負メシ』などと中継されるが、それと同種。
遊戯を将軍に披露する御用達町人は御城将棋の際に食事の面で非常に厚遇されていたのだ。
ちなみに、二汁五菜は三汁十一菜の能役者ほどではないが、かなり格式高い待遇なのである。
これは実のところ、幕府からの扱いを悪くさせないために必死の記述だったのだ。
将棋家はそれほど裕福ではなかった。
二汁五菜なんてご馳走はこんな時くらいしか食べられなかった。
しかし、珍しいご馳走に喜び、記して残した――とそんな呑気なわけではない。
《《こんな厚遇を受けるほど、徳川幕府から評価されていた》》と後世に伝えたかったのだ。
以前も二汁五菜だったから、今年もお願いしますということなのだ。
将棋家は将棋の地位向上のために尽力していた。
それは丁寧かつ執拗ともいうべきもの。
子孫たちのためを考えた、涙ぐましい努力の跡であった。
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余談と前振りが長くなったが、ここからが本題。
それは食事中の一幕である。
伊藤宗印は酒で喉を潤してから、息子の印達へ言った。
それは周囲へ聞こえないような小声である。
「午前はなかなか良かった」
「はい」
「飛車を上手く捌かせていたじゃないか」
「はい」
「うまくできていた」
「はい」
主語を意図的に省いているのも、周囲に聞き咎めさせないため。
宗印の語る内容は御城将棋の事ではない。
内調べをする事で大幅に御城将棋の時間は短縮された。
そして、その空いた時間で行っていた『お好み』と呼ばれる指導対局の事だった。
印達は苦笑しながら普通の声で言う。
「正直、なかなか骨が折れました」
宗印は息子の内心を読み取って
「あの御方は達者だからな」
と達者の頭につく「口だけは」という言葉を抜いて言った。
周囲の耳を気にしての小声だが、ご馳走を前にした周囲の人間は、こちらを伺っている様子もなかった。
皆、年で一番の仕事が終わり、その解放感で浮かれている。
形骸化していた御城将棋が生き残った理由が正にそれだった。
指導対局(実践練習のこと)があったのだ。
御城将棋は、将棋好きな大名などの有力者たちへの指導対局があったから残り続ける事ができていた。
現代風に言うならばいわゆる『将棋サロン』としての役割が主目的になっていたのだ。
江戸時代は歌舞伎や相撲など、多くの文化が成熟していた。
その辺りは現代にも通じるが、楽しいことが周囲にたくさんあるのに、他人の将棋の勝敗で一喜一憂できるだろうか?
そこまで娯楽に飢えていた時代ではなかった。
他人の対局よりも自分が将棋に強くなりたいと考え、将棋家に直接指導されたいと考えるのは、自然な流れだったのだろう。
問題が起きたのは次の印達の言葉である。
「僕は納得しておりません!」
と印達はいきなり叫ぶようにそう言ったのだ。
一体、何を?
先程、わざと主語を抜いた自分のときとは様子が違う。
この時になってようやく宗印は怪訝に思う。
――息子はこんなに目が据わっていただろうか?
面に剣呑な色が隠せていない。
加えて、色白な頰も目立って赤くなっている。
十月で気温が高いなんて事はなく、むしろ、肌寒いくらいなのに、である。
そこで宗印ははたと気づく。
息子の膳の上に並べられているのは、御茶だけではなかった。
係の者が誤ったのだろう、御酒も注がれてあった。
――酔っ払ったのか。
さて、仕方のない奴だと宗印は苦笑する。
別に御酒のひとつやふたつくらいで文句は言わないが、帰り道が心配だ。
印達は身体の丈夫な方ではないが、本日は体調も良さそうだ。顔を赤らめている程度で、呂律も回っているので問題ないだろう。
……常ならぬ息子の態度に気づけなかったのは、宗印本人もその一年の大仕事が終わって気が抜けていたからか、単純に酔っ払っていたか……。
そして、印達は大きな声で言う。
「ところで、どうして僕と宗銀殿は同じ段位なのですか!」
場の空気が凍りついた。
一瞬だけ誰もその発言の意味を理解できなかった。
この場で最年少の印達がそんな暴言を吐くなんて誰も思わなかったからだ。
いや、一人だけ。
冷静に、一人だけ聞き咎める事ができた男がいた。
その場で最年長の、四世名人である五代大橋宗桂だ。
彼はもう七十も半ばの老齢であるが、矍鑠としている。
枯れ木のように痩せているが、視線はこの場の誰よりも鋭い。
それは二十年以上も名人として将棋家を支えてきた責任感の現れでもあった。
傍に控えている大橋宗銀の義父でもある。
「印達、それはどういう意味だい?」
「言葉通りです!」
「おい、印達」
と、宗印が慌てて止めようとするが、
「宗印、構わないじゃないか」
「し、しかし……っ」
「さぁ、印達、続けなさい」
宋桂名人は止めない。
顔の皺の間に滲ませているのは、余裕めいた笑みである。
宗銀は印達の言葉に眼球まで赤くしている。
それは羞恥によるものか、怒りによるものか。あるいはその両方を混ぜ合わせた強い敵意か。
「……くっ」
宗銀は言い返さない。
ただ歯噛みして屈辱に耐えているのは、争い将棋三連敗という事実から負け犬の遠吠えにしかならないという判断だろう。
宗桂名人は屈辱に耐える息子の肩をポンと叩く。
血は繋がっていないが、それ以上に才能を認めたからこその親子だった。
軽い接触だったが、そこには信頼と絆があった。
宋桂名人は繰り返す。
「さぁ、印達、言いたい事を言いなさい」
「名人、どうして宗銀殿との争い将棋が『段割り制』なのですか」
「ふむ、不満でもあるのかね」
「はい! 僕は大層不満です!」
そもそも、『段割り制』とは、『同じ段位の人間とは平手。二段差は香車を落として対局など、段位に準じて手合いを定める制度』である。
印達も宗銀も同じ五段なので駒を落とすことはない。
互角の立場として平手での戦いになる。
宗印の慌てようとは相反して、印達は彼岸を覗くような達観した視線で続ける。
「段割りの手合いでは宗銀殿が可哀想ではありませんか!」
それはとんでもない侮辱。
平手では勝負にならないという言葉。
鬼でも発しない、最悪の一言だった。
「可哀想、ね」と宗桂。
「おい、印達、いい加減にしろ」と宗印。
「いいえ、父上、言わせてください! 僕と同じ段では可哀想です! 何故なら、僕の方が明らかに強いのですから!」
それは矜持と若さからくる残酷さであり、酔いがもたらした醜態であり――印達にとって心からの本音であった。
そして、同情から出た言葉でもあったから質が悪い。
四つも年下の印達と争い将棋を指して三連敗。
しかも、途中まで優勢だったのに、宗銀は勝ち切る事ができなかった。
優位に立てても勝てないその詰めの甘さが、明確な力の差というものだった。
言われた宗銀はこみ上げる怒りを、唇を噛む事で耐えた。
袴を摑む手は震えている。
印達の無礼を咎める事はできただろう。
しかし、三連敗という現実が、その無様を許さなかった。
宗銀の口の端から血が一筋垂れた。
ただ、視線を逸らすことはなく、背筋は伸びたまま。
卑屈さも、弱気も、惨めさも微塵も感じさせない姿だった。
だから、そんな宗銀の様子をどう思ったのか、宗桂名人は柔和な笑みを浮かべたまま言う。
「では、『指し込み制』にしてみるかい」
宗印も宗銀も目を丸くする。
しかし、すぐ印達は不敵に笑い、宗銀は視線が鋭くなる。
『指し込み制』とは、『段位に関係なく、両対局者間の勝敗差によって手合いをその都度変えていく制度』である。
もう少し分かりやすく言うと、勝者は敗者に対して駒を落として戦う。
勝者がハンディキャップを負うことで実力差を埋めるのだ。
その言葉に慌てたのは宗印である。
「名人! それは少し……」
「構いません!」
と、叫ぶようにして言ったのはそれまで黙っていた宗銀である。
借りは勝負で返すとばかりの表情だ。決死の覚悟が表情に出ている。
「父上、私も望むところです」と印達も嬉しそうに言った。
こうして収拾がつかなくなり、宗印は「ああ」と天を仰ぐ。
勝負師というやつは、どうしてこうも跳ねっ返りばかりなのか――宗印が今までに幾度となく頭を痛めた問題にため息が出る。
宗桂名人は言う。
「ま、井伊殿と寺社奉行殿に断りを入れるからすぐというわけではないがね」
そして、呵呵と笑いながら、続ける。
「印達、吐いた唾は呑めぬと知れよ?」
それは長年蓄積された辛苦の滲み出た、妖怪のような笑顔だった。
しかし、その鬼気を感じ取れないほど酒で鈍っている印達は「はい!」と嬉しげに頷くだけだった。
後日談。
「父上、どうして争い将棋が『指し込み制』になったのですか?」
その経緯を全く覚えていない印達の姿があり、
「ああ……」
と頭を抱える宗印の姿があった。
――こうして争い将棋は底なし沼のようなものへと進展していった……。