帰り道
江戸時代、将棋の家元としての職を奉ぜられていた三家があった。
すなわち、『大橋本家』、『大橋分家』、『伊藤家』である。
そもそも、将棋家元の始まりは初世名人たる初代大橋宗桂が徳川家康より五十石五人扶持の俸禄を受けたからだ。
将棋の技芸・地位向上に大きく貢献したことが認められたのだ。
『大橋本家』に引き続き、二世名人大橋宗古の弟である、初代大橋宋与が『大橋分家』を興し、さらには大橋宗古の娘婿である初代伊藤宗看が『伊藤家』を興した。
――とまぁ、そんな詳しい話を覚えておく必要はない。
将棋家元は親戚同士だったということだけ。
ただ、非常に密な繋がりがあったからこそ、さまざまな情念が渦巻いていたことは見逃せない事実であろう。
そして、これが現代にも通じる、『将棋名人制』の始まりであった。
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井伊掃部頭別邸からの帰り道。
伊藤印達とその父、伊藤宗印は並んで歩いている。
伊藤家は麻布日ヶ久保(現港区六本木)に居を構えていた。
まだ自動車も電車も存在しない時代だ。
将棋家はさして裕福ではなかったので、駕籠も頻繁に使えるものではない。
つまり、移動手段は基本的に徒歩であった。
現千代田区永田町にあった井伊掃部頭別邸からはそれほど離れていないので問題なかった。
しかし、大橋本家は豊島村高田(現豊島区高田町)の増山兵部少輔の下屋敷内にあった。
両家の距離は地図上でおおよそ十キロメートルほども離れていた。
争い将棋は両対局者の家が使われる事もあったが、大体が互いの中間地点で行われたようである。
つまり、争い将棋の度に、中間地点としても往復十キロの距離を歩かねばならなかった。
これは十二の少年には辛い距離であろう。
老齢の宗印も辛かったはずだが、印達は健脚とは真逆の生白い質である。
全霊を込めた勝負の後で疲れているということもあるが、現在の印達は傍目には病人の足取りと大差なかった。
ちなみに、大橋分家は伊藤家の隣であったが、勝負相手は大橋本家の宗銀だったのであまり関係はない。閑話休題。
疲労困憊で顔色の悪い印達に宗印は優しく声をかける。
「佳い将棋だった」
印達は顔を綻ばせる。
「ありがとうございます」
「だが、まだまだ修練せねばならぬ」
「はい」
「ただ、また明日も勝負がある。今日はこれで佳い。帰ってしっかり休もう」
「はい」
印達が短く頷くばかりだったのは、疲労のせいばかりではない。
魂を注いだ将棋に心がまだ奪われたままで、気持ちが浮ついていたからだった。
将棋の盤面が脳裏にこびりついている。
あの時ああ指していたらどうなっていただろう……そんなことをどうしても考えてしまっていた。
実際、帰っても休める気はしない。
おそらく将棋盤を前にして、前半から中盤、終盤の入り口までどうしてあそこまで劣勢に陥ったのか考えてしまだろう。
そういう生き方しか印達はできなかった。
そして、宗印の言うように、争い将棋は明日も続けて行われる予定だった。
これは予定にないことだった。
元々、井伊大老は十局ほど若武者二人に指すよう要請しただけ。
そこまで密な予定ではなかった。
しかし、すぐ翌日に行われるのは、大橋本家からの要望である。
四世名人である大橋宗桂の鶴の一声で決まった。
――明日も対局をするぞ。
いろいろと尤もらしい理屈を述べていたが、その理由を要約すると一つにまとめられる。
負けが納得できない――ただ、それだけである。
誇りが何よりも大切な時代だったので否応もなかった。
敗北という屈辱を宗銀も早急に拭うしかなかったのだ。
大橋本家の威信をかけて。
伊藤家の若造には負けない――そういうことである。
しかし、やはり印達の顔色は明らかに悪い。
序盤からの劣勢を覆しての逆転である。
心身ともに疲弊し切っていた。
明日は厳しい勝負になると印達自身既に覚悟していた。
印達の口から病人めいた咳が時折苦しそうに漏れる。
生来、印達はあまり身体の頑丈な方ではない。
大根のように生白いのは、部屋に篭って将棋漬けの日々だったからである。
それは家業として必要だったことも、将棋の才能に恵まれすぎていたことも、将棋を愛しすぎてしまっていたこともあり、あらゆる点で印達にとって当然の日常。
その結果が、他の追随を許さないほどの将棋の才。
比類なき煌めきである。
全てを将棋に捧げる生活をしてきたからこそ、十二歳にして五段の認可を受けることができたのだ。
息子の体調を慮ってか、宗印も言葉は少ない。
ただ歩調をやや緩めて態度で労る。
印達は十二歳とまだ年若いが、その父親である宗印はかなりの老齢だ。
一説によると、宝永六年(一七〇九)の時点で六十五歳といわれている。
つまり、印達は五十路を超えてできた子どもということになる。
必ずしも正確とは限らないが、孫くらい年が離れていたことは確かなようだ。
それには宗印の生い立ち・経歴が関係している。
印達の父である宗印は鶴田幻庵という名で在野の達人として活躍していた。
母方は肥前唐津一向宗の寺人で、医師の多い家系から将棋家の養子になった変わり種である。
宋銀と同じように、宗印も将棋の腕を見込まれて初代伊藤宗看に引き取られているのだ。
だから、宗印は宗銀に対して同情する面もあった。
終盤、あれだけ必死に強手で応じたのは分かる。
逆転はあそこで冷静になれない状況のせいだ。
どうしても意地を張りたかったのだ。
いや、張るしかなかったのだ。
ちなみに、当時は養子として才能のある子を引き取ることは珍しい話ではない。
あらゆる家業のお家が、家を存続するために養子を取っていた時代である。
だから、宗銀が養子である事を引け目に感じたわけではない。
ただ、認められた己の才能を皆に知らしめたかっただけである。
むしろ、純粋に自分の実力と才能が認められたのだから、それは誉れだった。
宗印はそういう面もよく理解していた。
だからこそ、あの局面から勝ち切った息子の勇姿が誇らしくて仕方なかった。
「印達よ」
「はい」
「お前なら宗看の名を継ぐことができる」
「はい」
「この勝負を勝ち越せば、きっとそれに一歩近づくだろう」
「はい、父上」
宗印は宗看の名を継ぐことができなかった。
養父の名を継ぐに相応しいとどうしても思えなかったのだ。
しかし、印達は違う。
ここまで才能のある子どもは、そうそう生まれるものではない。
三代伊藤宗看。
そう呼ばれるに相応しい天才こそが、伊藤印達だった。
大老の下命により、始まった十番に及ぶ争い将棋。
それは命のやり取りに等しい、刀を用いない真剣勝負。
宗印は既に息子の勝ち越しを確信していた……。
「ちちうえ、あにうえ、おかえりなさい!」
二人が伊藤家に帰宅すると、幼い少年が出迎えてくれた。
息も絶え絶えに大きな声で出迎えるのは印達の弟の印寿である。
まだよちよち歩きしかできないが、幼い顔を嬉しそうに綻ばせている。
宗印も思わず、顔が緩むのを理解する。
年を取ってできた、可愛いもう一人の息子だ。
惜しむらくは、次男があまり将棋に興味を示さないというだけ。
まだ数えで四歳だから判断には早すぎるかもしれないが、長男である印達は既に同じ頃には将棋に強い興味を示していた。
比類なき天才ということではないかもしれない。
だが、将棋家として恥ずかしくない程度に強くなれば、それで構わない。
そういう生き方もある。
宗印は次男である印寿のことをそう温かく見守っていた。
……これは印達に対する期待の裏返しでもあった。
長男の圧倒的な才能を信じたからこその、次男への寛容となおざりである。
「おつかれさまです」
印寿は頭を丁寧に下げ、そして、すぐに顔を上げながら言う。
「あにうえ! かちましたか!?」