かけ(後)
「駒を落とした方が先に指し始めるんでしたよね?」
「……そうこなくっちゃな」
印寿は駒を並べ始めた。
市十郎はそれに追従しながら軽口を叩く。
「ま、たまにはかかあを喜ばせてやりたいですしね」
「……あんた、嫁さんいるのに博打なんかしているのかい」
「ええ、まぁ。博打で泣かせてばかりですけど」
「その自覚があるなら辞めろよな。博打で身を崩した人間知っているけど、悲惨だぜ」
「そうでしょうねぇ」
「子供は?」
「子供は小さい女の子が一人」
「へー……」
嫁ですらない母娘のことを思い出しながら、市十郎は顔色も変えずに噓を吐いた。
ちょっとした心理戦である。
子持ちの甲斐性なしから毟り取るのは気が引けると考える人間ではなさそうだが、多少は怯むかもしれない。
逆に嗜虐心で燃える人間もいるから、一種の賭けではあった。
「いい加減なところで足を洗った方が良いぞ」
「へいへい」
「棒手振りなんかも難しいかもしれねぇけどな、地に足ついた仕事は悪くないと思うぞ」
もうその言葉には反応しない。
隻腕を同情された気がして、絶対に勝ちたくなったのだ。
その時点でかなり闘争心は掻き立てられていた。
そして、対局開始。
印寿は時間をほとんど使わずに、本当に考えているのか疑わしいほど無造作な手つきで駒を進める。
飛車角香車がないので、駒を盛り上げ、陣を前進させている。
市十郎は印寿の美しい手つきに内心で舌を巻く。
優雅で美しいという意味ではなく、研鑽を積み重ねた人間の、ある種特有の雰囲気があった。
簡単に言えば『自信』なのだろう。
――確かに鬼のように強い。
指し手に一貫性があるのだ。
下手な人間にはそれが欠けている。
確固たる戦術がないから、攻め時と受け時を見誤る。
白痴のように、攻めたり受けたりその場限りの指し手を選んでしまう。
正直、市十郎では見通せないが、一手一手に深い意味があることだけは伝わってきた。
ただし、攻め自体は明らかに無理があった。
市十郎は受けることで、相手の攻めを潰そうとする。
攻め駒が不足している状況では、攻めても繫がるはずがない――そう思って専念する。
市十郎は相手の攻めが受け止められると見たところで、額の汗を拭う。
「旦那、さすがは将棋家です。本当に強いですねぇ……」
実際、負けてもおかしくないほど攻め込まれていたが、駒が一枚足りない。
反撃に転じれば、市十郎の勝ちになる局面だった。
「でも、あんた、そうは思ってないだろ。いや、驚いたよ。思っていたよりもずいぶんと達者だ。確かに二段くらいの実力はあるな。何なら免状書いてやっても良いぞ」
市十郎は瞬間的に肝が冷えた。
それは勝ちが見えた局面だと思ったからこその冷水。
「免状はロハですかい?」
「いいや、有料だ」
軽口は叩けたが、それでも市十郎は喉の乾きを覚えていた。
将棋は運の絡むような遊戯ではない。
勝ち負けは計算の果てに見える。
そういう意味で、現局面恐れる必要はないはずなのに……。
「まぁ、分かるよ。この攻めは実際続かない。俺はどこかで手を戻す必要がある」
そう言いながら、印寿が指したのは今必要とは思えない一手だった。
それまで攻めていたのに、自分の陣形を整えるため王将を動かした一手。
「この一手でそっちはもう勝てねぇんだ」
どうしてその一手で市十郎の負けになるのか理解できない。
口三味線だろうか?
しかし、その認識はその時点の話で十手ほど後に市十郎にも理由が分かる。
確かに相手の攻めは途中で切れて続かなくなった。
その点で、市十郎の読みに間違いはなかった。
しかし、市十郎が反撃しようとすると、相手に駒を渡さなければならない。
そうすると、相手の攻めは繫がり、こちらは詰んでしまうという局面になっていた。
だから、市十郎は『駒を渡さないように攻める』か、『渡しても良い駒を見極めて攻める』か、『駒を渡しても構わないから最後まで詰ませてしまう』か、の三つしか選択肢がない。
だが、相手の王将を動かした一手が問題だった。
それだけで市十郎は先の三つの選択肢のどれも選べない。
つまり、完全に負けの局面だった。
「……そんな……」
「どうだい?」
明らかに兄の印達よりも実力は上だった。
ただ、どれくらい強いのか市十郎では計りきれない。
伊藤印寿。
確かに鬼のような強さだった。
市十郎はしばらく悩んでから投了する。
どうしても勝てない状況で狼狽するほどの無様は晒したくない。
市十郎は開き直って、明るく訊ねる。
「……さて、旦那。あっしに何をさせたいですかい?」
印寿は迷っているようだった。
「俺は将棋で不当に金を捲き上げる奴が大嫌いなんだよ。将棋で金を賭けるなんて不毛だぜ」
「……どうしてですかい?」
「そもそも、お上は賭博を禁止しているだろうが」
「……仲間内でやる分にはそれほど問題ないでしょうよぉ」
余談であるが、将軍徳川吉宗主導の下、賭博は高札に掲げてまで禁止されていた。
ただ、それでも人は賭け事から離れられなかった。
当時は歌遊びですらお金を賭けるのが普通だったのだから、根絶することは非常に困難な道であった。
ただし、それでも賭博は徐々に減りつつあった。
徳川吉宗や南町奉行の大岡越前守たちは『賭博の主犯を死刑』に、『共犯者であっても密告者には銀二十枚を与える』という過激な施策を行っていたからだ。
飴と鞭という非常に現実的な考えで改革を行っていたようである。
しかし、印寿にとってはそういう話ではないようだった。
「将棋はな、強い奴が勝つんだよ。偶然の要素なんてないんだ」
「そうですかい」
「賽子も花札も双六も偶然の要素はあるだろう?
だが、小将棋を考えてみろよ。お互いに最初の手駒は平等。しかも、完全に相手の手が見える形で分かる。それで、交互に指すんだぜ。そんなので賭博なんて、強い奴が巻き上げ続けるだけじゃないか。勝ち負けが最初から決まっているようなものだぜ」
事実、市十郎は弱い相手に勝ちまくっていたので言いたいことは分かった。
そもそも、彼の自慢になっていたのは互いの知性を比べる遊戯だという自覚があったからだ。
「……まぁ、そうですね」
「だから、手合いを揃えるという仕組みが生まれた。駒を落とす形で釣り合いを取る必要があるんだよ」
しかし、太閤将棋は目から鱗の発想だと思うぜ、と印寿は高笑いした。
市十郎は反論する。
「……兄さん、あっしは互いに納得できる形でしか指しませんよぉ」
「ふっかけることはしてるんじゃないか」
「それだって了承を得てからですよぉ」
「ちっ、言い訳がうるせぇ奴だな」
「一方的に悪く言われるのが納得できないだけですよ」
印寿はおもむろに駒を並べ始めた。
規則的に、王将から金、銀と手順を踏んでいるようだった。
特に奇妙だったのは、走り駒(飛車、角行、香車)を最後に並べた点である。
「変わった並べ方をするんですねぇ」
「これは伊藤流っていうんだよ」
「へー」
「知らんか。大橋流もあるんだが……まぁ、それもそうか」
印寿は少しだけ落胆しているようだった。
「でもな、俺は将棋を茶道や香道なんかと同じで『文化』にしたいんだよ」
将棋道だな、と印寿は不敵に笑う。
「そのための作法ですかい?」
「ああ、作法と歴史。文化を作るためにはどちらも不可欠なもんだぜ」
印寿は真剣な目をして言う。
「でだ、あんたに手伝って貰いたいんだよ」
「あっしに?」
何故?
意味が分からない。
今日まで面識のなかった自分にどうしてこんな頼みをするのか。
「具体的には家守として俺に雇われてくれ」
「……意味が分かりやせん」
「ま、あんたなら信頼できるって判断しただけだ」
正直、将棋で儲けるのも限界はあった。
お上の取締が厳しくなっていたのだから当然だが、他に手段もなかったのだ。
家守の経験などないが、大きな商家で育てられているおかげで交渉術や計算術には自信がある。
ただし、それでも、
「良い話過ぎて断りたいですね、正直な話」
「その代わり二つ条件がある」
「へい、むしろ、安心しましたよ」
これが本題だ。
「まずは賭け事から足を完全に洗うこと」
「……あっしが隠れてやっていたら?」
「できないくらい小間使いもさせてやるよ」
これは将来現実になる。
市十郎はその暇もないほど印寿にこき使われることになる。
結果論として、賭け事からは完全に足を洗うことになる。
「もうひとつの条件は?」
「きちんと今付き合っている女と結婚しろ」
「は?」
「そうすれば、家守としても信頼できるからな」
どういう意味か分からなかったが、どうやらこれこそが本当に本当の要件だったらしい。
しかし、市十郎の結婚が条件なんて意味が本当に分からなかった。
そもそも、最初から付き合っている女性についての噓は見透かされていたのか。
いや、それを知っていたからこそ自分と将棋を指したのか。
しかし、何故なのか。
分からない。
何も分からない。
ただ、これはやはり悪い話ではなかった。
「それこそ相談してみないと難しい気がしますが……」
「大丈夫だよ、絶対に」
子持ちの三十路近い年増だが、容姿も性格も良いし、血は繫がらないとはいえ子どもも懐いてくれている。
それに、将棋家の話はその女から聞かされていたのだ。
命を削ってまで指し続けた天才の伝説を。
別に結婚自体は問題ないが――どういう意味なのかその時は分からなかった。
だから、その理由を知るのはそれからしばらくしての話。
だから、その時の市十郎はそう言うしかなかった。
「分かりやした。とりあえず、相談してみますよ」
「ああ」
「八重に」




