16
夕飯に出てきた熊鍋を、琳は複雑な思いで見つめた。
美味しそうな見た目と匂いの熊鍋が目の前に出された時、琳は直ぐには受け取れなかった。
熊を捌く所を見ないようにしていたというのに、汁の中の肉は琳に生々しい血と断末魔を想像させた。
そんな琳を横目に藍蘭はてきぱきと配膳を進める。夕食には体調も良くなってきた澪章と一人で鍋をすることはないだろう朱洋もいた。
(考えてみると不思議なメンバーよね)
窮鼠である藍蘭達と朝廷を追われた役人、密出国しようとしている貴族。
関わることのないそれぞれが同じ食卓を囲む。配膳を終え食べ始めた藍蘭はつらつらとそんな事を考え、肉をつつき、汁を啜った。
「琳、食べないの?」
汁椀を持ったまま固まる琳に藍蘭は視線を向ける。同様に朱洋も琳を一瞥し、口を開いた。
「そんなビビんなくても、肉は肉だ」
「そうそう。いつも食べてる肉と同じ。熊でも鶏でも肉は肉よ」
朱洋に同意しながら藍蘭はパクパクと食事を進めていく。その姿を眺めて、琳はもう一度汁椀を見つめた。
「……肉は肉…」
それはそうなのだ。確かにここにあるのはただの肉で、熊でも鶏でも肉に違いない。熊を見たから、こんなに複雑な気持ちでいるが、では普段食べている鶏の肉ならいいのか。そう問われたら琳は答えられないし、鶏を食べていないわけでもない。
藍蘭達のように有り難く頂けばいいことも良くわかる。
ただ、琳はそう思ってもやっぱり箸が動かなかった。
そんな琳に恵丹が言う。
「そんなんじゃ、これからどうする?隣国に行ったら炊事洗濯、畑仕事に狩りも自分でやらなきゃならないぞ」
琳はここに来るまでこの先も誰かが世話をしてくれるような気がしていた。頭では理解できているのだ。これからは自分達で何もかもをしなければならないと。
ただ現実感はほぼなかった。
窮鼠に来て藍蘭と一緒に家事を手伝い、琳は漸くこの先の生活を具体的に想像できた。
「食わないなら貰ってやろうか?」
固まったままの琳を見て、朱洋は手を伸ばす。
琳はその手を見つめ、小さく首を振った。
「……いただきます」
琳は漸く箸を動かし、汁椀を啜った。
片付けを始めた藍蘭を手伝い、琳は食器を持ち上げた。
一度に運ぼうと重ねた食器を持って台所へと向かう。流し台では藍蘭と朱洋がなんやかやと言い合いながら作業をしている。
(仲の良いこと。お邪魔かしらね)
そんな事を考えながら、慣れない動作にぎこちなくよろめきながら琳は進む。どう考えても持ちすぎな食器は琳が動く度にカタカタと小さな音をたてた。
「琳、それ持ちすぎ!二回に分けて運べばよかったのに」
「そうね…」
藍蘭に言われて琳は同意を示す。台所までついた琳から食器の一部を貰い受け、藍蘭は流し台へ食器を入れた。
琳から背を向けたその短い時間で、彼女は小さな悲鳴をあげた。
「…きゃっ」
何故そうなるのか、琳は食器を持ったまま今まさに転ぼうとしている。
(えー!?なんで!?)
藍蘭は琳と食器を見て、一瞬固まった。
食器か琳か。手を伸ばすのはどちらなのか、一瞬本気で考え、(いや、琳だよ!)と心の中で自分に突っ込み、急いで琳へと手を伸ばした。
が、藍蘭が琳に触れるより先に朱洋が琳へと腕を伸ばしていた。
「…危ねぇな」
琳が転ばないようにその身を受け止め、食器も割らないようにきちんと支えている。
ナイスプレーだ。
文句をつける所などない、親切で善良な行動だ。
…だというのに、藍蘭の胸の中にモヤモヤとした気分が広がった。
(いや、別に二人とも他意はないし…)
端から見れば、抱き合っているように見える朱洋と琳。
美男美女でお似合いな二人はそろそろと離れた。
「…気を付けろよ」
「ごめんなさい。ありがとう」
琳と離れた朱洋は琳が持っていた食器を取り上げた。
(え、なんか優しくない!?)
これが琳ではなく藍蘭だったら、『馬鹿』の一言は必須、嫌味も絶対言ってくるのに。
(琳には言わないってどういうこと?)
しかも、食器まで代わりに持ってくるサービス付きだ。
「え、なんで?」
思わず隣に立ち、食器を水につける朱洋を見上げ声が出る。
藍蘭から聞こえた声に朱洋は首を傾げた。
「何が?」
「親切過ぎてる…!おかしくない!?」
「お前、失礼な奴だな」
憮然と朱洋は答えると、藍蘭の頬をつねった。
「いひゃい、いひゃい」
(対応の差!酷過ぎない!?)
バシバシと頬を掴む朱洋の手を叩くと、朱洋は藍蘭にあっかんべーをして、台所を後にした。