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少年とナイフ

作者: 樹一和宏

30分ほどで読める短編です。


消化不良な出来なのでお蔵入りしようと思っていたのですが、折角書いたので投稿しました。

 ボクの通う中学校にはルールがある。校則じゃない。法律でもなければ、マナーでもない。暗黙のルールというやつだ。別に律儀に守る必要はないけど、守らなかったら最後、どんな目に遭うか分かったもんじゃない。


 一つ、目上の人には挨拶をすること。これは先輩にする、という意味じゃない。同級生、先輩に関わらず、一部の生徒には会ったらキチンと挨拶すること。

 一つ、目上の人には敬語を使い、道を譲ること。

 一つ、目上の人以外、制服のボタンは開けてはならない。


 また、ボクの家にもルールがある。


 一つ、起床就寝出掛ける際は必ず挨拶すること。尚、出掛ける際はいつどこに誰とどうやって何をしに行き、いつ頃帰るのかを事前に言うこと。

 一つ、父親が一番風呂であること。

 一つ、夕食は必ず全員揃って食べること。一つ、犬の散歩は十八時までに済ませること。一つ、掛け布団を踏まないこと。一つ、扇風機のスイッチは足で押さないこと。一つ、一つ、一つ……


 昨日としさして変わらない今日。今日と変わらない明日。明日と変わらない昨日。同じ日々の連続に嫌気が差していた。


 もう、うんざりだった。


 居心地の悪い学校が終われば、塾へ向かい、帰宅すれば晩飯と風呂に入って一日が終わる。行動の自由がなければ、時間の自由もない。

 塾へ向かう道、反対方向に向かう学生服の男子生徒達とすれ違う。やれカラオケやら色恋沙汰やら、笑い話でもない話を楽しそうに話していく。

 そんな彼らを見る度に『あーあれだけお気楽に過ごせたらどれだけいいだろうか』なんて皮肉めいた台詞も浮かばず、ただ親指を咥えてその足取りを想像する。

 彼らが行くところはきっと『青春』とかいう花粉でいっぱいに満ちている所なのだろう。

 出来ればボクもそんな場所に行き、涙やら鼻水やらをティッシュがなくなるぐらいに流してみたいものだ。

 ボクがこれから向かう場所。それはそんな青臭い所からはかけ離れた所、謂わば牢獄。人は生まれながらに罪を背負っているというが、ボクが一体何をしたというのだろう。

 勉強が嫌いなわけじゃない。ただ強制されるのが嫌なのだ。

 学生は勉強が仕事。決められた就業時間、ボクは囚人のように指と脳を動かして、数式を解き、歴史を紐解き、作者の気持ちを考える。

 願わくば、両親にも問題を出してやりたい。


「問一、息子の気持ちを考えなさい」


 来年受験をし、高校に入り、今と同じような生活を送って、大学へ行き、就職して、何十年と会社に半生を捧げ、老後を迎えて天寿を全うする。

 あぁ、素晴らしきボクの人生。親に敷かれたレールただひたすらに走る運命。きっと小指についた赤い糸も、いつかは両親が写真で紹介してくれるのだろう。

 涙は出てこない。生き方を後悔して涙を流すなんてシナリオは用意されていないのだから。両親が決めたボクの人生の結末は決まっている。


「あなた方の息子に産まれて本当よかった。おかげでボクに人生に汚点は一つもなかった。叶うならボクはまたあなた方の息子として生まれたい」


 きっとこんな台詞を両親の手を握りながら涙ながらに語るのだろう。

 アー、ホント、サイコー。



 

 その日、雨が降っていた。雨は嫌いだった。傘で片手が塞がる、靴下が濡れる、理由を言い出せば切りがない。教室の窓から見下ろせば、川に落ちた華のように、色とりどりの傘が校門に向かって流れていく。

 塾に行かないといけない。

 黒い傘を差して一度家に帰ると、すり減った踵から水が入って既にびちょびちょだった。

 しばらくすると雨音が強さを増して、軒下は滝のようになっていた。

 これまで一度もサボったことはなかった。塾だけに限らず、学校も、無理矢理参加させられた地域ボランティアも嫌々ながら参加してきた。

 たまにはサボっても罰は当たらないだろう。頑張ったマイレージならきっと上限一杯には貯まっているはずだ。少しぐらい消費しなきゃ勿体ない。

 そうしてボクは去年お年玉で買ったゲームを起動した。それから三時間後、ボクはテレビの前ではなく、リビングの椅子に座り、手持ち無沙汰な手を膝の上で遊ばせていた。


「お前の将来を思って言っているんだ」


 父さんの決まり文句だった。ボクが少しでも反抗を見せるならば、出る杭はロードローラーで馴らす勢いで捲し立てる。


「そうよ、将来困らないために今のうちに勉強しておくのよ」


 病気の鑑賞魚を見るかのように、眉を寄せた母さんが続く。


「……将来困らないためって何?」

「ちゃんとお給料を貰って、何不自由ない生活を送るためよ。今のご時世、ちゃんと年金が貰えるかも定かじゃないんだから」

「ボク、老後のために今を生きているわけじゃないんだけど……」

「そういうことを言っているんじゃない。いいか、まだ中学生のお前は分からないと思うが、ちゃんと仕事に就いて給料を貰うというのは大変なことなんだぞ」

「ボクの人生、ボクの勝手じゃないの?」

「何を言っているんだ!」


 父さんが机を叩き、ぶつかり合う調味料が小気味良い音を立てる。


「お前はまだ自立も出来ていないじゃないか! そういうのは一端に働き出してから言え! お前の生活は今、俺のおかげで成り立っているんだ! 父さんが汗水流して働いて、そのお金でお前は学校に行って、ご飯を食べて、塾にだって行かせてやっているんだぞ!」

「ボクが頼んだわけじゃない! 塾だってそっちが勝手に決めたことじゃないか!」

「そんなに自分が立派な人間だと思うなら、出て行け!」


 その怒号に弾かれて、ボクは勢いのままに家を飛び出した。

 外は土砂降りだった。傘も持たず、全身に打ち付ける水は行水と何ら変わりない。ここまで濡れてしまうと、かえって不愉快さは感じなかった。

 音という音は全て雨に呑み込まれ、視界さえも呑み込まれる寸前。フードを目深に被り、沈み消えてしまいそうな夜を当てもなく走り続けた。

 脳裏で再現される親との会話。思い出すほど、歯を食いしばる力が増してしまう。

 どれほど走ったかは定かじゃない。見知らぬ公園に辿り着き、ボクはようやく足を止めた。遊具に砂場、広い原っぱ、雨が降っていなければ、きっと子供達の黄色い声が聞こえてくるのだろう。今は当然、誰もいない。


 ――いや、いた。


 ブランコに腰を下ろし、風になびく植物のように揺れている。女性だった。高校生ぐらいだろうか。虚ろな目は足元を転がり、空虚な顔が張り付いている。

 女性がボクに気付いた。目が合い、息を呑む。

 こんな雨の中、傘も差さず公園にいることにボクは不思議に思った。きっとそれは女性も同じことを思っただろう。互いの共通点に自然と惹かれ、ボクは相手が何かを言うんじゃないかと思い、その一言を待った。


「お前、何してんだ?」


 清楚な見た目とは裏腹に、口調は荒々しく思わず身をすくめてしまう。しかし、びびってると思われるのも癪で、ボクは出来る限りの虚勢を張り返した。


「……逃げてる」

「何で? 何から?」

「世間っていうのかな……人を殺したんだ」


 咄嗟に嘘を吐いた。特に意味はない。ただこんな天気で傘を差さない奴はトンデモナイ馬鹿か、異常な奴しかいない。ボクは自分ではなく、その異常な奴になりきってみたかったのだ。ボクはボクじゃない。しがらみだらけのボクはいない。

 女性が笑った。ツボに入ったみたいに下品に、息苦しそうに、大笑いする。女性は努めて笑いを堪えると、殺しきれない笑みを浮かべた。


「奇遇だな。あたしも殺したんだ」


 女性がポケットから出したのは折りたたみ式のナイフだった。刃を出すと、雨に濡れた刃先から赤い水滴が落ちていく。

 一瞬、心臓が止まった気がした。

 怖くないと言えば嘘になる。でも、それ以上にワクワクしたものがボクの中で生まれつつあった。ボクの常識の範疇に入らない異常な人、そこにボクは自分の世界の広がりを感じていたのだ。


「なぁ、あんたは誰を殺したんだ?」


 すぐ頭に浮かんだのは両親の顔だった。


「ボクは……父親を殺した」


 またも女性が笑い、余程面白いのか体を仰け反らせた。


「これまた奇遇だな。あたしも――」


 と、言い掛けた直後、雨の向こうで赤を連想させる音が微かに聞こえた。豪雨の中でも耳に届くサイレン。心当たりがなくても嫌でもそちらに目を向けてしまう。


「おっと、そろそろ行かなくちゃな」


 女性がブランコから降り、うーんと腰を伸ばした。


「どこ行くの?」

「そうだねー、風が向かうところかな」


 きっと女性なりの冗談だったのだろう。笑わないボクに、女性は困ったように破顔した。ボクは真剣に考えていた。この女性の過去とこれから経験する事が、知りたくてたまらなかった。自分とは違う世界で生きるこの人のことが気になって仕方がなかった。


「さぁお前もどっかに――」

「ねぇ、ボクもついてっていい?」


 知らず、口が勝手に動いていた。


「はぁ? 何言ってんだ。駄目に決まってんだろ」

「お願いだよ」


 吸い込まれてしまいそうな黒い瞳だった。その引力に逆らえず、ボクの目線が釘付けになってしまう。息を吸うことさえも許さないような鋭さの奥には、憂いさを感じさせる何かがあった。それに気付いてしまうと、女性への探究心がより一層に強まってしまう。


「お願い」


 雨は止まず、サイレンの音が次第に大きくなっていく。


 女性は大きく態とらしい溜息を吐くと「……勝手にしろ」と後ろ頭を掻いた。

 踵を返し、公園から立ち去ろうとする姿を、ボクは追い掛けた。

 雨は深く、明け方まで続いた。

 



 春が目先に迫っていると言っても、濡れたままでは風邪を引いてしまう。

 両親が寝静まった真夜中、ボクは家に忍び込み、家出する準備をした。玄関の鍵は普段はチェーンまで掛かっているのに、今日に限っては鍵が一つだけ掛けられていただけだったが、そんな些細なことは気にも止めず、大きめのバックに着替えと期待を詰め込んで、ボクは待ち合わせ場所のアーケードへと向かうことにした。家を出る際、不意にボクは父さんのマルチツールを思い出した。ナイフやドライバーが付いた奴だ。寝室に潜り込むと、こっそりと引き出しを開けてマルチツールを盗む。両親の寝顔を見ると、ホントに刺してやろうかと思った。



 

 深夜のアーケードは、くすんだ照明により朧気な光を放っていた。締め切られたシャッターの並びは不気味さすら感じ、昼間の賑わいが嘘のようだった。

 こんな時間にどこへ何しに行くのだろうか、軽装なおじさんが自転車を漕いで脇を抜けていく。


「おい、遅いぞ」


 ポストの横に女性はいた。

 さして怒っていなそうで、相変わらず手ぶらで薄手のパーカーだけ。宵越しの金は持たぬ精神でも、幾らなんでもやり過ぎだ。


「荷物多いな」

「これでもバック一つにまとめたんだけど」

「逃走犯がそんな荷物を持ってちゃ、いざって時に逃げられないだろ」


 ごもっとも。


 女性はボクのバッグを勝手に開けると、半分近くの衣服と暇潰し用にと持ってきたゲームと本を、建物の隙間に投げ込んだ。未練はないが、いや、でも、ちょっと……


「……それでどこに行くんですか?」

「そうだな……」


 女性は口元に手を当てた。何も考えていなかったようだ。かく言うボクも案など何もなく、女性の目線の後を追う。ふと止まったのは壁に貼られたポスターだった。


『その先の、道へ、北海道』


 青空と地平線まで続くひまわり畑。そのひまわり畑の中央にある道を、二人の男女が仲睦まじく歩いている。何が言いたいのか、よく分からないポスターだった。


「よし、ここに行こう」

「えっ!? 本気で言ってるの!? ここ東京だよ!?」

「あぁ本気だ。いいじゃん北海道。一度行ってみたかったんだ。そうと決まればとりあえず北だな」


 どこまで本気なのだろうか。歩き出した女性に小走り追いつく。端正に整った横顔からは、その本気度は伺えない。この人は一体何を考えているのだろう。


「どうした?」

「あ、いや、その、まだ名前知らないなって」

「そうだったな。あたしはユキ。お前は?」

「……タケシ」

「うわっ、普通」

「うわとか言わないでよ!」


 ユキさんが笑い、釣られてボクも顔が綻んでしまう。歩くより速く、走るより遅く、ボク達は進んだ。逃げるように、消えないように。



 

 ただひたすらに北上するだけと行かないのが日本の地理、ましてや東京。職人の手によって技巧を凝らされたような無駄のない隙間埋めは、徒歩で直進するには不向きだった。

 そこでボクらまず本屋で地図を開き、小目的地を決めると、そこに向かって転々と移動していくことにした。

 コンクリートジャングルを通り、住宅街を渡り、人混みの合間を抜けていく。

 歩道橋を越えて、線路を横断し、横断歩道で足を止める。

 道中、ボクらがするのは当然身の上話だった。

 ユキさんはボクの三つ上の高校生で、物心ついた頃から両親と三人暮らし。色々あって父親を刺殺して、家を飛び出してきたらしい。今頃は母親に通報されているだろうとのことだった。

 ボクは概ね同じだと言い、自分の話をするよりもユキさんの話に耳を傾けた。

 学校での息苦しさ、家の居心地の悪さ、世界の狭さ、将来への失望。ユキさんが語るそれにボクは共感を得るのと同時に、まるで世界の真実を目の当たりにしているかのようだった。自分が考えてもみなかったことに何度と頷き、自身の未熟さを思い知る。


「親が子供の心配をするのは当然っていうけど、根本は違うね。親が気にしているのは世間体さ。子供が駄目な人間になるのは、親として恥ずかしいことなんだよ。全部が全部とは言わないけど、自分のことより子供のが大事な親なんてのは、あたしは一握りだと思う。少なくともあたしの親はそうじゃなかった」

「あたしのために言ってるって言ったって、そこにはあたしの意見が一切含まれてないわけよ。全部親が勝手決めたこと。なのにそれを正論みたいに振り回してさ、こっちは納得出来ないってーの」


 家を出てから二日が経過していた。

 昼間は歩き通し、一歩毎に踵に痛みが走る程には疲労が溜まっていた。隣を行くユキさんはそんな素振りも見せず、澄ました顔を保っている。男のボクが音を上げるわけにもいかず、視線を感じる度にボクは平気な顔を見せることにした。

 日が沈むとボクらは長時間休める場所を探して、公園のガゼボなどで休息をとった。

 野宿は流石にまだ慣れない。

 星の下、虫の寝息がジリジリとボクの耳を掻きむしり、何度となく寝返りを打った。

 日が昇り、ボクらは再び歩き出す。とれきれない疲れのせいか、自然と口数が減る。ついでに腹も減っていた。


「タケシいくら持ってる?」

「たぶんユキさんと同じぐらい」

「二人で合計0円って所か……何が買えると思う?」

「パン屋の美味しい空気かな」


 試し行ってみたが、腹なんて一ミリも満たされず、寧ろ余計に腹が減っただけだった。

 結局ボクらは万引きをすることにした。あまり乗り気じゃないボクの心情を見抜いたのか、ユキさんが実行役を、ボクは建物の裏で待機することになった。

 ユキさんなら上手くやるに決まっている。心配なんて微塵もしていなかった。

 蛾の死骸を運ぶアリを観察していると、慌ただしい足音にボクは立ち上がった。角から飛び出してきたのはユキさんだった。


「わりぃ、バレた!」


 ユキさんに続いて、スーパーのエプロンを着けた男性が角から現れる。

 逃げろ逃げろ、とユキさんが言い、ボクは恥も外聞もなく走り出した。路地を駆け抜け、角から飛び出す。スーパーの表の道には大勢の通行人で賑わっていた。


「万引きだ! 捕まえてくれ!」

「違います! 万引きじゃありません!」ユキさんが叫んだ。


 え、万引きじゃないならなんの? と言いたく顔を見ると、


「通行人の判断を鈍らせるだけの時間を稼げればいいんだよ」


 とユキさんは小声で教えてくれた。


「助けて! 変態が追い掛けてくる!」


 ボクが叫ぶと、ユキさんが調子に乗って悲鳴を上げた。

 角を何度も曲がり、塀を乗り越え、逃げた先、気が付けば町中に掛かる橋の上にいた。

 振り返ると誰もおらず、ボクらは足を止めてどちらからともなく大笑いをした。

 肩で息をして、腹で笑って、足がクタクタで、空元気みたいな状態だ。何が可笑しいのかも分からないまま、ボクらは笑い続けた。

 誰かと一緒にこんなに笑い合うのは初めてな気がして、同時に、ユキさんと初めて通じ合えた気がした瞬間でもあった。



 

 ボクらの逃避行は続く。



 

 お金が欲しくなったボクらはカツアゲをすることにした。深夜に一人で歩いている人をターゲットに絞った。ユキがボクから逃げるフリをして助けた求めた人の背後に回って挟み撃ちにするのだ。ナイフで脅して、お札だけを要求すれば意外にも話はすんなり進む。

 服を着替えたくなった時は試着室で着替え、素知らぬ顔をして逃げ出した。

 回数を重ね、北上を続ける。

 慣れと慢心がボクの感覚を麻痺させていた。怖いものなど何もないと錯覚してしまっていた。

 その日ボクらは、終電から出てきた一人の男性を尾行していた。駅周辺は事前に軽くチェックしている。男性が閑静な住宅街行くための駐車場の抜け道に入った時だった。

 ユキが駆け寄り、男性の片腕にすがり付く。


「助けて! 男の人に追われてるの!」


 すかさずボクも駆け出し、マルチツールに仕込まれたナイフを見せびらかす。


「おい、怪我したくなかったら――」


 視界が揺れた。あまりの一瞬のことで痛みを感じたのはそれからしばらくした後。視界が途切れたことさえも疑問に思えず、次に目を覚ました時、ボクはどうして倒れているのかを理解するのに時間が掛かってしまった。

 ボクから少し離れた場所で男が女性に馬乗りになり、女性は何か抵抗しているように見えた。途切れ途切れに聞こえてくる悲鳴が、判然としない頭を通り過ぎていく。

 ようやく状況を飲み込めた時、ボクは呼吸することを忘れ、左顎の痛みを思い出した。

 ユキが馬乗りにされ、殴ろうとする男の手を必死に防いでいる。その事実だけで、ボクは全身が沸騰するほど熱くなっていた。

 地を蹴り、拾い上げ、振り上げ、振り下ろす。肉を刺す奇妙な感覚が右手から脳に走る。

 男が短い奇声を上げた。その隙を逃さなかったユキは男を体から押し退けると、ボクの手を取り、その場を後にした。

 無我夢中で走った。どこを走っているかなんて分かったものじゃない。でもとにかく、ボクらは止まることが出来なかった。

 長い間走って、ようやく足を止めた場所は、河川敷に掛かった高架下だった。万引きで逃げ切った時のような胸を満たすようなものはない。ボクらはただ互いの存在を確かめるみたいに目を見合った。


「あっ――」


 糊でくっついたような手を離すと、糸を引いた。暗がりで色は分からない。でもそれが何なのかは色を見ずと理解出来た。


「……ごめん」


 先に口を開いたのはユキだった。


「そんな、ボクの方こそごめん」

「何でタケシが謝るんだよ。あたしがもっとしっかりしていればタケシはあんなことを」

「違う。それはボクの台詞だよ。ボクがもっとしっかりしていればユキはあんな目に」


 手に残っていたユキの熱と感触が、次第に失われていく。もう一度、触れたかった。でも手を伸ばすことは躊躇われる。

 ユキが川で手を洗い出したので、ボクも見習って手を洗う。

 川は冷たく、いつの間にか体が熱くなっていたことに気がついた。川の中で何度も手を揉み、手に染みついたあの奇妙な感覚を洗い流そうと試みた。


「その、さっきはありがとうな。助けてくれて」

「いや、元はといえばボクが一発で伸されなければあんなことにはならなかったんだ」

「はは、かもな」


 何を、とボクはユキの顔を見た。月光に照らされて、さっきまでは見えなかった表情が読み取れる。ユキは笑っていなかった。目尻を赤く染め、今にも泣き出しそうな目元の下には、仄かに染まった痣が出来ていた。


「あっ、ホントにごめん」

「謝りすぎだよ。タケシがやったわけじゃないだろ」

「でも――」


 色んなものがない交ぜになっていた。遂に人を刺してしまったこと、ユキを泣かせてしまったこと、今の目の前にいるユキに触れたくて溜まらないこと。

 一つ一つの罪悪感や衝動を、どう消化すればいいのか分からなかった。ただ重苦しい溜息だけが生産されて、破棄されていく。


「手が冷えちまった」


 ユキが手についた水を払う。ボクも川から手を抜くと、夜風に晒された手は感覚を失いつつあった。暖かいものに触れたい。そこで、ボクの衝動は我慢の限界に達した。

 冷えた手でユキの痣に触れた。


「痣、冷やさないと」


 心臓が脈打っているのが分かった。普段の自分が絶対にしないようなことをしていることは重々に理解している。だからこそのこの鼓動なのだろう。

 怖かった。拒絶されることがただ怖かった。

 でもユキはボクの手の上に自分の手を重ねると、


「ああ、少しだけ冷やしてくれ」


 頬に押し当てた。

 無言が心地良いと思ったのは初めてだった。これまで無音はボクを責め立てるものでしかなかった。勉強する時に聞く無音、両親に怒られる時の一瞬の無音、夜に訪れる死んだような無音。でも今隣り合わせに感じる無音は、互いの存在を求め合う確かなものだった。


「本当は少し、ほんの少しだけだけど、怖かったんだ」


 ポツリとユキが話し出す。


「力で無理矢理ねじ伏せられて、全然かなわなくて、殴られたら痛くて」


声が震え始めていた。いや、声だけじゃなかった。体全身が小刻みに震え始めている。


「怖かった。タケシが起きてくれなかったら今頃、あたし何されてたか……」


 それは次第に大きくなり、言葉は形を失い、最終的にはただの呻き声になっていた。指先に暖かいものが落ちてきた。頬に光る一筋の線を見て、ボクはようやくユキの正体に気がついた。

 人を殺したと笑い、人の物を勝手に捨て、盗みを当然としてやり、世間へ悪態を吐く。どこかたくましくて、いつもボクの前を歩いているからボクはすっかり騙されてしまっていた。

 ユキは正体は、ただの少女なのだ。

 震えて、泣いて、人肌を求める。それに気付いてしまうと、途端ユキが愛おしく思えて、ボクはユキの体を抱き寄せた。


「何だよ、年下の癖に」


 震えが止まらない声でユキが精一杯に言う。


「なら年上らしくしてみなよ」

「生意気」


 ボクはそれを無視してより一層抱き締めると、ユキはしがみつくようにボクの背中に手を回した。

 それからボクらが嫌いな大人の真似事をするまでに、さほど時間は掛からなかった。




 翌朝、目が覚めると、昨日のことが夢の出来事だったみたいにユキはいつも通りに接してきた。これで良かったのかも、と思いつつも、やっぱり半分肩を落とす自分もいた。


「何してんだよ、早く行くぞ。北海道が逃げちまう」

「大丈夫だよ。島はボクらが歩く速度より遅く移動してるから」


 いつだか見た同じ青空の下。ボクらは再び歩き出す。

 昨日としさして変わらない今日。今日変わらないと明日。明日と変わらない昨日。同じ日々の連続に嫌気が差すかもしれない。でも大勢が気付かないだけで、今日は昨日より少しは変わっているかもしれない。

 例えるならそう、ボクとユキが手を繋ぐようになったこととかだ。 

読んで頂きありがとうございました。


続きをいつか書こうかな、なんて思ったりしています。

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