26
物語の主人公になりたかった。
◇
誰も俺を見てくれない。
誰も覚えてくれない。皆、忘れてしまう。
徐々に本来のヴェーチェルの人格に戻り始めているのだろう。異物は邪魔だと言わんばかりに意識が朦朧とする。
黒いモヤが押し寄せて、身体を、心を侵食していく。
私は闇に飲み込まれていく身体を他人事のように眺めていた。
抵抗する気はなかった。
誰一人自分のことを知らない世界に何の価値があるというのだろう。
考えて、「ないな」と自傷気味に笑う。
消えることは恐ろしい。死ぬと同意なのだから当たり前だ。
以前までは死ぬことが人にとって最大の恐怖なのだと考えていた。
だけど今は違う。忘れ去られること。
これ以上に辛いことはないし、自分が忘れ去られた世界で生きるくらいなら消えた方が楽なんじゃないか。とまで思えるようになっていた。
何もない、退屈な人生。
つまらないことを不幸だの幸せだのと決めつけ、嘆いたり喜んだりしていたあの頃。
家族に、少ないながらに友人に、クラスメイトに存在を認められていた日々が幸せだったんだと今更ながらに実感した。
気づくのが遅かった。
そんなことを思いながらゆっくりと目を閉じた。
刹那ーー誰かに名前を、呼ばれた気がした。
◇
間に合わなかった。
速報で流れてきた瞬間最大風速を耳にして、それでも矢野は走り続けた。
既に人混みは抜けていた。
海も見え始めている。あと少し。あと少しだ。
最大風速となった球体の暴風域はゆっくりと内地へ向かって移動を始めているらしい。
今はそれと言った大きな被害こそないが、それも時間の問題と言えた。
と言うのも、球体の暴風域は、周囲の風を吸収し肥大化していく。故に、周囲の風は大したことはない。比較的強い台風ほどだ。
しかし、球体部分に関しては別だった。
内陸に上がれば進行方向にあるもの全てを吹き飛ばし、更地へ変えていく。
それほどまでの力を秘めている。
このまま進行していけば大変な事態になることは免れない。
矢野は走る。
普通の学生だったかもしれない。そんな子に、罪を背負わせたくなかった。
雨風に晒されて、強風に煽られて。蹌踉けながらも、走り。
球体を目に捉えた。
それは風だった。
目に見える、黒い風。
水の様に変幻自在にうねり、轟音を響かせる。
海を抉りながら接近してくる様子はまさにSF映画を見ている様で。
ーーあぁ、無理だと悟った。
響き渡る轟音の中、矢野は自分の無策さを呪った。
「ヴェーチェル! 止まれぇええ!」
矢野の声は届かない。届くわけがない。
渾身の叫び声は轟音で虚しく掻き消されていく。
拡声器でも持ってきていたら……そんな無い物ねだりが止まらない。
「止まれったら、止まれ! 止まるんだ!」
球体に変化はない。海水を撒き散らし、近づいてくる。
「止まれよ! 頼むから!」
対面すれば何か出来ると思っていた。
自惚れていた。
結局自分はただのシナリオライターで物語の主人公ではなかった。
物語の主人公の様にカッコよく止めることは出来ない。ただ無様に叫ぶだけ。
あの時、街であった少年の方がよっぽど主人公らしい。
あんな小さな身体であの人混みに逆らうのは凄く勇気がいるだろう。
それでも彼はやって来た。ボロボロになっても矢野の元へと辿り着いた。
「お願いだからさ! 止まって! 止まってくれよ! 一緒に帰ろう、ヴェーチェル! いや『もりしまゆう』!」
叫ぶ。喉が焼けるように熱い。
声が枯れ、しっかり言葉となっていたかも怪しい。
だが、確かに矢野は言い切り。
途端に轟音が止んだ。
「……なんで…その名前を…?」
矢野の目の前には、狼狽える翡翠のヒロインの姿があった。