満願
巷間をある噂が満たしていた。
それは様々な人の口の端に上っていた。
それはあらゆる場所――飲み屋であり、床屋であり、湯屋であり、井戸端であり、道端にさえ広がっていた。
男は歩きながら耳を傾ける。
「――『鬼宗看』は本当に凄いな」
「『将棋無双』の噂かい?」
「ああ、誰も解けない難問らしいじゃないか。本当に詰むかどうか分からない。曰く『詰むや詰まざるや』」
「腕前は歴代の名人で随一。詰将棋を創作する腕前も出色。いやぁ、天才ってのはいるもんだねぇ」
「でも、その弟はもっと凄いらしいぞ」
「ははぁ、本当に? 法螺じゃないのかい」
「いやいや、当の『鬼宗看』があちこちで吹聴しているってさ」
「へぇ、ってこたぁ、鬼の弟もまた鬼かぁ」
男は口元が緩むのがやめられない。
男――伊藤宗看は笑いながら内心で呟く。
機は熟した。
いよいよである。
+++
勝てる勝負だから震えないとは限らない。
むしろ、勝てるはずの勝負だから震える場合の方が多い。
勝てないと覚悟している勝負で震えることはないのだから、そう難しい理ではない。
しかし、それは常人の話である。
幼い頃に覚悟を済ませている宗看だ。
今までどんな強敵との対局にも震えたことはない。
死ぬほど辛い勝負などない。
その事実を知っているだけで肝は座った。
しかし、そんな宗看だが、生まれて初めて武者震いしていた。
最初はそれが武者震いと分からず、思わず看寿に対して「小石川へ診療すべきかもな」と軽口を叩いた。
看寿は苦笑する。
「兄上、小石川養生所は通院を受け付けてくれませんよ。そもそも、小石川養生所の目的は貧民救済で――」
「冗談だよ」
「知っています」
「……知っていたか」
「はい、しかし、兄上が冗談なんて珍しいですね」
「それだけ緊張しているんだろうさ」
「他人事のようではありませんか」
「そうか」
「それと、兄上の冗談は心底から面白くないですよね」
「…………そうか」
押し黙る宗看を見て、看寿は楽しそうに笑う。
ちなみに、約一四〇年あまりも貧民救済施設として機能することになる小石川養生所は享保六年(一七二一)に設置されている。
徳川吉宗の行った享保の改革の一貫であり、困窮した都市民たちに対する施策として実現。町奉行であった大岡越前守忠相などが尽力している。閑話休題。
宗看は看寿の笑いが収まってから言う。
「さて、行くか」
「はい」
向かう先は寺社奉行所。
この時、将棋家は革命を行おうとしていた。
元文二年(一七三七)、宗看は『碁将棋席次争い』の訴訟を起こした。
『碁将棋席次争い』とはなにか?
囲碁家と将棋家が同席した場合、囲碁家が上座に座っていた。
それまで、囲碁は将棋よりも上等なものとして、上座を譲るしかなかったのだ。
しかし、宗看はそれが不服であった。
囲碁家と互角の立場にしたい。
別に、将棋家を優遇しろなんて要求ではない。
『家督相続の順に席次を改めたい』という訴訟を宗看は起こした。
それこそが『碁将棋席次争い』であった。
訴えがそもそも門前払いされないために、寺社奉行である井上河内守正之に五段の免状を授けるなど、宗看は入念な手回しを行っていた。
そして、肝になるのが宗看・看寿という天才的な将棋の腕前を持った二人の存在だ。
『将棋無双』という古今最高峰の献上図式を創り上げた。
加賀の強豪――名村立摩を実力で退けた。
それに対して、現在の囲碁家はそれほど卓越した打ち手が存在しない。
世論も『鬼宗看』の武勇伝は感嘆の息を漏らすが、囲碁家の現状には首を傾げる。
つまり、宗看たち将棋家は世論を味方につけるために最善の努力を尽くしていた。
世間で名を高めるだけ高めたのだ。
そもそも、宗看たちは別におかしな言い分はしていないのだ。
同じ遊戯であり、十一月十七日に御城将棋・御城碁と並んで披露する家元同士。
不当に下に置かれている現状を憂いている。
差別されている状況を覆して欲しいという、それだけの話。
理屈も、道理も、実力も、世論も将棋家にある。
宗看にとっての満願――人生を賭けた勝負が実る瞬間は目前に迫っていた。
+++
看寿の瞳には揺れる光が宿っていた。
その気持ちが宗看はよく分かっていた。
「大丈夫なのですね」
「ああ、井上河内守は確約してくれた。これで囲碁家と対等な立場ということになる」
「嗚呼……ついに、ついにですね……」
「今まで頑張った甲斐があったな」
宗看の願いは寺社奉行を味方につけたことで成就が決まった。
「何年もかけて準備した甲斐がありましたね」
「ああ、世論も十分に誘導した。最早障害はない」
宗看は世論を誘導するために必要なものが何かを真剣に考えた。
将棋は決して囲碁に劣ったものではない、と市井の人々が思うために必要な鍵は何か?
その為に重要だと宗看は考えたのがある存在。
歴史に名を刻む天才の存在だった。
宗看は自分がそうであらねば、と思っていた。
その為に努力し、実力を示し続けた。
しかし、看寿という弟の存在がそれを一層高めてくれていた。
独りで成さねばならぬという強迫観念のあった宗看にとって幸いな事だった。
天才という存在は英雄として後世に名を残す。
これで将棋はより高みに昇る。
きっと天国にいる兄上にも届くに違いない。
兄上、俺はあなたの名も残しましたよ。
鬼よりも強い兄の存在を伝えましたよ。
そんな想いで心の裡が満たされていた。
不思議と涙が流れないが、それは静かな喜びだったから。
準備を二十年以上も積み重ねたのだ。
きっと成就した暁に、自然と溢れるものなのだろう、そう感じた。
最早障壁はない。
満願成就。
――そのはずだった。
元文二年(一七三七)九月十七日の出来事だった。
その報せを持ってきたのは、市十郎だった。
息を切らせながら、顔色を変えながら走って知らせに来てくれた。
「旦那! 大変ですぜ!」
「息せき切ってどうしたんだよ。ほら、水だ。落ち着け」
「し、し、し」
「し?」
「死にました」
「死んだ? いきなり、どうした。誰が死んだというのだ?」
「だから、寺社奉行ですよ! 井上河内守が亡くなりました!」
「なんだと……?」
それは後ろ盾だった井上河内守正之が死去したという報せだった。
享年四十二。
流石の宗看も顔を青くする。
唇が震えそうになるが、瞑目して鎮める。
「……それは確かな話なのか?」
「そうですよ! 確かな筋からの情報です!」
「俺よりも早くどうして……いや、そこじゃないな。今からどうするべきか、だよな」
「はい! ど、どうするんですかいっ?」
宗看は考える。
もう詰んだのだろうか?
残り二人の寺社奉行である松平紀伊守信岑と牧野越中守貞通は中立的な立場だ。
いや、井上河内守の遺志を尊重してくれる可能性はあるが、どちらに転ぶか分からない。
彼ら二人はそこまで将棋に興味がなかったから好意は薄く、将棋家を尊重してくれる材料もない。
まだ詰んでいない。
井上河内守の代わりに誰が寺社奉行になるかが要になってくる。
「次に誰が寺社奉行になるかで話は変わるが、知っているか?」
「それが……現南町奉行が有力って話ですよ」
「南町奉行だと? それは本当か?」
「はい」
宗看は頭を抱えて天を仰ぐ。
何故か兄が死んだ時の事を思い出していた。
あの時も蝉の鳴き声が残る季節だった。
夏は喪失の季節なのかもしれなかった。
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しばらくして、新たに寺社奉行に任ぜられたのは現南町奉行、つまりは市十郎の予想通り大岡越前守忠相であった。
大岡越前守忠相は誰よりも公平な奉行だ。
こちらを優遇する資料はない。
心象や評判、現時点での実力や世論よりも歴史を優先する可能性が高い。
何故ならば、公平だからだ。
成就しかけていた宗看の満願が――手からこぼれ落ちていた。




