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『勝手にいなくなるな』
そう声が聞こえた気がした。朱洋がこう言ったのは、藍蘭が誘拐された時だった。
新緑の葉が風に揺れる。ざわざわと鳴る木々は藍蘭の不安を煽った。藍蘭はガタゴト揺れる荷台に手足を縛られて転がされていた。勿論口には猿轡がされていて、藍蘭の文句は言葉にならなかった。
(…なんか、懐かしい夢…)
頭の片隅でそんな事を思う。
藍蘭の感じた通り、これは夢であり、過去の思い出でもある。
藍蘭がこの状況になったのは12才の時だった。
森で迷子になったという壮年の男性を森の出口まで案内しようとした藍蘭は、あっという間に薬を嗅がされ、気が付いたら荷台の上だった。
過去の出来事だから当然次に何が起きるかもわかっている。
白烏が朱洋を連れてくるのだ。
藍蘭はやって来た朱洋に散々文句を言われ、舌打ちされながら猿轡と手足の紐を解いてもらう。
そして、藍蘭は雷を落とした。
藍蘭の妖術は実のところ二つある。一つは白烏そのもの。そしてもう一つが落雷だ。藍蘭が自在に落とせる雷だが、そのコントロールはほぼできない。大きな雷を一直線に落とすのみだ。
一撃必殺のこの妖術のおかげで森は山火事となり、この後藍蘭は恵丹に雷禁止令を出されるのだ。
(考えてみれば、この時雷落とせって言ったの、朱洋だった。私が怒られることなかったんじゃない?)
山火事の原因が藍蘭の落とした雷であったとしても、示唆したのは朱洋だ。勿論当事者の藍蘭に責任があるが、それなら朱洋も同罪の筈だ。なのにこの時、朱洋が怒られた記憶が藍蘭にはなかった。
(昔っから要領良かったもんね)
同じ事をしても朱洋は成功し、藍蘭は失敗する。その関係は藍蘭の自尊心を傷付けるのだが、ただ、朱洋に悪気はないし、最終的には、なんのかんの言いながらも藍蘭を放っておくことはしない。
だから藍蘭は朱洋が好きだったし、彼の横に並び立てるようになりたかった。
(………好き?いや、好きは好きだけど…あれ?)
朱洋への好きとはどういう好きだっただろうか。急に頭を掠めた思考に藍蘭は夢の中で首を捻る。
朱洋は幼馴染みであり、窮鼠の仲間であり、親友でもある。時には好敵手になり、兄のようで弟のようでもある。
自分にとって最も身近な存在であることは確かだし、信頼している。
だから、昨日朱洋にキスされた時は驚いた。
(そうだ、キス)
「されたんだった!」
藍蘭は布団から飛び起き、叫んでいた。
窓からは長閑な鳥の鳴き声が聞こえ、暖かな春の朝を演出している。
そんな穏やかな外とは対照的に藍蘭の心中は激しく混乱していた。
何故、一体どういうつもりで朱洋はあの行動に出たのだろう。
(当て付け?いや、何に対しての?…警告?いやいや、何の?…え、もしかしてただの嫌がらせ?)
「…わ、わからない…」
キスの理由も、朱洋の気持ちも。
もっとわからないのは自分の気持ちだ。
嬉しいのか、怒っているのか、悲しいのか。全部そうとも思うし、全部違うとも思う。
(まさか…好きだから?)
「いや、それはないか」
一瞬心に浮かんだ考えを藍蘭は声に出して否定した。
朱洋が藍蘭を嫌っていないことは明白だし、お互い好きではある。ただ、その好きは色恋の好きではない筈だ。
(……違う、筈…)
二人の間に恋愛の文字はなく、それが藍蘭にとっては安心材料でもあった。
恋人じゃないから関係は切れない。
ずっと一緒にいられるのだ。
(でも、それなら何で?そういう気分だったってこと?…誰でも良かった?)
「…いや、そういうタイプじゃないし…」
朱洋はそんないい加減な男ではない。
それは長い間の付き合いが証明している。
「ますますわからない…」
ぐるぐると考え出して、藍蘭は頭を抱えた。
そんな藍蘭に声がかかった。
「さっきから何をぶつぶつ言ってるの?」
戸口に立っていたのは身支度を終えた琳だった。