宗看襲名(前)
将棋の最高位は『名人』である。
別の言い方をすると『将棋所』。
この二つは微妙に意味合いが異なっているのだが、同じ意味として使用される場合もあった。
現代でも『名人』位は将棋界最高位のひとつであり、数多くの棋士たちが虎視眈々《こしたんたん》とその座を狙っている。
歴史と権威の伴った称号が『名人=将棋所』なのだ。
さて、江戸時代当時の家元は『大橋家』、『大橋分家』、『伊藤家』という親戚同士で構成されていた。
囲碁四家に比べると血縁関係が濃く、家同士の仲も比較的良好だったようだ。
だから、たとえば、後継者を欠くような事態が起きても、その家の養子に行って助け合うことも珍しくなかった。
故に、『名人=将棋所』の就位に関してそれほど揉める事もなかった。
ちなみに、囲碁の四家は『碁所』に関して割と頻繁に揉めていたようである。
そもそも、名人になるため必要な条件はいくつかあった。
ただ、実力があるだけでは不足で、品格や年齢などさまざまな要素を考慮した結果選任されていた。
現代の『実力制による名人』とは価値観が異なっていた。
それも当然といえば当然の話。
将棋だけで食べていけるほど制度が整っていなかったので、寺社奉行との調整など幅広い職務に対応できる能力が必要だったのだ。
その他にも必要な条件としては、『準名人(八段)の際に、作物図式(詰将棋の作品集)を徳川家に奉じている』というものもあった。
実例として、印寿たちの父親である五世名人伊藤宗印は『将棋勇略』を元禄十三年(一七〇〇)に献上している。
今までの条件を考慮すると、将棋家の場合、あらかじめ話し合いで『誰が名人に相応しいか』を選んでいたのだ。
そもそも、『将棋所』はその時代で一人しか名乗れない称号だ。
時を代表する第一人者の称号なのだから複合的な要素から選ばれるのも自然な話である。
しかし、将棋家もその長い歴史の中で、たった一度だけ揉めた事があった。
それは宗印が死去した後の事だった……。
+++
「ううむ……」
寺社奉行である牧野英成は眉間に皺を寄せながら唸る。
刀で刻み込まれたようなその皺は深い苦悩を物語っていた。
嘆息を溢すのは、彼がある難題に頭を悩ませていたからだ。
「ううむ……」
再度、牧野英成は唸った。
今向き合っているのは、将棋家の問題である。
先日、将棋家の名人であった伊藤宗印が死去した。
伊藤家は現在、混乱の最中にある。
嗣子である印寿は十八歳という若さであり、しかも、まだ幼い弟を三人も抱えている。
弟たちを一人前に育てながらの当主就任は苦難が伴うだろうが、人の生き死にはどうしようもない。
誰かがどうこうできるようなものではない。
残された者が力を合わせるしかないのだ。
問題はそこではなかった。
さて、日本は昔から『書類文化』だった。
現代でも官側にその傾向は色濃く残っているのだが、どんな事を成すにも書面で申請する必要があった。
御用達町人である将棋家も『隠居届』、『転居届』、『居宅増築願』、『相続』、『養子』、『婚姻』、『離縁』等々、生活全般を寺社奉行に文書として提出していた。
御城将棋の際に足袋を履くことさえ申請する必要があったのだ。
非常に煩雑な手続きであるが、決められたからにはどんな些細なことでも御用達町人は守るべき立場にあった。
それに悪いことばかりでもない。
この時代の日本の識字率の高さは、他国に類を見ない程であった。
高札(木の札に法令などを記して往来に掲示。民衆に周知させる方法のこと)が成立したのも識字率の高さが故だし、文字を理解する者が多いことで文化がより成熟していった一面も無視できない。
その日、牧野英成寺社奉行に届けられたのは、『五世名人である伊藤宗印の死亡届』と『六世名人の願届』だった。
六世名人の名前は伊藤印寿。
わずか十八歳の若輩であるが、そこは問題ではない。
五段から飛び級で名人(九段)という抜擢もやや奇異に感じるが、やはり寺社奉行が関知すべき事ではない。
将棋家が推す人材であれば、牧野英成もすぐに応じただろう。
――伊藤印寿は鬼のように将棋が強い。
そういう噂は牧野英成の耳にも届いていた。
実力は頭一つ抜けており、現在の将棋家元の中で比肩する存在はいない。
それほどの腕前だから、名人として選ばれたというのであれば、やはり応諾しただろう。
問題だったのは名人を願い届けた書類が既に届けられていたということ。
二通目だったのだ。
一通目のそれは大橋分家の大橋宗与が名人に就位するというもの。
間違いではないだろう。
故意というよりも、諍いの臭いを牧野英成は嗅ぎ取っていた。
親戚関係にない囲碁家とは異なり、将棋家はこういうことで揉めていなかった。
その珍しい事態に直面し、牧野英成は唸る。
「ううむ……これはどういう事だ?」
+++
部屋の中が寒いのは、冬だからというだけではなかった。
むしろ、火鉢のおかげで室温は十分。
冬のせいにできない現実に、大橋宗民は八つ当たりじみた怒りを覚えていた。
宗民は腹の底が冷えるような感覚を味わっている。
――恐ろしいのである。
自分に向けられた敵意ではないと理性は理解しているが、感情が肉体感覚を狂わせている。
座には将棋家の四名が揃っていた。
大橋分家から『宗民』自身と父の『宋与』。
大橋家からは『七代宗桂』。
そして、伊藤家からは『印寿』という面々が顔を突き合わせている。
将棋家の主要人物が一堂に会した現在の状況はというと、
「――寺社奉行の牧野殿からお叱りの手紙が届いた」
口火を切ったのは宗与だった。
冷たい声でそう言う。
隠し切れない怒りが滲み出ているが、口調そのものは穏やかであった。余計に怖い。
宗民の知る限り、父がここまで怒り狂ったことはない。
この平凡な一室が、今現在お白州の場になっていた。
正確には印寿を糾弾するための座でしかなかった。
「へぇ」
と、糾弾されているはずの印寿は面白そうに笑う。
余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》の態度である。
それが余計に癪に障ったのだろう、宗与は印寿を睨みつけながら言う。
「印寿よ、『名人の願届』を出したというのは本当か?」
「ああ、出したけど、それが何か?」
大橋家、大橋分家の重鎮を前にして、印寿は怯まない。
腕組みをし、ふんぞり返った、ふてぶてしく不遜な態度である。
まるで悪びれていないし、そもそも、悪いとも思っていないようだ。
宗民も印寿との付き合いは長い。
怯んだりするとは微塵も思っていなかったが、宗民は(どうしてこの人はこうなのだろう)と内心頭を抱える。
宗民は印寿と同じく五段であるが、印寿よりも三歳年下の十五歳である。
宗民は大人しいと評される事が多いが、別に幼少の頃から大人しかったわけではない。
誰よりも将棋で強くなれると自惚れていたし、将棋で勝って生意気な口を叩くことも珍しくはなかった。
それが控え目な性格になってしまったのは圧倒的に傍若無人な印寿のせいであった。
印寿はこんな四面楚歌の状況でも一切引こうとしない。
自負とか自信の次元が、宗民とは違いすぎた。
こんな男が近くにいたら、控え目にならざるを得ないではないか。
もしも、ならないとすれば、印寿以上の毒を身の内に秘めているくらいしか考えられない。
大橋宗与は訊ねる。
「印寿よ、どうして名人になりたいのだね?」
「決まっているだろうが。俺が一番強いからだよ」
どうしてこの人はいつもこうなのか!
宗民は印寿の『強さ』に今後悩まされ続けるが、その一番最初の状況はこんな感じで始まっていた……。