宗看襲名(後)
宗民は印寿の態度に一層肝を冷やしていた。
「俺が一番強いからだよ」
よく言えるものだ。
多分、この人の座右の銘は『天上天下唯我独尊』だろう。
信じ難いほどの傍若無人っぷりに、父の宗与も一瞬固まっていたが、深呼吸をした後に言う。
「わしは万が一の時には名人になるよう、お前の父親から頼まれていた。それでもそう言い張るのか?」
「ああ。当たり前だろう。将棋家の顔である名人は、一番強い奴がなるべきだ。そして、俺より強い奴なんていないんだから仕方ないだろう」
「なるほど……一理ある」
あくまでも強弱に拘る印寿を宗与は笑う。
しかし、宗民には分かっている。
父は面白がっているわけではないのだ。
怒り過ぎて笑うしかないだけだ。
温厚に見える宗与は、とてもそうとは見えないほど苛烈な一面を隠し持っている。
いや、隠し持つしかなかったのだ。
印寿達の父親である五世名人伊藤宗印の存在があったからだ。
父の宗与は初代大橋宗桂の曾孫。
それに対して、宗印は外様。
血筋から考えれば父が先に名人になるべきだった。
なのに、現実は宗印が先に名人になっている。
理由は単純。
父は宗印よりも棋力で劣っていたからである。
宗与は宗印と公式的に平手で九局対戦しているが、全敗だった。
これで先に名人を継ぐなんて言えるわけがない。
もしも、推挙されていたとしても固辞しただろう。
そのくらいの矜持は父にもあった。
故に、本来であれば、宗与が名人になるなんて夢のまた夢のはずだった。
しかし、宗印が先に死去したおかげで幸運が転がり込んできたのだ。
それを妨げようとする印寿は敵でしかない。
しかも、『自分の方が強いから名人に相応しい』と言い張っているのだから……宗与の深い怒りは推して知るべしである。
この後の展開を予想して息子の宗民は内心震える。
宗民は年の離れた子どもである。
だから、目に入れても痛くないほど可愛がって貰っていたが、同時に厳しく育てられてもいた。
愛情が深かったからだ。
その分、宗民は父の怒りを恐れていた。
宗与はそれまで一言も喋らない大橋家当主に視線を向けた。
「宗桂殿はどう思う?」
「は、はい、そうですね。私は宗与殿が相応しいと思いますね」
早口でそう云い、そこで一旦切って補足する。
「その……それが正しい事だと思います」
大橋家の当主である七代宗桂は三十六歳で七段。
年齢的には七十六歳の宗印や十八歳の印寿よりも名人に相応しいのかもしれないが、肝心の腕の方が問題だった。
宗与はもちろん、低段位の印寿よりも明らかに劣っている。
印寿が超人的棋力を誇っている事を差し引いても力不足だった。
発言も弱々しく、宋与に追従するばかりなのは影の薄さを自覚しているからだろう。
そもそも、七代宗桂は大橋家を背負うということを嫌がっている様子さえある。
そういう重圧を楽しめない性格なのだ。
この場にいるのが耐えられないとばかりに視線を下に向けていた。
宗民は誰にも聞かれないようにため息を吐く。
この場を調停すべき立場の人間がこれでは力不足というより自覚不足。
せめて覚悟を決めて座を囲うべきではないのか。
八つ当たりのような怒りを宗民は覚えていた。
もう一つ宗民が考えていたのは、印寿の言葉の正しさについて。
確かに、印寿は将棋が強い。
この場にいる誰よりも強い。
いや、過去のどの名人よりも既に強いかもしれない。
鬼のように強く、素晴らしい才能の持ち主であることは単なる事実だった。
宗与は呆れたとばかりに首を横に振る。
「印寿よ、だから、お前は未熟なのだよ」
「それはどういう意味だよ?」
「物の道理が分かっとらんのだ。襲名には万年早い」
「ふむ、具体的には?」
「献上図式はどうする?」
「……なるほどね」
割と痛いところを突かれたのか、印寿は初めて強気の表情を崩して苦笑する。
通例として、将棋家の者は八段になると、『名人=将棋所』の有資格者となるため幕府に詰将棋の作品集を献上していた。
それが献上図式。
宗与は享保元年に『将棋養真図式』を奉じていたが、五段の印寿はまだ献上すべき作物図式を作ってすらいない。
つまり、名人になる資格を印寿はまだ有していないのだった。
印寿は『将棋の強さ』を根拠として名人に相応しいのは自分だと主張している。
それに対して宗与は、『物事の道理の正しさ』を根拠として名人に相応しいのは自分だと主張していた。
どちらも一理あると宗民は思ったが、口にはできなかった。
父の不利になるようなことは言えない。
いや、息子としての立場を差し引いても、父の言い分の方が理はあると判断したから余計なことは言わなかった。
きっと印寿も理解しているはずだ。
「……確かに俺はまだ作物図式を作ってないな」
「そうだろう。名人は将軍様へ図式を献上して、十分に認められてからで良いではないか。道理も大切にせずして何が将棋道か」
「呵呵、なるほどなぁ」
印寿は笑う。
「しかし、宗与殿は大したものだよ」
「ふむ、そうかな」
「あーんな不完全作と焼き直しを幕府に献上できるんだからな!」
いや、印寿のそれは嗤いだった。
一瞬で空気が凍る。
もしもこれが武士同士であれば、無礼討ちされても文句が言えないような挑発だった。
まだ印寿は刃を抜いていなかったのだな、と宋民はようやく気づいた。
「印寿、貴様……」
「おいおい、怒るってことは図星だってことだぜ。俺ならあの程度の作品で満足したとしたら、恥ずかしくて生きてられないけどな!」
大橋家の七代宗桂も頼りにならない今、もうこの二人だけで会話させては駄目だ、と宋民は必死に声を上げる。
「い、印寿殿!」
「宋民もそう思うだろう?」
父の『将棋養真図式』は確かに焼き直しも多く、詰まない作品も散見される。
しかし、宋民はその詰将棋が誤っているかもしれないと思っても、間違っていると断言することはできなかった。
父の作品だから、というだけではない。
正しいことを証明するのは比較的容易で、解いてしまえば良いだけ。
しかし、間違っていることを証明するのは非常に難解だ。
何故ならば、宗民の場合『自分の腕が未熟で詰ませられないだけではないのか』という疑惑が生じてしまうからだ。
不詰みを指摘できるのは、印寿が自分の読みに絶対的な自信がある証拠でもあった。
宋与の怒りは図星という裏面もあるのだろう。
しかし、宗民はそれら諸々の事情は理解しながらも、印寿に反論する。
「印寿殿、今は将棋所に就任する道理について話していたはずです」
「それはそうだな」
「ならば分かるはずです。作物図式の出来不出来について話し合っていたわけではありません」
「不出来な献上図式を根拠にするのは、どうなのかっていう問題提起なんだがね」
「少なくとも影も形もない献上図式よりは根拠になるのでは?」
将棋所に就任するための順番や道理というものは、将棋の強さばかりではない。
人脈や礼儀作法等、現状の印寿に不足しているものは多い。
その辺を見越して、前名人の宗印も次代の名人を宋与に指名していたのだろう。
宗与は確かに高齢で棋力も衰えつつあるが、道理は分かっているし、経験も豊富。
どちらも現時点の印寿に欠けている要素だ。
前名人は印寿に『そこから学べ』と暗に伝えているように思えた。
「そうだな。宗民、お前の方が正しい」
宗民の指摘は急所だったのか、やや渋面だ。
「俺もすぐに名人になれるとは思ってないよ。今回は譲ってやる」
その上から言葉に、宋与は目を剥く。
「では、どうして名人を願い出た? 無用の混乱を巻き起こして何がしたい?」
「言っただろう、俺が最強だからだ。名人に相応しいのだから当然。名人就位が遅いか早いかだけならば、最低限主張すべきだろう」
「話にならんな」
「事実だ」
「献上図式を仕上げてから云え、青二才」
「分かったよ。俺は誰も見た事がない傑作を仕上げてみせるぜ、老いぼれ」
「口だけは達者だな」
「残念だが、腕も確かなんだぜ。耄碌してそんなことも理解できんのか」
「ふん。お前は道理を知らずに泣くのだろうな」
「なら、その道理を力でねじ伏せてやるだけさ」
どうして二人とも喧嘩腰なのか。
本当に取っ組み合いにならないのが不思議である。
仮に相撲でもすれば、若く体格の良い印寿が圧倒するだろう。
だが、印寿はそこまで粗暴ではないし、そもそもある程度計算した言い争いなのだろう。
しかし、故に宋民はそれが理解できない。
暴力で解決しないのであれば、ここまで喧嘩腰で何の利があるのか。
結局、名人の選出は三家の合意なのだから、敵を作っても良いことはないはずだ。
それまで空気だった大橋宋桂が口を開く。
「あのー、話もまとまった事ですし、そろそろお開きで構いませんか?」
その気の抜けた一言で毒気が消えたのか、印寿は舌打ちをして出て行った。
いや、出て行こうとする直前、印寿は振り返って言う。
「ああ、忘れていた」
「まだ何か?」
と、他の誰も視線すら向けないので、宗民が応じるしかなかった。
「そんなに警戒するなよ。冷たいヤツだな」
「ならもう少し温かい態度を取ってくれませんかね」
「性分だから諦めた」
「自分で勝手に諦めないでください」
「なら、お前が諦めてくれ」
「受け入れろってことですか? もう分かりましたから何ですか?」
「いや、大事なことを伝え忘れていた」
「はあ、それは?」
宋民は、まだかき乱す気かと戦々恐々《せんせんきょうきょう》としていたが、
「俺は伊藤家を継ぐにあたって改名するぜ」
「え?」
「宗看だ。俺は『《《三代目伊藤宗看》》』を襲名する」
と言った。
新名人となった宗与が目を剝く。
「宗看、か? お前が?」
「ああ、俺こそが宗看だ」
宗看の名は伊藤家にとって特別だった。
伊藤家を興した初代伊藤宗看は二世名人大橋宋古の娘婿であり、三世名人を襲名している。
一説によると宗看の『看』という一字は、後陽成天皇の第四子である近衛応山が名付けたとされる。
『象戯の法、手を用い、目も用う。看の字たる手の下、目に従う故に近衛応山、宗看の号を授くる』
――と。
後に宗民は酒席で宗看に訊ねたことがある。
――どうして改名したのですか?
宗看はしばらく黙ってから杯の中身を一気に呷り、呟くようにして言った。
――本来だったら兄上が名乗るはずだったからな……。
そこに込められた想いは分からないが、宗民の目から見ても、宗看は常に覚悟を決めて生きていた。
宗民は羨ましさと妬ましさのやや相反した気持ちに苛まれながら、宗看の姿を傍らで見続けることになる。
翌年、伊藤印寿は三代伊藤宗看を正式に継ぐ。
これが江戸期を代表し、あまりの強さから『鬼宗看』と畏れられた天才の襲名物語。
歴史上最年長名人の誕生の裏で起きた権力闘争。
歴史に名を残す江戸期最強名人の一角、三代伊藤宗看の始まりは周囲との軋轢を引き起こしながら始まった。