御城将棋~印寿初出勤~
天から与えられたものを拒むことは誰にもできない。
義務――お家の仕事を全うするためにも必要だから。
そもそも、人よりも秀でていることへの、優越感という至上の魅惑からは逃れられない。
どれだけ憎んでいても――いや、憎んでいるからこそ人はより囚われる……。
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享保元年(一七一六)十一月十七日。
伊藤印寿は御城将棋の初出勤を果たす。
享保元年といえば、徳川吉宗が八代将軍を継いだ年である。
現代人からすれば、暴れん坊将軍というイメージが強いのかもしれないが、無論、悪代官をしばき回した史実はない。創作だ。
吉宗の有名な実績といえば、破綻寸前だった幕府の財政を『享保の改革』で立て直したことだろう。
一方で、国民は増税に苦しみ、経済的な低迷を招いたことも事実の一面。
しかし、毀誉褒貶はあるものの、やはり有能な為政者であったようだ。
ここで余談であるが、将棋好きな徳川将軍といえば、十代の徳川家治がまず有名だ。
指し将棋の実力もさることながら、家治は詰将棋作品集『将棋攻格』を遺している。
ただの趣味とは思えない程の、素晴らしい出来栄えであり、いかに将棋を好んでいたかが伺える。
家治ほど趣味に狂ってはいないのだが、実は八代吉宗も将棋に興じていた。
その一例として、現代でも十一月十七日は『将棋の日』として受け継がれていることが挙げられる。
これは御城将棋が毎年この日に指されていたことが所以とされているが、実は定日としたのが吉宗なのだ。
それまでは日程調整のため、将棋家・囲碁家は苦心して寺社奉行とやり取りをしていたという記録が残っている。
しかし、日を定めたことでそういった些末な雑事が減った。
この辺りは吉宗の無駄を省く、合理的な性格が見え隠れしている。
しかも、それは印寿が初出勤を果たした、享保元年に決められたことであった。
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更に余談となるが、日本人の『文書として事実を書き残してきた実績』はやはり素晴らしいものである。
御城将棋についても文献が多数残っているのだ。
さて、以前も少し述べたが、『寺社奉行支配並遠国町人御礼格式』の規定によると、将棋家の奉公は毎年四月朔日から十二月七日までだった。
御城将棋は仕事納めとして、一年の集大成を披露する場であった。
その一日は次のような流れであった。
当日、卯の刻(午前六時)までに大手門の前に集合。
太鼓の合図による六時の開門と同時に登城する。
午前十時に黒書院の中庭に面した十八畳の畳縁まで参上して、月番の寺社奉行の指図のもとに対局が始まる。
服装は『上着が御絞付、下着は白羽二重、十徳を着す』と定められていた。
時代によって差異はあるが、御城将棋に用いる盤にも規定があった。
縦一尺一寸(三十三センチ)、横一尺八分(三十二センチ)、厚さ三寸八分(十一センチ)、脚高三寸(九センチ)が定寸。
側面には藤唐草金地総蒔絵のある、榧材の最高級品だった。
駒は黄楊材の書き駒(水無瀬駒)で、遠くからも見えやすいように大きめに作られ、駒箱にも蒔絵が施されていた。
ちなみに、駒はその日一日使用すると廃棄され、毎年新しいものが作られていた。
将軍に上覧するのだから当然かもしれないが、実に勿体ない話である。閑話休題。
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さて、本題に戻る。
幼い頃の印寿はまるで将棋に興味を示さない子供だった。
ちゃんばら遊びで、障子や襖をぶち抜くやんちゃさに宗印は随分と手を焼かされた。
将棋に対する姿勢が変化したのは、印達が死去してから。
印寿はまるで人が違ったように、将棋に打ち込み始めた。
印達の霊でも乗り移ったのかと周囲は疑うほどであった。
一日として休まない。
鬼気とした様子で取り組む。
その甲斐もあり、十一歳のその日、御城将棋にて印寿は大橋分家の三代目、大橋宗与と対局する事になった。
まだ印寿はこの時初段。
兄の印達の初出勤は十二歳で五段の時であった。
未熟さを埋めるため、少しでも経験を詰ませるため、宗印は加賀の強豪である添田宗太夫に頼み、弟子の名村立摩とも対局を組んだ。
印寿は才能がある。
しかし、それでも宗印は不安が残った。
それはどちらかといえば、才能があり未熟だから。
制御しきれない才能は諸刃の剣だ。
御城将棋でどんな事態を招くか――恐ろしい想像を喚起する。
そんな、どこか底知れない部分が印寿にはあった。
余談であるが、この時の御城将棋に出勤した最年少は印寿ではない。
最年少は大橋分家の嗣子、大橋宗民。
わずか八歳の初段であった。
更に付け加えると、十一歳の印寿の対局相手である大橋宗与は六十九歳の八段。
その年齢差は実に五十八歳。
ここでちょっとした謎々をひとつ。
記録の残る公式戦で最も年齢差の離れた対局はどれくらいか?
正解は六十二歳差。
二〇一六年十二月二十四日。
藤井聡太四段(十四歳)対加藤一二三九段(七十六歳)(段位は当時のもの)の対局である。
これは藤井聡太四段にとってのプロデビュー戦であるのだから持っているとしか言いようがない。
ただ、どれほど年齢差があろうとも公平な勝負が成り立つのだから、将棋の懐の深さが伺える。
それは三百年前から証明されていたのだ。
この頃の将棋家は若者と年寄りとの乖離が激しかった。
大橋本家の七代宗桂は二十九歳と実力最盛期のはずだったが、肝心の実力が心許なかった。
なんといっても、この時に八歳だった宗民と御城将棋を指しているが、ハンデは右香車を落としただけ。
大橋本家当主とは思えないほど期待は小さかった。
そういう理由で印寿は次世代を担う者として期待されていた。
それは他に人がいないから仕方なくという側面もあったが、期待されていたこと自体が噓でもなかった。
印寿の将棋に対する真剣さは周囲に伝わっていたし、才能の片鱗を随所に見せるようになっていた。
その日の印寿と宗与との手合いは宗与の飛車落とし。
この勝負を印寿は勝利していた。
先にも説明したが、御城将棋は既に指した将棋を再現するのが通例だった。
そう、『内調べ』である。
時間が長引き、城内で将棋が終わらないということが続いたからである。
だから、真剣勝負という意味では形骸化したが、逆に言えば、形式がとても大切にされていた。
命よりも誇りが重視された時代なので、家名が穢れるかもしれないというこの状況でどれだけ落ち着いているかが求められたのだ。
大舞台での『強さ』は生来の資質である。
そういう点で、印寿は幼い頃から武張ったことが好きな子供だったおかげか、こういう舞台でも怯む事がなかった。
いや、それどころか……。
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「むぅ、むぅ」
印寿は唸っていた。
ユラユラと前後に揺れ、何かを必死に考えているようだった。
周囲の視線など気にする事なく、自分の思考に没頭している。
指し手は決まっているのだから悩むような事は何もないはずなのだが……もしかして、緊張して指し手を忘れているのだろうか?
宗印はそんな心配で胃を痛めていた。
ありえそうなのが恐ろしかった。
この対局自体は百三十四手で印寿が勝っている。
途中、やや手間取ったという印象だったし、やはり未熟さは多々見えるが、悪い指し手ではなかった。
何よりも八段の宗与に勝てたという事が大きい。
攻め手に欠けていたが、最後まで指して逆転させなかったという事実が大切なのだ。
将棋は最後の最後まで逆転が起きるものだから、丁寧さと慎重さは不可欠だ。
初出勤の御城将棋で、結果が伴っているのだから上々である。
しかし、淡々と進む指し手とは異なり、印寿は相変わらず落ち着きのない様子だった。
人目も憚らず、唸り声は止まない。
集中していないのではなく、集中しすぎて周りが見えていない。
印寿はもっと視線を周囲に向けるべきだし、その為に経験豊富な八段の宗与と指しているのだ。
その立ち居振る舞いを次代に伝えるという裏の意味がないではないか。
宗与は宗民に視線を送っている。
それは『この餓鬼をどうにかしてくれ』という刺々《とげとげ》しいものだった。
――そろそろ、注意しようか。
申し訳なくなった宗印が重い腰を上げようとしたその時、
「そうか……」
と印寿は呟いた。
あまりにも呆気ない呟きだったが、それから印寿は動かなくなった。
まるで憑き物が落ちたように、淡々と対局を再現している。
先程までの落ち着きない様子が信じられないほど、背筋が伸び毅然としている。
周囲は不審に思うが、何はともあれ落ち着いたのだから言うべきことはない。
その理由について、宗印は全てが終わった後に知ることになる。
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『お好み』――将棋好きの老中たちの相手もつつがなく、御城将棋の帰り道である。
それまで質問できなかったことを、宗印は印寿へ訊ねる。
「印寿よ、お前、ずっと唸っていたな? 何を気にしていたのだ?」
「? 何の話ですか?」
気づいてなかったのか。
「それでは途中で『そうか』と呟いたな。何に気づいたんだ?」
「ああ、それですか。大したことではありません」
「答えなさい。あの無作法は失礼だ」
「無作法? そうですか、申し訳ありません」
どうやらまだ唸って体を動かしていたことは思い出せないようだが、それよりも、気になるのは『何に納得したのか』という部分。
印寿はあっさりと答える。
「6五同歩です」
「は?」
「あれのせいで、7五銀と出られてしまったのです」
唐突だが、宗印はすぐに言葉の意味に至る。
本日の、宗与との対局内容。
それは中盤から終盤の入り口。
と金を作って攻める印寿が優勢の局面だった。
しかし、そこからやけに手間取り、苦戦をした印象だった。
実は宗印も何か手があったのではないか、と思っていた。
「それなら、何に気づいたんだ?」
「同桂です。6五同桂と応じるべきでした」
言われた局面を宗印は想像する。
確かに、それは良さそうな手だ。
しかし、具体的に何が良いかというと――。
「そうすれば、この後に飛車が成れました」
ああ、そうだ。
そこまで考える必要がある。
ただ悪かった手を反省するだけではなく、『何がどうして悪かったのか』『どうすれば良くなったのか』『その結果、どういう局面に至るのか』まで考えるべきなのだ。
どこまでも踏み込み、己の手を細かく修正し続けることでしか成長は見込めない。
「少し慎重に指し過ぎました。だから、形勢が悪くなってしまったのです」
「……どうして慎重になったんだと思う?」
「安全に勝とうとしたからです」
印寿はその瞬間、修羅のような表情になる。
宗印はギョッと驚くが、気圧されることはない。
怒りの矛先は明らかに印寿自身に向けられていたからだ。
「安全に勝とうとして、結果として、負けそうになりました……こんな恥ずかしいことはありません」
「なるほどな」
「ですが、まだ俺が弱いことは事実です。強くあらねばなりません」
「だから、『そうか』なのか」
「はぁ、あまり覚えておりませんが、もう少し早く宗与殿に勝つ手段を見つけられて落ち着いたのではないでしょうか」
印寿は他人ごとのように言う。
そこで宗印はひとつ気になったことを訊ねる。
「ところで印寿」
「はい」
「お前に、良い手を発見した喜びはないのか」
「? どういう意味ですか?」
何故質問の意味が分からないのか?
宗印は内心でため息を吐く。
「良い手を発見した喜びだ。勝つための、素晴らしい手が見えた喜びはあるだろう」
「? 特にありませんが」
それは宗印が恐れていた通りの答えだった。
あの憑き物が落ちた様子。
そこに達成感や充実感は欠片も存在していなかった。
「つまり、お前は……」
「ええ、良い手も悪い手も関係ありません。勝利するかどうかではありませんか」
何かおかしなことを言っていますか、という表情である。
「良い手を見つけても負けることはあります。悪い手でも勝つことはあります。手の良し悪しはそれだけではありませんか」
「手の良し悪しは二の次。勝つことだけに意味があると言うのか、印寿よ」
「そうです」
なんと言えば良いのだろうか。
間違っている言葉というわけではない。
悪い手を指すことで相手が間違え勝つこともあれば、良い手を指すことで相手がより素晴らしい手を返してきて負けることもある。
それが将棋だ。
間違えさせるために、局面を複雑にするために最善ではない指し手を選択することもある。
交互に指すから自分だけでは完結しないのだ。
だから、『良い手』と『勝つための手』が一致しないことがある。
しかし、勝ち負けだけにこだわるのは将棋道ではない。
だから、棋譜という形で後世に残しているのだ。
その棋譜は見る人が見れば、指し手だけではないものを読み取ることができる。
苦悩や信念、強さ弱さ、祈りのようなものさえ感じ取れるはずなのだ。
しかし、印寿にとっては関係ないのだろう。
ただ勝つか負けるか。
それ以外の余分なものは関係ない。
そんな圧倒的な強さが宗印にも伝わってきた。
「印寿、お前は……」
いや、と宗印は言葉を飲み込む。
印寿が将棋に真剣になったのは印達が死去してから。
その背景を考えると――圧倒的な勝利への飢えも理解できた。
負けることは許されないのだ。
託されたものの大きさを考えると。
「父上?」
いつか分かってくれれば良い。
お前が向き合っているものは、本当に素晴らしいものなんだよ。
だから。
「……今日は良い将棋を指したな」
「はぁ」
宗印は将棋の偉大さを信じることにした。
この不肖だった誇らしい息子の成長を祈って。
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その日、宗印は懐かしい夢を見ていた。
名村立摩との練習対局。
印寿の初めての御城将棋。
その口元は柔らかく緩んでいる。