かり
さてさて、今回の生贄はこの男か、と市十郎は思った。
伊藤宗看の狩りの始まりである。
市十郎はその時、宗看が次に標的にしている男を見張っていた。
平凡な中年男である。
中肉中背で容姿も平凡であり、次の日には忘れているような影の薄さ。
軽口を叩いてばかりの、いい加減な性格をしているらしい。
ただし、将棋はべらぼうに強かった。
宗看を知らなければ、市十郎はこんな強い人間が存在するのかと思うほどだった。
自称、久留島喜内。
つまり、高名な和算学者と同名である。
だが、ほぼ間違いなく噓だろう。
年齢は同じくらいに見えるが、以前は伊野辺看斎と名乗っていたという噂を聞いたことがある。
この自称久留島は将棋で勝ちまくっていた。
将棋はその性質上、いかさまが難しい。
わざと負けることは容易いが、本気の相手に勝つためには実力が不可欠。
本物の久留島喜内であればこの勝ちっぷりにも納得だが、偽者でこの勝ち方はおかしい。
だから、一部には本物ではないか、と勘違いしている者もいた。
だが、ここまで強い人間が無名というのも妙な話である。
その噂を聞きつけた宗看に偵察を依頼され、市十郎は追跡。
そして、今、この場に宗看を呼び寄せようとしていた。
江戸時代は手紙文化が発達しており、飛脚に文を託してすぐに呼び寄せることも不可能ではなかったが、宗看はなかなか現れない。
市十郎は焦れ、膝を揺らす。
「早く来てくだせぇよぉ」
自称久留島はあまり長居を好まない。
さっと勝って、さっと去る。
勝つと賭け金を浚っていくが、小銭程度しか賭けないのでそれほど恨まれもしていない。
ふっかけられても、上手く逃れている辺りは賭け事が好きというわけでもないようだ。
勉強代として進んで挑む者までいる始末。
厳罰化が進んだ最近はお金を賭ける事自体を嫌がる場合もある。
正直、これから起こることを想像すると、市十郎はあまり気分が良くなかった。
宗看は鬼のように強い。
自称久留島喜内がいくら強かろうとも、宗看に敵うとは到底思えない。
おそらくは一方的な展開になるだろう。
多少同情するが、お金を渡されたのだから仕事は最後まで遂行する。
そもそも、宗看は人使いが荒いのだ。
それに呼んだのだから一刻も早く駆けつけるべきではないのか。
市十郎が愚痴っぽくなりつつあった頃、そろそろ、自称久留島の腰が上がりそうだという頃合いだった。
「よう、待たせたな」
「遅いですよ、旦那」
「悪い悪い」
宗看がやって来た。
宗看は有名人になっていたので周囲は注目するが、本人は意に介していない。
市十郎はようやく来てくれたことに胸を撫で下ろす。
そうやって吐息してから気づく。
自称久留島の顔色が面白いほど変わった。
俯き、顔を見合わせないように宗看から視線を逸している。
何故の反応か?
宗看は自称久留島の負けたばかりの対局相手をぞんざいな仕草で退かせ、胡座で腰を下ろす。
「さぁ、指そうぜ」
おおっとその場の人間たちは沸き立つ。
宗看は間違いなく強い。
だが、自称久留島も強い。
これは面白い勝負になるに違いない、と耳目を集めた。
市十郎からすれば結果の見えた勝負に思えたが、それなら一儲けできるので万々歳である。
自称久留島は応える。
「勘弁してくれ……」
宗看はぐいっと身を乗り出して、自称久留島の耳元で囁く。
周囲の人間は聞こえなかっただろうが、市十郎の位置からなら、口の動きで分かった。
しかし、何を言ったかは分かったが、どういう意味かは分からなかった。
――そんなこというなよ、そーけいどの。
+++
自称久留島こと現大橋家当主、七代大橋宗桂は冷や汗を流していた。
伊藤宗看があちらこちらの湯屋や床屋で将棋を指しているという話は聞いていた。
というよりも、現名人が愚痴愚痴と言っていたから嫌でも知っていた。
正直な話、宗桂はそれだけ自由に振る舞える宗看を羨ましく思っていた。
何故ならば、七代宗桂は肩身の狭い思いをしていたからだ。
本来なら大橋家は宗銀が継ぐはずだったのに早逝してしまったため、七代宋桂が継いだ。
自分にはその才も器量も不足している。
あくまでも代理でしかなく、家を潰さない為の苦肉の策なのだ――そんな卑屈な思いが七代宗桂にはあった。
だが、羨ましく思っていたから宗看を真似たわけではない。
ただ、重圧から逃げ出したかっただけ。
そして、逃避が思いの外楽しかったから止められなかっただけ。
宗看が駒を並べ始めたので宋桂も従うようにして続く。
伊藤流。
そして、大橋流。
互いの並べ方は慣れたもので。
ただ心は盤上になかった。
この場からどう逃げ出そうということしか頭になかった。
「さぁ、指そうぜ」
「ああ……」
対局が始まっても腹を括る事ができなかった。
浮ついた心を落ち着けようとすることすらできず、宋桂は震える手で飛車を振った。
選んだ戦法は四間飛車。
「もっと堂々としていろよ。な? お互い様じゃねぇか」
そんなことはない。
少なくとも、宗看のように堂々とできないだけの後ろめたさが宋桂にはあった。
対局は淡々と進む。
パシリ、パシリと駒音の合間で、
「小銭稼ぎがしたかったわけじゃないんだろ」
いきなり宗看にそう言われて、宋桂は息を呑む。
喉が急速に渇く。
見抜かれていたことで、羞恥心に襲われたのだ。
「……っ」
何も言い返せない。
喉が張りつき言葉を返す事ができなかったというよりも、返した言葉に対する宗看の反応が怖かったのだ。
まだ宗看は若いが、異常なほど意志が強い。
将棋の為に生き、自身の実力向上の為に動いている。
そういう大義があるから彼は迷わないし、躊躇もしないのだろう。
そういう大きな器の人間は強い。
後ろめたさが足を引っ張る宗桂とは違う。
局面は進む。
あれだけ大きかった周囲のざわめきも遠い。
「宋桂殿、あんたやっぱり大した強さじゃないか」
「……こっちの方がどう見ても悪いよ」
局面は宗看がやや良く、指しやすい。
まだ勝負が決するほどではないが、じわじわと宋桂の陣地は悪くなっていく。
将棋の形勢判断をする上で大切な点は大きく分けて四つある。
すなわち、『囲いの堅さ』、『駒の損得』、『駒の働き具合』、『手番』である。
しかし、この時代、振り飛車の優れた囲いである『美濃囲い』はまだ開発されていない。
棋譜として残っているのも五十年ほど先になる。
だから、居飛車に対して堅さで勝つということが容易でなかった。
そもそも、当時は序中盤に対する研究が不足している時代だ。
むしろ、弱いから研究するとまで言われていた。
これは昭和の終わりまで変わらぬ常識。
各々の才と知恵、知識を駆使して開拓するしかない時代なのだ。
だから、指し手の器量がそのまま実力に反映され、特に終盤で顕著に現れた。
宋桂は思う。
――どうして、こんな奴がいるのか。
宗看は終盤の踏み込みが異常に鋭い。
まだ詰みのない状況と油断していると、あっという間に負けが転がり込んでくる。
この終盤の正確さなら、献上図式を創っても空前絶後の代物を生み出すだろう。
正に名人になるために生まれてきた男である。
宗桂はそれが――羨ましくも妬ましくもあった。
宗看は盤面に視線を落としながら言う。
「金額は重要じゃなかったんだろ」
いきなり話が戻って、宋桂は頭がついていかない。
「え」
「金が欲しかったから賭け将棋を指していたわけじゃない。真剣に勝負をして、勝つことそのものが目的だった」
「…………」
「あんたが欲しかったのは『戦利品』だろう」
「…………」
「勝ったという実感が一番欲しかったんじゃないのか? しかし、賭博は御法度だ。続けるなら潜るしかないぜ」
将棋には『運』の要素がない。
その場その場での指運というものはあるが、最終的にはそれも実力だ。
賽子や花札との違いはそこにある。
強い奴が勝ち、弱い奴が負ける。
つまり、それは自分を誤魔化せないということを意味していた。
宋桂は大橋家という、将棋家で中心的な役割を果たしてきた名家の当主でありながら、実力が一際劣っていたのだ。
それは彼の誇りを著しく傷つけた。
「――だから、こんな場末で指した」
「…………」
宗桂は言葉が出ない。
実は将棋で勝つことは簡単なのだ。
実力がそのまま現れるとしたら、自分よりも弱い相手と指せば良いだけの話だからだ。
賽子よりも確実性は高い。
将棋家としては実力を揃えるため駒を落とすべきだが、宋桂はそれをしていなかった。
宗看との違いはそこだ。
あえて、勝ちを譲る指し方もしていなかったし、全力で勝っていた。
結果、百戦百勝。
お金を稼ぎたいわけではなかったので恨まれなかったが、一歩間違えば堀にでも叩き落されていただろう。
それほどの勝ちっぷりは、宋桂が将棋家の人間として『弱かった』からだ。
弱いから、強さを確認するために勝つ必要があったのだ。
借り物のような立場で、仮のお面を被り、狩りをしていたのだ。
なんという皮肉だろう。
それを自身の強さが感じられなくなった原因の伊藤宗看に指摘されたのだから……。
しかも、弱い相手と指して勝つことで、こちらに緩みが生まれる。
高みにある為には高い水準で戦い続ける必要がある。
結果、将棋家の人間に勝てなくなる悪循環。
事実、また宗看に負ける。
もう投了するしかない。
その時に宗看が言う。
「その悩み、俺が解消してやろうか」
「え」
「致仕しろ」
致仕――仕事を引退する事だ――をいきなり勧められて、宋桂は驚く。
「それは……」
「あんた、将棋は好きか」
「好きとか嫌いとか……」
そんな感情は超越している。
あえて言えば、義務であり、仕事であり、必要なことだった。
将棋家なのだから、好きとか嫌いとかいう感情は摩耗して遠い彼方だ。
「最初はどうだった? 子供の頃は楽しかったんじゃねぇのか」
自分に才能があると信じられた時代の事はあまり覚えていないが、間違いないだろう。
もう色褪せて思い出せない程昔の感覚。
思い出そうとすると、辛ささえある。
将棋に対して、師父達は厳しくも認めてくれていた。
努力を、その才能を、大したものだと信じられたはるか昔の話。
「…………」
「いや、あんたは今でも将棋が好きなんだと思うぜ」
「え?」
「無聊を託つこともできたはずなのに、今も将棋を指しているじゃないか」
「……それは」
「俺は将棋が大嫌いだった」
「え」
「どうしてこんなものが家業なのか。どうして武家じゃないのかと嘆いたぜ」
そうだ。
その話は亡き伊藤宋印から聞いていた。
次男は侍の真似事ばかりで困るという愚痴を聞いたことがあった。
確かに記憶にある。
「そもそも、簡単だと思ったからな、将棋を」
「……流石だね」
「どこがだ。子供の近視眼でその奥深さが見えていなかっただけじゃないかよ」
将棋の世界の奥深さは宋桂も痛感している。
勉強すれば勉強するだけその果てしなさに目眩を覚える。
それでも義務感だけでその深淵に潜り続けるしかなかった。
「はは、誰だって幼い頃の恥はあるだろう。大人になった恥だって悪いものじゃないさ」
「――しかし、やはり許されない恥もあるさ」
宋桂は躊躇していたが、それを宗看は見抜く。
「ああ、安心しろ。大橋家の事は俺に任せろよ」
「え」
「俺が将棋界を背負ってやるから致仕して構わないぜ」
自分の半分ほどしか生きていないのに、どんな度量なのか。
しかし、その頼もしさは本物であった。
宗看に借りを作るようであったが、任せようと思った。
だから、宋桂は頭を下げた。
「負けました」




