素人
大橋宋与は六世名人に無事就位した。
三代宗看は最初に揉めた以外はそれを諾々と受け入れた。
もう一波乱あるかと思っていた大橋宋民は拍子抜けしたが、逆に、宗看が何を考えているのか分からなかった。
分からない。
それはとてつもなく恐ろしいことだった。
そう、宗民は宗看を深く、深く恐れていた……。
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享保八年(一七二三)に行われた御城将棋は二局のみ。
宋民と宗看の指したものだけで結果は一勝一敗。
練習将棋を含めなくとも圧倒的に負け越している宗民にとって喜ぶべき結果だった。
いや、それは宗民だけではなく、大橋分家として喜ぶべき勝利。
父である宋与に宋民は頻繁に言われていた。
「お前は名人にならねばならん」
今では『お前も』に変わったが、それはある種の呪いの言葉であった。
宗民がわずか八歳で御城将棋に勤めたのは、その責務からだった。
元々、伊藤家には印達という天才がいたが、早逝してしまった。
面識はあったのかもしれないが、宗民は覚えていない。
物心ついた頃には既に亡かったからだ。
印達と同じくらい期待されていた大橋宗銀も亡き今、将棋家の後継者争いにあったのは宗看と宋民だった。
しかし、三歳年上の宗看の方が技量は明らかに上。
年齢差ばかりが原因ではない。
序盤・中盤・終盤どこを切り取っても年齢以上に差を感じさせられる。
もちろん、対人競技の有段者同士である。
絶対に勝てないなんてことはないし、この間の御城将棋でもお好み一局は宗民が勝利している。
逆に言えば、こちらが会心の出来で、かつ、宗看が不出来でなければ勝てないのだ。
――努力しなければならない。
宗民はそれを己に言い聞かせている。
それは自分の声ばかりではない。
父の声で耳元に囁く幻聴さえも現実のようだった。
寝ても覚めても、起きても夢でも腕を磨かねばならない。
将棋のことだけを考えていなければ成長が望めない。
努力こそが我が人生。
人間性さえも放り投げて腕を磨くべきなのだ。
そうしなければ、あの鬼才には勝てるはずもない。
……名人にならなければならないという義務感が宋民を縛っていた。
そして、その重圧に見合った努力をしていた。
将棋の才能以上に、努力の才能に恵まれていたからこそである。
宋民は真面目な人間であった。
+++
父の宗与は宗看のことをとにかく疎んじていたが、宗民自身そんなことはない。
苦手な部分以上に学ぶ部分がより多いので、年が明けた享保九年(一七二四)のある日、宗民は伊藤家に稽古にやって来ていた。
弟三人は席を外していたので、二人きりで練習将棋に集中できた。
はっきり言って、一方的にやり込められていたが、充実した時間を過ごせた。
宗看が稽古の合間に思い出したとばかりに言う。
「そういえば、南町奉行の大岡越前守は凄いな。あれが傑物というやつか」
「はぁ、どうしましたか?」
「賭博の取締だよ」
「ああ、徹底されていますね。あそこまでやるとは思いませんでしたよ」
「ああいう有能な人がいてくれると助かるな」
「何かあったんですか?」
「なぁに、俺は将棋を賭博の対象にされるのが大嫌いだったからな」
そんな雑談をしていると、宗看が「思い出した」とばかりに一冊の本を宗民に見せた。
「それはそれとして、だ。宗民、知っているか? これ」
「? いいえ、知りませんが」
「ま、見てみろよ」
宗民は宗看から手渡された本をペラペラとめくって、再度首を傾げる。
「これは何ですか?」
「見て分からないのか。図式だよ、図式集」
「いや、それは分かりますが、どうしたのです」
「反応悪いな。俺はかなり感心させられたし驚いたんだがな」
「そんなに良かったのですか」
「ああ」
一見してもかなり練られた作品集に見えたが、宗看が目を輝かせるほどというのが意外だった。
江戸時代は他国と比べても、類を見ないほど文化が成熟した時代でもあった。
相撲、花火、舟遊び、歌舞伎、浮世絵……現代からは考えられないが、和算(数学)なども最先端の娯楽だったのだ。
そして、将棋も娯楽として重宝されていた。
紙製の懐中将棋(簡易な紙製のもの)が庶民に広まり、あちらこちらで縁台将棋が見られた。
そして、その一つの到達点としての結果が、今、宗看の手にしている本であった。
宗看は謎々だ、とばかりに破顔しながら言う。
「これは中々面白い趣向が凝らされているんだが分かるか?」
「はぁ、少し考えさせてもらいますね」
すぐ解けるものではないが、宗看の言う趣向とやらも宗民には分からなかった。
非常に凝った詰将棋作品集なのは分かるが、具体的にどの辺りなのか……。
表題は『将棋手段草』。
かなりの腕前の人間が作ったことは間違いない。
絶対に解けないというほどではないが、ひと目で解けるほど容易でもなかった。
しばし考えるが、宗民は諸手を挙げた。
「降参します」
「じゃあ、一つ助言な。玉の位置に注目するんだ」
「玉ですか……?」
もう少し考えてみるが、やはり分からず再度降参した。
宗看は答えを言う。
「全ての問題を見れば分かるんだがな。八十一総ての枠に玉が配置されている」
「え!?」
宗民は驚いて見直すと、宗看の言葉通りの趣向が成立していた。
将棋盤は九×九枡の八十一枠ある。
詰将棋は王様を詰ませる遊戯だが、その最初の位置は八十一枠どの位置でも構わない。
最初の位置はどこでも構わないが、やはり詰ませやすい位置があるので初期配置として向かない枠も存在している。
それなのに『将棋手段草』は、盤面八十一枠の全位置に王様が配置されていた。
全ての問題のどれかで網羅している。
つまり、玉の配置のない枠がないのだ。
その困難さと創造性に感動した宗民は感嘆の息を漏らす。
「凄い……」
「だろう。俺も初めて見たぜ、こんな趣向は」
「そうですね……」
創作者には未踏の地を開拓したいという欲望がある。
誰も果たしたことのないものを手にしたいという欲望だ。
いや、これは人間が根源的に抱える難病なのかもしれない。
不知を敵視し、未知を拓き、世界を広げるという欲望だ。
根治などできるわけがない。
将棋の献上図式であれば、四世名人・五代大橋宋桂の『将棋手鑑』は玉の奇数番・偶数番の対称配置を始めたし、五世名人・二代伊藤宗印が作った『ならず百番』は百題総てに不成の手が隠されている。
何らかの創意工夫がなければ、それは創作にならないとばかりに頭を悩ませるのが創作者という生き物なのだ。
八十一枠全てを埋めた詰将棋作品集は『将棋手段草』が史上初だった。
「『将棋手段草』、中々大したものだろう」
「誰が作ったものなのですか」
「伊野辺看斎という……まぁ、在野の達人というやつだな。知っているか」
「強いと聞いたことはあります。しかし、将棋家の者ではなかったのですか」
ホッと落ち着いたような、残念なような気分に宋民は苛まれる。
宗看は不思議そうに首を傾げる。
「ん? 将棋家の者でないのがどうかしたのか」
「いえ……自分でもよく分かりませんが……安心したような、残念なような、不思議な感じがしました。変な気分です」
宗民は少し考えてみたが、本当に自分の感じたものの意味が分からなかった。
卓越したことを成し遂げたのであれば、将棋家の者であって欲しいという願いがあったのかもしれないし、もっと単純に素人の成した偉業に嫉妬しただけかもしれない。
あるいは、将棋家の人間が誰もやったことのない試みに悔しかったのかもしれない。
宗看は分かったような分からないような顔で言う。
「確かにな。こんな事を思いついた人間に興味が湧くのは分かるぜ」
「いえ、そうではなくて、もっと単純な話で……」
「俺も伝手を使って、会おうと思ったんだがな。ま、それは良いさ」
宗看は顔が広い。
いや、自ら人脈を広げようと尽くしている。
宗民も一度、宗看が隻腕の妙な男と連れ立って歩いているのを見たことがある。
どうやら、新しい家守として採用しようとしているようだが、どういう話があったのか分からない。
あの市十郎という男がそうしたくなるくらい有能なのかもしれないが、宗民にはよく理解できない。
父の宗与は「宗看は遊び回っている」と苦々しく言葉を荒げているが、色々な所に顔を出しているのはこういう時の為だろう。
この詰将棋作品集をいち早く手に入れられたのもそのおかげに違いない。
宗看がようやく思いついたとばかりに手を打つ。
「もしかして、将棋家の人間でないから、質が落ちるかもしれないって思ったのか?」
「それは……少しあるかもしれません」
「宗民はもう少し色々な人と知り合うべきだ。在野の達人は意外と多いぞ」
「そうですか」
「ああ、誠実な素人というやつは中々怖い。見た事もない戦法を考えてくるからな。だから、地方にも強い人はいるぞ」
昔、加賀の達人と指したが大したものだったな、と宗看は言う。
宗民は興味を持つ。
「それはどういう方ですか?」
「そうか、お前は風邪で会うこともできなかったもんな。名村立摩って人だ」
「いつ頃の話ですか?」
「俺達が御城将棋に初出勤した年に指したから享保元年だな。もうずいぶん前だが、未だによく憶えている。あれは面白い指し手だったな……俺は角落ちで負かされたぜ」
「そういえば、聞いた気がします」
驚いたのだ。
あの伊藤家の印寿くんを角落ちで勝つ素人がいるとは思っていなかったから。
当時から宗民は印寿のことを高く評価していたのだ。
……江戸時代は自分達で腕を磨くしかなかった。
情報量が限られていたからこそ、将棋の強さが純粋な才能に左右された時代でもある。
しかし、宗民が抱いている想いはまた違うのである。
「いえ、強い人がいることは分かるのですが、んー、上手くは言えませんが……」
「上手く言う必要はない。思ったことを言えよ」
宗民は喋りながら言いたいことをまとめる。
「私は誰が書いたかは重要なことだと思うのです」
「ふむ、続けてくれ」
「将棋家の者が出したから、それは将棋の本として一定の価値があるというか……」
「品質が保証されると云いたいのか」
「はい」
「しかし、良い物は誰が作ろうが良い物じゃないか」
「いえ、それが分かるのは、分かる人だけだと思うのです」
ほとんどの人間は細かな違いなど分からない。
歩の一枚の有無が図式の完成度を大きく左右するなんて分かるわけがないのだ。
しかし、その微差が理解できる玄人だからこそ、指南をする価値が生まれるのだと思う。
ただ、それは素人の愚かさを意味しているわけではないし、玄人が賢いわけでもない。
人生とは有限であり、人は自分の専門分野で努力するしかない。
無知は必ずしも愚かなことではないのだ。
逆に言えば、だからこそ、一定の保証をしてくれるのも玄人に意味や価値が生まれるのだから。
信頼されるほど価値を得る為には、時間も金も才能も運も必要なことなのだと思う。
ただ、気をつけなければならないのは、玄人は簡単に素人を騙すこともできる。
玄人は詐欺師にも成れるのだ。
信頼を担保にした愚かな行い。
そして、『信頼が一瞬で崩れる』のは信頼がそれほど重く、貴重なものだから。
そして、在野の強いだけの素人が信頼を担保するようになると、将棋家の存在価値はどこにあるのか。
それが分からなくなる恐れと、才能のある素人に対する嫉妬などが混ざった感覚に襲われていたのだ。
そんなことを言語感覚以外で宗民は直感していた。
なるほどね、と宗看は感心したように頷いた。
「……なるほどと納得されましたが、私が自分で理解できていないのですが……」
「いや、宗民も俺と同じような考えなのかもなと思ってな」
「同じような考えですか?」
「いや、やはり大分違うかもしれん」
どっちなのか、なんて問い返せなかったのは、宗民自身よく分からなかったのである。
ただ、この素晴らしい才能の持ち主と同じだと云われて、少し誇らしかった。
宗看は噛み砕くようにして言う。
「俺はな、どうでも良いんだよ」
どうやら『大分違う』が正しいようだ。
「素人もな、本当に良い物にはひれ伏すと思うんだよ。そういう問答無用な力を獲れば、問題なんて何もないんだよ」
ある意味、宗看の方が理想主義的かもしれない。
どんな人間にも他者を理解できる力が備わっていると思っているからだ。
いや、それは単純な自信で、どんな人間でも納得させるだけのものを自分は作れるという自負があるからなのかもしれない。
「圧倒的な力ですか」
「ああ、そういう強さが世の中にはあるからな」
そう言って、宗看は少し物思いに耽っている。
一体、何を想像しているのか? と宗民は考えるが、分からない。
圧倒的な力の持ち主と云えば、まず目の前の男性が思い浮かぶからだ。
その位、宗看は強い人間だった。
鬼のように強い。
自分でも公言しているが、本当にそれくらい強い男だった。
宗民が何か言い返そうとしたその時、大きな足音を立てながら、
「ああ、宗民殿、いらしてましたか」
「将棋の勉強ですか? 混ぜてください」
「こんにちはー」
宗看の三人の弟たちが入って来た。
元気で騒々しい。
宗民が呆気に取られていると、宗看が苦笑しながら弟たちに言う。
「おい、お前ら、うるせぇぞ」
すみませんー、と口を揃えて謝る弟たち。
宗民は宗看の甘い部分を感じ取る。
意外と弟たちには甘いのだ、この鬼のように強い男は。
その時、目敏い三男坊、三人の中で最年長の宗寿が目を輝かせる。
「あ! 兄上、それはなんですか?」
「ああ、図式集だが……」
そこで宗民を見て意地悪く笑う。
「三人に質問だ。この作品集にはある趣向が凝らされているんだが、分かるか」
分かるわけがない。
宗民でさえも気づかなかったのだ。
一つ一つ丁寧に解いていけば途中で気付くかもしれないが、こんな質問されて即理解できるとは思えない。
宗寿は真剣な顔で、看恕は自信満々に、政福は楽しそうに一冊の本を覗き込んでいる。
しばらくそうさせた後に、宗看は再度問いかける。
「分かったか?」
「分かりません……」と宗寿は落胆したように言う。
「もう少しで分かりそうなんですが……」と看恕は負けん気を見せながら言う。
「そうか、実はこの『将棋手段草』は――」
と宗看が答えを言おうとした瞬間だった。
「玉です! 兄上!」
政福がそう言ったのは。
「玉が全部違う位置です!」
一瞬、宗民は政福が何を言っているのか分からなかった。
だが、理解した瞬間、確かに慄えを感じた。
実際に足が慄えたかもしれない。
瞠目して幼い伊藤家の末弟を見る。
言葉足らずで分かりにくいが、意味は伝わる。
政福は『玉が別々の場所に配置されている』ことを指摘していた。
つまり、幼い童子が、ほんのわずかな時間で答えを言い当てたのだ!
その慄えは宗民だけのものではなかった。
宗寿も、看恕も、そして、宗看さえも慄えていた。
確かにここ最近、政福は急成長していた。
貪欲に将棋を勉強しているとは宗民も聞いていた。
しかし、まだ将棋を覚えて間もない子供である。
どれほどの才を秘めていれば可能なのか。
宗看と目を合わせて「ははっ」と、宗民達はどちらともなく笑ってしまう。
政福からは煌めく圧倒的な才能を感じる。
圧倒的な才能の前にはひれ伏す。
つまり、こういう事か、と宗民は頭を殴られた気分だった。
あまりに異質な存在を知る事は不幸なのか、幸福なのか……ひれ伏す事が幸不幸どちらか分からない以上、その答えは分からなかった。
――余談だが、『将棋手段草』は出版後間もなく禁書となる。
享保の倹約が徹底される中だったので、娯楽物として廃されたのかもしれない。
しかし、それから百三十年ほど後、『将棋新選図式』として偽刻される。
いわゆる、盗作であるが、一般的にはこちらの方が有名となるのだから、世の中というのは儘ならないものである。




