元婚約者がよりを戻そうと押しかけて来ましたが……わたくし、もう結婚してますけど
「―――カサンドラ、お前とよりを戻してやろう」
いきなり連絡もなしに屋敷にやって来たのは元婚約者……ビズレッド伯爵家の嫡男であるエイヴリーである。
その後ろからは困惑した表情を浮かべる侍女や執事達の姿があった。
心配そうに此方を見ている。
興奮しているのか、エイヴリーは目を見開きながら此方を見ていた。
「は……?」
開口一番……あまりに馬鹿馬鹿しい発言に、この言葉しか出てこなかった。
そして何を思ったのかは知らないが、思いもよらない言葉がエイヴリーの口から飛び出した。
「寂しかっただろう?俺がお前を振ったせいで俺を忘れられなかった事だろう………悲しい想いをさせて悪かった」
「……」
「しかし、今日からはまた俺が側にいてやるから安心しろ?父上と母上にはもう話してあるんだ!なんて優しい息子なのだと褒められたよ」
「……」
「さぁ、早く手続きをしようじゃないか!もう泣く必要はない……愛しい婚約者が戻ってきたのだから」
怒りを通り越して呆れてしまい、何も言葉が出てこなかった。
ただ、目の前でペラペラと意味の分からない言葉を話している勘違い野郎の顔を殴り飛ばしてやりたいと思った。
(どういう思考回路なの……?)
スッ…と自分の手首を押さえて、殴りたい衝動に耐えていた。
そして、こんな男を心から愛していた自分を恥じた。
「―――カサンドラ、またお前を愛してやるからな」
頭の中の何かがプチンと切れた。
カサンドラはニッコリと笑顔を浮かべて、エイヴリーに優しく諭すように言った。
「わたくし、もう結婚してますけど……?」
「……え?」
エイヴリーの間抜けな顔に少しだけ心が晴れやかになった。
*
カサンドラ・メレゼ。
メレゼ子爵の次女であるカサンドラは、ある日……夜会で出会った一人の令息と運命的な恋をした。
それがエイヴリー・ビズレッドだった。
燃え上がるような恋をしたエイヴリーとカサンドラは勢いのままに婚約した。
エイヴリーとカサンドラの愛は、誰にも止められないほどに熱かった。
「カサンドラ……お前と出会えて本当に嬉しい」
「わたくしも嬉しいです!エイヴリー様…」
「一目見た時から運命の相手は、カサンドラしかいないと気付いてしまったんだ!」
「エイヴリー様」
「愛してるよ」
二人の関係は順調だった……少なくともカサンドラはそう思っていた。
けれど時間と共に、徐々にエイヴリーのカサンドラに対する興味と愛情が薄れていくのを感じていた。
それでもカサンドラはエイヴリーを信じていた。
しかし、カサンドラがエイヴリーをお茶や買い物に誘っても、断られる事が増えていった。
次第にエイヴリーと会う時間は減っていった。
そしてカサンドラが出した手紙の返事が来るのも、間が空いていくようになった。
酷い時は返ってこない事もあった。
「最近、忙しいんだ」
そう言われてしまえば、カサンドラは何も言えなくなった。
(不安だわ……)
カサンドラの胸騒ぎは日に日に大きくなっていく。
カサンドラが果たしてこのままでいいのかと思い悩んでいた時だった。
(エイヴリー様としっかり話をしましょう!二人で幸せを掴まなくちゃ……)
そんな勢いで、ビズレッド伯爵家に向かったカサンドラは信じられないものを目にする事となる。
カサンドラが屋敷に入ろうとすると、何故か焦る侍女達。
「少々、お待ちください……カサンドラ様」
「中に入れて頂戴」
「エイヴリー様は今、お出掛けに…」
「…!!」
嘘をついているのだと、直ぐに理解出来た。
カサンドラの心臓は激しく脈打っていた。
カサンドラは急いで屋敷の中へと入った。
そこにはエイヴリーの姿はなかった。
(良かった……わたくしの気の所為だったのね)
カサンドラが安心して、帰ろうとした時だった。
男女が楽しそうに話す声がカサンドラの耳に届いた。
カサンドラは声を頼りに、その場所を恐る恐る覗き込んだ。
「……!!?」
エイヴリーのお気に入りの場所でもある、花が咲き誇る中庭のベンチ。
カサンドラとエイヴリーもよく一緒に過ごした場所だ。
そのベンチに座り、親密そうに肩を寄せ合いながら愛を囁き合っている二人の姿。
カサンドラは余りの衝撃に、その場から動けずにいた。
すると二人の距離はどんどんと縮まっていき……。
――カサンドラの前で口づけを交わしたのだ。
ふと、エイヴリーとキスをしている女性と目が合った。
驚きに少しだけ目を見開いた後、真っ赤な唇を歪めた女性は、次の瞬間……カサンドラに見せつけるように再びエイヴリーの背に手を回してから、何の悪びれもなく口づけを再開した。
そのアイスブルーの髪とベリーのような瞳には見覚えがあった。
侯爵令嬢のヘイリー・スディレンだった。
ヘイリーは"氷の華"と呼ばれ、その美貌は社交界で輝きを放っていた。
いつも男性に囲まれているヘイリーは婚約者がおらず、沢山の縁談が舞い込んでいると聞いた事があった。
確かに同性のカサンドラから見ても、ヘイリーは美しかった。
エイヴリーはヘイリーの腰に手を回して嬉しそうに微笑んでいる。
カサンドラは震える足で二人の元へ向かった。
「これは、どういう事ですか……?」
瞳に涙を溜めたカサンドラは声を絞り出しながら問いかけた後、縋るようにエイヴリーを見た。
そんなカサンドラの姿を見て、何を思ったのかエイヴリーは重たい溜息を吐いた。
「何故、連絡もなしに来たんだ……?」
「………え?」
エイヴリーの苛立ちを含んだ声にカサンドラは息を止めた。
どう見たって悪いのはエイヴリーな筈なのに……。
エイヴリーは焦りも謝りもせずにカサンドラを不機嫌そうに睨みつけている。
「ヘイリーとの折角の時間を邪魔されて最悪な気分だ」
カサンドラはエイヴリーの言葉に愕然としていた。
「どういう、事……?」
「ははっ、見ての通りさ!俺は運命の相手を見つけたんだ」
「……!!」
「ヘイリーこそ、俺の婚約者になるべき女性だったんだ」
「まぁ、嬉しい」
「カサンドラなら、分かってくれるだろう?」
カサンドラはエイヴリーの裏切りを目の当たりにして、瞳から涙が零れ落ちた。
何を分かればいいというのだろうか。
エイヴリーはカサンドラに手を貸す訳でもなく、ハンカチを差し出す事もなかった。
只、面倒くさそうに溜息を吐いてから、冷めた声でカサンドラに言い放った。
「カサンドラ……お前は少しガサツで、美しさに欠けるんだよ」
「……!」
「それに比べてヘイリーは美しく繊細で、会話も上手い」
「…っ」
「どっちを選ぶか、明白だろう?」
頭が真っ白になって、何も言葉が出てこなかった。
カサンドラは拳を握りしめていた。
喉の奥が痛くなるほどに怒りが込み上げてくる。
そもそもエイヴリーの婚約者はカサンドラの筈だ。
エイヴリーは、まるで古い服を捨てるかのように、カサンドラと婚約破棄をしようとしているのだろうか。
そんなカサンドラを見て、クスクス笑うヘイリー。
カサンドラはヘイリーを思いきり睨みつけた。
へイリーの余裕たっぷりの笑顔が、悔しくて悔しくて堪らなかった。
まるで私の方が上なのよ……そう言われているような気がした。
「わたくしを、愛していると……言ったではありませんか!」
「……ああ、確かにな」
「何故ッ!何故裏切ったのですか!!」
震える声で言ったカサンドラにエイヴリーは溜息を吐く。
「……もう終わりなんだよ。分からないのか?」
「!?」
「お前と婚約破棄をして、俺はヘイリーと結婚する事にする」
「うふふ、嬉しいわ」
「書類はすぐに送る……必ずサインしろよ?」
「……」
カサンドラの手から力が抜ける。
嘲笑うようにこちらを見る二人に、カサンドラはその場から立ち去る事しか出来なかった。
ここでカサンドラがいくら騒ぎ立てたって侯爵家と伯爵家相手では勝ち目がない。
訴えたところで、簡単に揉み消されてしまうだろう。
カサンドラは家族の顔を思い浮かべた。
今、カサンドラがヘイリーやエイヴリーを引っ叩いて暴れたとしても、家族に迷惑を掛けるだけだ。
悔しくて悲しくて頭がおかしくなりそうだった。
あれだけ「愛している」と言っていた癖に、手のひらを返された。
エイヴリーとの愛は一瞬で偽物になったのだ。
数日後、カサンドラはエイヴリーから一方的に婚約破棄された。
カサンドラは子爵家、一方エイヴリーは伯爵家。
やりたい放題のエイヴリーを止める方法など、カサンドラは知らなかった。
カサンドラの家族は抗議しようと言ったが、カサンドラは静かに首を振った。
そして、エイヴリーは侯爵家の次女であるヘイリーとすぐに婚約をした。
社交界では捨てられた子爵令嬢カサンドラと公の場で愛を囁き合うヘイリーとエイヴリーの話でもちきりだった。
婚約破棄されたカサンドラは暫く表に出る事が出来ずに部屋に閉じこもっていた。
そんなカサンドラを家族は心配していた。
身勝手な婚約破棄といえど、これから結婚の幅が狭まり、家族にも心配を掛けてしまうと思うと気が重かった。
カサンドラとエイヴリーの壮大な恋は一瞬にして終わりを迎えた。
まるで炎が水で消されてしまうようだ。
そんな時、悲しみに泣き暮れるカサンドラに光が差し込んだ。
メレゼ子爵邸に一人の男性が訪れてきた。
それがベルファスト国王の次男であるブライアンだった。
第二王子であるブライアンと子爵令嬢であるカサンドラは、昔からの顔馴染みであった。
メレゼ子爵は色んな花を育てていて、城の色んな場所に飾る花を月に二度、新しく替えていたのだ。
父の仕事について行き、カサンドラも何度も何度も城に行っていた。
そして父の仕事が終わるまで、歳の近いブライアンとよく遊んでいたのだ。
当時、ブライアンと庭を駆け回っていたカサンドラ。
身分関係なくカサンドラに接してくれるブライアンは良い友人だと思っていた。
そんな時、ブライアンは隣国へ一年間留学する事となった。
そしてブライアンが留学から帰ってくる少し前に、カサンドラとエイヴリーは婚約した。
留学する前は、月に一度はお茶をする仲であったカサンドラとブライアン。
しかしブライアンが帰ってきてからはエイヴリーと婚約していたのもあり、ブライアンとのお茶の予定を断っていたのだ。
そして婚約破棄……。
ブライアンは何度も「カサンドラと会って話がしたい」と手紙をくれた。
カサンドラを心配してくれている気持ちは嬉しかったが、カサンドラはボロボロで瞼も腫れていて、とてもブライアンと会える状態ではなかった。
その為、何度も断りの手紙を書いていた。
――コンコンコンッ
そんなある日、部屋に響いたノックの音に鼻を啜りながら返事をする。
部屋で泣いていたカサンドラの前に、颯爽と現れたブライアン。
背後には両親と侍女が嬉しそうに笑っていた。
呆然としすぎて動けないでいるカサンドラの涙を親指で拭ったブライアンは、悲しそうに眉を顰めた。
「こんなに目を腫らして……」
「……ブライ、アン?」
「君にそんな顔をさせる程に……あの男が好きだったの?」
「っ、いいえ!腹が立ちすぎて、悔しくて泣いているのよッ」
「………そうか」
「今は、世界で一番嫌いな人だわ…っ」
カサンドラがそう言うと、ブライアンはカサンドラの頬の涙の跡にキスを落とす。
「!!!」
「ねぇ……カサンドラ、僕と結婚してくれないかな?」
「え………?」
カサンドラは目を見開いた。
始めは冗談を言っているのかと思っていたが、ブライアンは真剣にカサンドラを見つめている。
「……冗談を」
「冗談じゃないよ」
「………」
「こんなタイミングでの告白になってしまうなんてね……情けない僕を許しておくれ」
「嘘……?」
「嘘じゃないよ。僕は本気だから」
突然、ブライアンはカサンドラに結婚を申し込んだのだ。
カサンドラは、あまりにも驚いてしまい涙が引っ込んでしまった。
ブライアンは照れているのか、ほんのりと頬を赤くしている。
詳しく話を聞けば、ブライアンが隣国から帰った後にカサンドラに意を決して結婚を申し込もうとした矢先………エイヴリーとカサンドラは婚約していて、ブライアンは暫く立ち直れずに、かなり落ち込んでいたらしい。
「………そんな」
「ずっと……君の事が好きだったんだ」
「ずっと?」
「君が城に初めて来たあの時から、ずっと……」
カサンドラは、ブライアンが留学する前に話した事を思い出していた。
ずっと婚約者がいないブライアンに「好きな人は居ないの?」と問いかけた事があったのだ。
「幼い頃から好きな人が居るけれど、その人は僕の事を好きになってくれるか分からないんだ」
「ブライアンなら大丈夫よ」
「振られたら一生立ち直れない気がするよ…」
「ふふっ、貴方をそんな顔をさせられるなんて凄いわね」
「ああ、とても優しくて美しくて……僕は彼女の事を心から愛しているんだ」
ブライアンの優しい表情を見たカサンドラは、温かい気持ちになった。
「貴方はもう少し自分に自信を持った方がいいわ!」
「ありがとう、カサンドラ……」
「でもブライアンに、それだけ愛されている相手は幸せね」
「そうかな……?」
「きっとそうよ」
「なら、隣国から帰ってきたら気持ちを伝えてみるよ」
「応援しているわ」
その時は深く意味を考える事はなかったが、ブライアンの話を聞いた今では、全てが繋がるような気がした。
カサンドラは思わず、口元を押さえた。
まさかブライアンが、そんな風に自分の事を見ているとは思わなかったからだ。
ブライアンはいつも楽しそうにカサンドラの話を聞いてくれた。
カサンドラは幼馴染のように、気楽な付き合いだと思っていた。
まさかカサンドラを女性として意識しているとは思わずにカサンドラは驚いていた。
そしてその気持ちをストレートに伝えたカサンドラに対して、ブライアンは困ったように笑った。
「君との関係が壊れてしまうのだけは、絶対に嫌だったんだ」
「……ブライアン」
「少しずつでいいんだ……僕を男として意識してくれないか?」
「……でも、そんないきなり」
「カサンドラ……幼い頃から君だけをずっと愛していた」
カサンドラはもう二度と恋はしたくないと思っていた。
やはりエイヴリーに振られた心の傷が深く、立ち直れずにいたからだ。
それにブライアンの恋を応援していた自分の鈍感さにも、申し訳ないと思っていた。
「僕を利用してくれ……カサンドラ」
「……」
「今度こそ、君の側に居たいんだ」
ブライアンの熱い視線から目を離せなくなってしまう。
そっとブライアンの大きな手がカサンドラを包み込む。
ブライアンの震える声に心が締め付けられるような気がした。
カサンドラはブライアンの熱意に心が揺らいでいた。
幼馴染だったブライアンを初めて異性として意識した瞬間だった。
それからカサンドラとブライアンは共に過ごすようになった。
「カサンドラ、今日はいい天気だね」
「今日は君の好きなアップルパイを持ってきたんだ」
「カサンドラ……君はとても綺麗だ」
「大好きだよ、カサンドラ」
ブライアンの優しさと甘い愛情にカサンドラは絆されていった。
傷ついたカサンドラを励ますように手を取り寄り添ってくれるブライアン。
「どうしてここまでしてくれるの?」そう問いかけたカサンドラに、ブライアンは「もう、あんな思いはしたくないんだ。君を奪われたくないんだよ…」と言ってカサンドラを強く抱きしめたのだった。
ブライアンと居ると自然とエイヴリーの事を思い出す回数が減っていった。
ブライアンとの時間は、カサンドラを癒してくれた。
そんな時、エイヴリーとヘイリーがいつも喧嘩ばかりしているという噂がカサンドラの耳に入ってきた。
どうやら二人の仲は、あまり良くはないようだ。
(もう関係ない、忘れよう……)
エイヴリーの名前を聞いて、カサンドラは揺れ動いていた。
そんなカサンドラをブライアンはじっと見つめていた。
―――そして数ヶ月後。
「もう二度と君を誰かに取られたくない。カサンドラ、君を心から愛してる」
「……ブライアン」
「カサンドラ……俺と結婚してください」
「っ、はい!」
カサンドラは涙を流しながら頷いた。
ブライアンは婚約破棄されたカサンドラの心情を察して「婚約期間を設けずに直ぐに結婚しよう」と言った。
始めは驚いたカサンドラだったが、ブライアンの気持ちが嬉しかった為、ブライアンの提案を受け入れた。
ブライアンの両親である国王と王妃も、一途で奥手なブライアンにずっとヤキモキしていたらしく、カサンドラと結ばれた事を心から祝福してくれた。
カサンドラは不幸のどん底から幸せの絶頂へと上り詰めた。
まだ正式に結婚は発表していなかった。
カサンドラが婚約破棄してから半年程しか経っていなかった為、時期を見て発表しようと話が纏まったのだ。
カサンドラは子爵家で荷物の整理をしていた。
暫くは王城で暮らして、必要な事を学びながらブライアンと共に過ごす事になっていた。
本来ならば教育を受けてからカサンドラは王家に嫁がなければならない。
しかしブライアンの気遣いで、順番はバラバラではあるが、カサンドラの事情もあり、特例で認められたのだ。
ブライアンはカサンドラの事を一番に考えてくれた。
そんなブライアンには感謝してもしきれない。
そんな時だった。
始めは屋敷が妙に騒がしいなと思っていた。
侍女が「様子を見てきます」と部屋から出て行ったのだが、その後すぐに帰ってこない事をカサンドラは不思議に思っていた。
どんどんと騒ぎが大きくなっているような気がして、カサンドラは様子を見に行こうと立ち上がった。
こちらに近付いてくる大きな足音と言い争う声。
―――バンッ!!!
ノックもなしに乱暴に開く扉と大きな音……。
そこから現れた見覚えのある顔に、カサンドラは目を見開いた。
「―――カサンドラ、お前とよりを戻してやろう」
まるで"朗報"とでも言うように嬉しそうにカサンドラの部屋に入ってきたエイヴリーの姿。
カサンドラが手に持っていた本がポロリと落ちた。
いきなり連絡もなしに屋敷にやって来たのは元婚約者……ビズレッド伯爵家の嫡男であるエイヴリーである。
その後ろからは困惑した表情を浮かべる侍女や執事達の姿があった。
心配そうに此方を見ている。
興奮しているのか、エイヴリーは目を見開きながら此方を見ていた。
「は……?」
開口一番……あまりに馬鹿馬鹿しい発言に、この言葉しか出てこなかった。
そして何を思ったのかは知らないが、思いもよらない言葉がエイヴリーの口から飛び出した。
「寂しかっただろう?俺がお前を振ったせいで俺を忘れられなかった事だろう………悲しい想いをさせて悪かった」
「……」
「しかし、今日からはまた俺が側にいてやるから安心しろ?父上と母上にはもう話してあるんだ!なんて優しい息子なのだと褒められたよ」
「……」
「さぁ、早く手続きをしようじゃないか!もう泣く必要はない……愛しい婚約者が戻ってきたのだから」
怒りを通り越して呆れてしまい、何も言葉が出てこなかった。
ただ、目の前でペラペラと意味の分からない言葉を話している勘違い野郎の顔を殴り飛ばしてやりたいと思った。
(どういう思考回路なの……?)
スッ…と自分の手首を押さえて、殴りたい衝動に耐えていた。
そして、こんな男を心から愛していた自分を恥じた。
「―――カサンドラ、またお前を愛してやるからな」
頭の中の何かがプチンと切れた。
カサンドラはニッコリと笑顔を浮かべて、エイヴリーに優しく諭すように言った。
「わたくし、もう結婚してますけど……?」
「……え?」
エイヴリーの間抜けな顔に少しだけ心が晴れやかになった。
カサンドラは床に落ちた本を拾い上げて、パンパンと汚れを払った。
そう……エイヴリーと再び愛を育むなんて、この世界がひっくり返ったってあり得ない事だ。
エイヴリーに裏切られたカサンドラは、心が激しく痛んでいた。
まるで針で刺されているような感覚にカサンドラはずっと苦しんでいたのに……エイヴリーは再びカサンドラと共に居ようというのか。
(本当、無神経すぎて信じられないわ)
今のエイヴリーを見ても以前のような愛しい気持ちは全く湧き上がってこなかった。
むしろ心にあるのは嫌悪感と、二度と顔を見たくなかったという思いだけだ。
(あんなに愛していたのに……嘘みたい)
むしろエイヴリーの顔を見ていると吐き気すら感じる。
カサンドラは思いきり顔を顰めた。
この勘違いを通り越して、有り得ない夢を見ている元婚約者に言ってやりたい事は山程あった。
本についた汚れを払うように、カサンドラにとっては埃と同じ。
(要らない、この人はもうわたくしにとっては必要ない人だ……)
湧き上がる怒りを抑えるようにカサンドラは深呼吸した。
「貴方に愛してもらうなんて有り得ないわ!わたくしは、もう愛を誓った方がいますから」
「!!」
「貴方なんて………必要ない」
公式な発表はまだなので、エイヴリーの耳にも情報がまだ入っていないようだが、そもそもカサンドラには愛する夫がいる。
ブライアンが側に居てくれる。
ブライアンがカサンドラを励まして寄り添ってくれたから、カサンドラは再び幸せを掴む事が出来た。
エイヴリーと共にいても幸せは訪れない……絶対に。
「ど、どういう事だ……!?」
「そのままの意味ですわ」
「だって、君は……!俺の婚約者だったじゃないか!」
「元婚約者です」
「……だから、今から」
「はぁ!?」
「再び婚約関係に戻ればいいじゃないかッ」
自分から婚約破棄をした事を忘れてしまったのだろうか。
再び婚約関係に戻ると簡単に言ってはいるが、カサンドラが「はい、分かりました」と言うと、本気で思っているのだろうか?
「貴方とヨリを戻すなんて、絶対に嫌」
「!?」
名前を呼ぶ事すらしたくなかった。
"貴方"と言ったのはわざとだ。
「わたくしと貴方は、もう無関係です」
「なん、だと……?」
「婚約破棄をしました。言ったのは貴方からです……!だからもう、わたくしには関わらないで」
意味が分からないといった様子のエイヴリーに、カサンドラは冷たく言い放つ。
そしてカサンドラの"無関係"の言葉にムッとしたエイヴリーは顔を険しくさせた。
「あんなに俺を愛していると言っていたではないか…!」
確かにカサンドラはエイヴリーを愛していると言った事がある。
しかし、それはカサンドラとエイヴリーが婚約していた頃の話だ。
それなのに、まだカサンドラがエイヴリーを愛していると本気で思っているのだろうか。
(最悪な気分だわ……!)
カサンドラにとってエイヴリーはもう赤の他人なのだ。
「もう過去の事です。それに貴方は、わたくしを裏切り、ヘイリー様と婚約したではありませんかっ!」
「……っ」
「お引き取り下さい……貴方の顔なんて二度と見たくない」
そう……エイヴリーはヘイリーの婚約者だ。
この場でカサンドラに迫る意味が分からなかった。
「だから、以前はすまなかったと言っているんだ!勘違いしていたんだ。俺の運命の相手はお前しか居ないって言ったじゃないか!!俺も反省しているんだ……分かるだろう!?」
「分かりません、帰って下さい」
「そんなに拗ねるなよ、カサンドラ」
「……」
「俺たちはまた婚約して、ゆくゆくは夫婦に…っ」
「なりません……何を言っているんですか?貴方はヘイリー様の婚約者です。ヘイリー様の婚約者である貴方が今更わたくしに何の用ですか……?」
カサンドラがエイヴリーの発言を無視して"ヘイリーの婚約者"を強調しながら問いかけるとエイヴリーは大きな溜息を吐いた。
「………あの女は、俺に相応しくないんだ」
吐き捨てるように言ったエイヴリーに、カサンドラは驚いていた。
「ヘイリーは我儘ばかり言って俺を困らせるんだ……それに俺が居るのに他の男に目移りばかり!!俺の魅力が分からない女なんて……塵だろう?」
「……!!」
「だからもうヘイリーと駄目になるのは時間の問題なんだ。安心してくれ!」
一体、何を安心すればいいというのだろう。
突っ込みどころが有り過ぎて、むしろどう返せばいいかカサンドラは分からなかった。
(どうしてこんなに言葉が通じないの……?)
慌てて部屋に入ってきた侍女や執事達が、エイヴリーに引き取るように言うが、エイヴリーは全く帰る気はないようだ。
「俺はカサンドラと婚約するまで、引く気はないッ!!」
つまりエイヴリーの話を簡単にまとめると、ヘイリーの性格に不満があるから別れて、カサンドラと再び婚約関係に戻りたいと言う訳だ。
しかし、ブライアンがいるカサンドラにとっては全く関係のない話である。
そもそも結婚していると言っているのに、何故しつこく迫ってくるのだろうか。
「ッカサンドラは……俺を愛しているんだろう!?だけど、忘れられずに他の男と結婚したなんて嘘をついているのだろう!?」
「………ッ、嘘なんて」
「大丈夫だ!また俺が愛してやるからな」
カサンドラに必死に訴えて自分の意見を通そうとする姿を見ていると、嫌な気持ちが込み上げてくる。
むしろこんな男を愛していたなんて、なんて見る目がなかったんだろうと反省するばかりだ。
本性を知った今では、別れてよかったと心から思っていた。
(こんな人が好きだったなって……!)
前から迫ってくる言葉が通じない元婚約者に一歩、また一歩とカサンドラは後ろへと後退した。
「わたくしには、もう一生添い遂げたいと思う方がいるんです……!」
「嘘をつくなッ」
「嘘ではありません!!」
「あの時の事を怒っているなら、もう俺はカサンドラの方がいいと気付いてしまったんだ」
「……帰ってください!!」
「俺が愛しているのは――カサンドラ、お前だけだ」
カサンドラは壁際に追い込まれていく。
「嫌っ!」
エイヴリーに肩を掴まれそうになり、カサンドラは思いきり振り払うが手首を掴まれてしまう。
「何処の馬の骨かは知らないが、絶対俺の方が……ッ!!」
思いきり強い力で掴まれた為、痛みに顔を歪めた。
「お嬢様ーーッ!」
見兼ねた侍女数名がカサンドラとエイヴリーの間に入る。
「お嬢様には愛する方がおりますッ!お引き取り下さいませ」
「うるさいッ!俺に指図するな……!」
今にも侍女を殴りそうな勢いのエイヴリーに、カサンドラは恐怖を感じて大声で叫んだ。
「………誰かッ!」
「―――ッ、カサンドラ!」
「ブライアン様ッ…!」
ブライアンの声が聞こえたカサンドラは、思いきり暴れてエイヴリーの手から逃れた。
そしてエイヴリーが怯んでいる隙を突いて、ブライアンの元へと駆け出した。
ブライアンはカサンドラを庇うように背に隠す。
ブライアンの大きい背中に触れたカサンドラは安心感から涙が滲む。
「カサンドラを迎えに来てみれば……まさかこんな事になっているなんてね」
「……ブライアン様」
「メレゼ子爵が焦っているから何事かと思ったら……全くあり得ない」
「突然、わたくしの部屋に……!それに結婚していると言っているのに復縁を迫られてっ!」
「ほう……」
尻餅をついていたエイヴリーは腰を押さえるようにして立ち上がる。
エイヴリーは鋭くブライアンを睨みつけた。
「いたたっ……おいっ!カサンドラ、何するんだ……!」
「それはこちらの台詞だ……エイヴリー・ビズレッド」
エイヴリーは、その声の主を睨みつけようとした時だった。
「え……っぁ」
目を見開いたエイヴリーは小刻みに震えている。
「僕の愛する妻に……何の用だ」
「……っ」
先程の勢いはどこへやら。
ブライアンの顔を見たエイヴリーは瞳を右往左往させている。
「カサンドラを傷付けた元婚約者が……一体何の用だと聞いているんだよ?」
「ブ、ライアン殿下……!」
まさかカサンドラの相手が、この国の第二王子だとは夢にも思っていなかったのだろう。
エイヴリーはどうするべきか迷っているようだった。
ブライアンはエイヴリーを見て吐き捨てるように言った。
「……カサンドラを裏切ったくせに、よくも顔を出せたものだ」
「………っ」
「僕の愛する人に手を出そうとするなんて……君は馬鹿なのか?」
「いや…それは……っ」
「厚顔無恥とは、まさしくこの事だな」
ブライアンの言葉にエイヴリーは顔を赤くした。
「それに君が、マリズ侯爵家と上手くいっていない事は調べはついている。それに随分な借金を負って、勘当寸前なんだってね……それがマリズ侯爵家にバレたんだろう?」
「な、何故ッ…それを!」
「もうすぐ婚約は破談になるだろうね。理由はどうであれ、借金塗れのビズレッド伯爵家に嫁ぎたい令嬢などこの国にもいないだろう……?」
カサンドラはエイヴリーに冷めた視線を送る。
エイヴリーの本当の目的を知ってしまえば不快感しか湧いてこない。
つまりカサンドラがまだエイヴリーを好きだった場合、カサンドラの恋心を利用しながら、金を巻き上げようと思っていたのだろう。
理由が分かると、エイヴリーの必死な態度も頷ける。
(本当にクズだわ……顔も見たくない)
ブライアンはカサンドラを守るように優しく抱きしめた。
エイヴリーはその様子を呆然と見ていた。
そして、ブライアンはエイヴリーを鋭く睨みつけた。
「…………今すぐ、僕の前から消えろ」
ブライアンの低い声が耳に届いた。
「カサンドラの肌に跡が残ってしまった……君は僕の妻を二度も傷つけたんだ」
「……ぁ」
「次にカサンドラに触れてみろ……?その首、切り落としてやる」
「!!!」
ブライアンの言葉にエイヴリーは思わず首を押さえた。
「カサンドラ……言いたい事があるなら言ってしまいな?」
「え……?」
「もう彼と会う事は一生ないのだから……」
カサンドラがブライアンの言葉に驚いて顔を上げた。
カサンドラはグッと拳を握った。
あれ程に愛していた男は、今となっては……。
「わたくしを振って下さって、本当にありがとうございます」
「……!」
「その間抜けな顔を、二度とわたくしに見せないで下さいませ」
「カサ、ンドラ…」
「……さようなら」
始めは震えていた声……けれど次第に怒りが籠る。
一時は共に時間を過ごした人……。
進んだその先は、天国と地獄への道に分かれていた。
「……連れて行け」
ブライアンが手で合図すると、後ろに控えていた騎士達がエイヴリーの両腕を掴み、容赦なく引き摺っていく。
その様子をカサンドラは黙って見ていた。
「嫌だッ、待て!いやだああああーー!」
そんなエイヴリーの叫び声を聞いたカサンドラはスッキリとした気分で息を吐き出した。
「ありがとう、ブライアン……」
「これでカサンドラの全ては僕のものだね」
「え…?」
「あの男が少しでも君の心に残っていると思うと嫌だったんだ。今日は全てを断ち切れただろう?」
ブライアンの言葉にキョトンとしていたカサンドラはクスクスと微笑んだ。
ブライアンの可愛らしい独占欲はカサンドラにとっては嬉しいものだ。
「あの男が、カサンドラに触れていたと思うと腹立たしいよ」
「……ブライアン」
「おいで……消毒しなくちゃ」
「きゃ…」
ブライアンはカサンドラを抱き抱えた。
カサンドラはブライアンの首に手を回して体を預けた。
「愛してるよ、カサンドラ…」
「……ブライアン」
「何だい?」
「わたくしを救ってくれて、ありがとう」
「もう……君には敵わないな」
あの後、借金だらけのエイヴリーがどうなったのか。
ブライアンに問いかけてみると「この国にはいない事は確かだね……」と柔らかい笑みを浮かべながら吐き捨た。
そして、あれだけ持て囃されていたヘイリーも社交界で一切見掛けなくなった。
まさかブライアンが手を回したのかとも思ったが、カサンドラは何も聞かなかった。
(悪い事は全て自分に返ってくるのね……)
そう思わずにはいられなかった。
end