続きの其の(3)
豹馬が千葉道場で、次々と門下生たちを血祭り叩きのめす、壮快さは……
四
京橋桶町―。
此処、江戸鍛冶橋門外京橋桶町には江戸の三大道場の一つ、千葉道場が在る。此の道場主で、名を千葉定吉とい、う北辰一刀流の剣客で後継者の千葉周作の実弟として、此の桶町に道場を構えて門下生を幾人も排出している。
一方、兄の周作はお玉ヶ池に道場を構え、三千人以上もの門人を4人送り出していた。
豹馬は、千葉桶町道場と書かれた表札が立派な門構えに掲げられているのを見て、豹馬は、
「おおぉ。流石は江戸の三大道場と云われるだけの事は在るでぇ……。特に、此が天下の千葉道場やなぁ…………」
と、云って屋敷内に在る稽古場を伺い乍、辺りを見廻す。塀越に茂っている山桃の葉の一つ一つを眺めた。葉は一つ一つに、厚ぼったく真昼な太陽の陽射しが溜まっている。
立派な正門で感心し乍、辺りを見廻していた。
豹馬は、中に入った。森閑としている。玄関に立った。
「御免っ」
とい、うと、
「はいっ。何か、ご用ですか」
千葉道場の門下生の一人が応対に出て来た。
「此処に、土佐藩の坂本龍馬(※竜馬)とい、う御人は、居はりますか」
「龍馬先輩に、何かご用ですか」
「うんっ。まあぁそんなとこやなぁ………」
豹馬は上目遣いで門下生の顔を見て不適に、ニヤリと嗤った 。
「はあっ。暫しお待ちを、して貴殿のご姓名を伺いたいです」
「儂か、坂本龍馬と戦いに来た。者やなぁ………」
「そ‥其れは。龍馬先輩に、試合の申し込みか貴殿……」
「まっ。……そう云う事やぁ………」
「貴様。無礼な奴だ。龍馬先輩が出るまでもない。こんな奴は、俺たち門下生の誰かが掛かりさせて叩きのめして呉れよう」
「そいつは無理やなあぁ……」
とい、うていると、門下生のかん高い声音に、気付いた他の門下生たちがどやどやと、黒光りする床板を打ち鳴らし乍玄関に六人ほどの屈強な若者たちが出て来た。
「どうした。伊丹、何を騒いで居るか」
六人の中から千葉重太郎が前に出て豹馬と伊丹某の双方の遣り取りに割って入った。重太郎は、其の千葉定吉の嫡男で、『桶町の竜』の異名を取った剣客だ。
「あっ。若先生。こ奴が、龍馬先輩に他流試合を申し込みに来たと……」
「ほおぉぉ……中々、良い眼をしているなあ………!」
重太郎は、豹馬の顔をじっと見ている。
「そう云うあんたも、ヱヱ眼をしてるでぇ。流石は『桶町の竜』と呼ばれて居るだけの事は在るでぇ………」
とい、うと、豹馬も、重太郎の顔を見詰めて、含み嗤いを浮かべ乍、双方の眼に煌めく眼光が、互いを牽制をする様に、
「して、ご貴殿の名は、」
「十津川郷士新陰流。玉置豹馬やぁ…………」
「十津川の玉置殿と云ったかな。……十津川と云えば、大和国だったかなぁ……。だが、あいにくと、龍さんは外出中だ。また、非お改めて御越し頂きたいのだが、如何か」
「……なら、待たせて貰えるけぇ」
とい、うと、門下生たちが、物凄い眼で豹馬を凝視し乍、激怒した。
「わ‥若先生。こんな奴、我らが、叩きのめして呉れます。どうか御許し下さい!!」
門下生たちが口を揃えて、重太郎に嘆願した。
「御願い致しまする」
「若先生!!」
とい、うと門下生たちは豹馬に侮辱された腹いせに無理矢理に稽古場へ引きずり込んで遣ろうと思った。
「ほうら、此の木太刀で掛かって来いっ」
と、試合を強要して来る。とうとう豹馬も仕方なく、
「そんなら相手をつかまつる」
とい、うて、対帯の背中越しに無造作にぶち込んでいた山刀と見紛う脇差しを抜き取って、後ろへ軽く放り投げると木太刀棚に、旨く一番上の棚に乗せていた。
「儂の流儀は無手なんやぁ……」
「貴様も、其の木太刀を取れ…」
先ほどの伊丹とい、う若者が、最初の相手だ。
「此の儘でヱヱねん………」
『一円』の身構えを見せた豹馬に、僅かな乱れもない。無刀取りの極意は、間合いを観察する間積もりに在った。我が身を切らせる間のうちに伊丹の木太刀を近寄らせ、伊丹が斬り込んで来る太刀筋の行方を確かめつつ、其の斬り出す動きの拍子を読んで動きの裏を取らねばならない至難の技で在る。
『一円』の身構えは、敵を一刀両断の動作に誘い込む為のもので在った。
と、同時に伊丹は木太刀を青眼に身構えて、双方とも向かい合う。豹馬は何の見せかけの動作・攻撃(※フェイント:a feint,【用例】フェイントを掛ける)もなしに、一気に双拳を縦拳にして胸の前で回転させる。縦流転拳の攻め技。仰け反る伊丹に更に直線の正拳の連打をぶち込んで行く。 伊丹は木太刀で豹馬の動きを左右に振り乍、払いのけ様とするが、豹馬の連続攻撃には歯が立たない。
こうなると今度は留めが刺せない。やったの事で伊丹を引き倒し、馬乗りに成って拳を振り上げる停止を取った。 既に木太刀柄から豹馬は、伊丹の双手から奪い取っていた。
「降参か!」
伊丹は首を縦に盛んに降っていた。豹馬は相手が闘いを放棄したことを確かめる為、言葉による返答を求めた。
「こ、降参だ。か、勘弁して呉れ〜っ」
豹馬の圧勝だった。 定吉、重太郎、千葉道場の門下生たちは眼を剥き乍、驚愕しざわめきの声を上げている横でただ一人豹馬だけが何かを考え込んでいた。すると、まるで爬虫類の様な顔の体格の良い若者が、木太刀を手に取って立ち上がり稽古場の中央へ歩み出した。
「次は俺が相手じゃ。伊丹の様にはゆかんぞ」
とい、うと互いの間積もりを詰めて向かい合う。豹馬は利き腕左を前に身構え、二人目の佐々木卯一郎と云う男は上段に身構えている。 豹馬はスルリスルリと激尺の間合いへと詰めていき―。
豹馬は対手の面打ちを誘う。次の瞬間、佐々木は上段から切り掛かって来たと、同時に左足が床を踏み鳴らし乍、左手で木太刀の真ん中あたりを握り締め乍も、右手で佐々木の握る柄に手を掛けて一瞬で握り締めていた。其の儘、右手で捻り廻し奪い取っていた。佐々木はのめって仰向けになり乍一回転して床へ転がり落ちる。
佐々木は海老の様に丸まって床を転がり廻っている。
次々に門下生たちが入れ替わり立ち替わる相手を次から次へとあっさり薙ぎ倒し片づけてしまった。此の腕前の物凄さに大勢の門下生たちはタジタジと成って、遂に相手をしようという者は居なくなってしまった。
伊丹、佐々木ら門下生たちとの勝負は豹馬にある疑問を投げ掛けた。
此までは新陰流型に己の工夫を加えていったり、広げたりしていただけで満足だった。だが、新陰流の基本はあまりに拘束が多すぎた。新陰流は手技に優れたものは持っていたが、此の他にも足の運び、構え方、足裁き(※フットワーク/Footwork)、蹴り技、寝技、関節技と闘いにおいて有効なものは多い。要は“形にとらわれ過ぎない事”だった。
稽古場出入り口には外出していた坂本龍馬が、帰って来て、其の一部始終を眼の辺りにして、
(あしも、日根野道場で【※土佐藩=高知県,高知城下南側、築屋敷の日根野弁治が開いたなが此の道場で在る。
龍馬は和術=柔術,剣術,居合,太刀,小太刀,槍,長刀,棒術,水練=水泳,水馬,騎射などのまるで、武芸のデパートの様な道場で在った。弁治が小栗流和兵法“小栗忠順の一族で在る”を学び、柳生新陰流を学んでいる。其れを弁治は自らの道場では進化した】学んじょった新陰流とは、いささか違ごうちょるが、じゃがあん男の武術は何か物凄かっ。あがな、技前見たらわくわくしちょるがっ)
「いやあ。世の中まだまだ、捨てたもんじゃないけえぇ………」
龍馬は稽古場の正面には、千葉定吉お師が座っているのを見て、遥か下座から頭を垂れ下げ、顔を上げると、武者窓から風が吹き込んできて、お師の白髯をそよがせていた。稽古場にいた重太郎、佐那、里幾、幾久の定吉の此の子たちら門下生たちも、振り返り、
「龍さん……」
「坂本様…」
「坂本様…」
「坂本様…」
「坂本っ…」
「坂本先輩っ…」
「坂本さんっ…」
皆が龍馬を見て、歓喜する。
「しかし、なんじゃ………天下の三大道場へ、たった一人で勝負しに遣って来るなんざあ……ただの腕と自信じゃあ出来んぜよ………面白かっ奴が、居るもんじゃあのうぅ」
「おおぉ。そうじゃ、名は何んと、云うがぜよぉ」
龍馬が豹馬に訊ね掛けた。
豹馬と龍馬の二つの視線が絡む。
「十津川郷士新陰流……玉置豹馬」
「あしは、土佐郷士北辰一刀流………坂本龍馬ぜよ」
豹馬 がより一層、睨み付けると、其の眼は三白眼と成って龍馬を威圧すると、龍馬も同じ様に睨み付けて居た。
「さきの御前試合でのあんたの剣名は江戸いやあ。国一番……と鳴り響いて居るなあ………けんど……まだあ、本気に成ってへんでぇ…あんなんちゃうでぇ。あんたの力は、」
「ワハハハハァァ。そがいに云われると、照れるがぜえよおぉ。ほうぅぅ…そがいかのおぉぉ…」
「ああっ。本、気、にさせたいでぇ……」
「………」
豹馬と龍馬の二つの眼光炯々に互いを射る。
「龍馬よ……儂も、其の玉置殿と同んじ気持ちじゃよ……。御前さんはまだまだ、うちに秘めたる剣が眠っておる。本当の坂本龍馬を出し見せてみなさい」
とい、うと定吉は龍馬の本質をもしや、此の玉置豹馬ととい、う男が、いやあ武士ならば、恐らく龍馬を目覚めさせる事の出来る本物の漢ではなかろいかと、思っている。そして、龍と豹の壮絶なる死闘繰り広げるではなかろうかと、云う思惑が頭の中で描いているのだ。
仮にも、江戸の三大道場の一つで在る北辰一刀流の千葉道場の師範代を務める重太郎は、師範代としての立場上此の儘豹馬を帰せば、江戸中に今回の事を世間に噂話や恥辱的な話しを広げられては困る上に豹馬を叩きのめして置かなければ成らないと考えていた。
「あいやしばらく、玉置殿。御見事な腕前でござる。拙者千葉定吉道場師範代の千葉重太郎にござる。いざ御相手をつかまつろう」
「重太郎っ」
「あ‥兄上っ」
「兄上っ…」
「兄上様っ……」
「重さんっ……」
「わ‥若先生っ………」
龍馬、定吉、里幾、幾久、佐那らは重太郎の発言に誰もが、困惑している。なか、門下生たちは重太郎の言葉に賛同するかの様な喚声が稽古場内に響き渡る。
豹馬は、
「ほう、師範代の重太郎殿は当代の剣の名手と承っています。此の儂の耳にも聞こえていまっさあぁ。愚武者など若先生にとっては物の数にも足らへんですわあ、何とぞ御赦し頂だい。寧ろ、儂は坂本氏との勝負をつかまつりたき所存。如何か」
「いやあ。龍さんとは何れはにて、願い頂きたいでござる。本日は拙者が勝負して頂きとうござる」
豹馬がそう云うと、先刻から散々に遣られた連中らは、
「若先生がせっかく礼を以て御手合わせを所望されるのを、にべなく受けぬのは失礼でござらぬか。ぜひ、御立ち合いの上で龍馬先輩との勝負を成されては如何なものでござらぬか」
「そうじゃ。そうじゃ……」
と云い出して聞かない。門下生たちは重太郎に仇討ちをして貰うつもりだろうから、仕合をせずに豹馬を龍馬とも闘わせては遣らぬとい、う勢いではやし立てて居るのだ。
豹馬も、此を無理に振り切って龍馬との闘いを願えば願っても、遺恨を抱く門下生たちは、恐らく五月蝿く仕返しに来るに違いない、後々に面倒を残すより、此処でけりを付けた方が得策かもしれないと考えた。豹馬は再び稽古場の中央へ舞い戻り、
「そんなら一手御相手つかまつろう」
と、相変わらず無刀取りを身構えた。
重太郎は得意とする二間(※約三.六メートル)余りの長刀(※北辰一刀流長刀兵法目録を門下生たちは授与学を学んでいたと云われている。無論、坂本龍馬も授与されたのは剣術では無く、北辰一刀流長刀兵法目録授かっている。目録にも、記っされているのだ)を持ち出して来たが、此の長刀に対して無手では、さすがの重太郎も大勢の門下生の前では馬鹿にされた様な気がしてならない。それで、
「拙者が長刀を持つからには玉置殿も木太刀なり竹刀を持たれるがよい。無手で千葉重太郎に相手を仕様とは失礼とは思い召さぬか」
と、憤然として云う。重太郎は既に怒り心頭に発している。怒れば心に乱れを生じ、気は平静を破り、闘わずして豹馬の心気には一分の勝味が浮かんでくる。
「仰せの通り、立ち会いには其れ々々の武器が在るやろうが、……儂は剣は゛けん゛でも、儂が使うのはこっちの拳で諸国で武者修行中の身なれば、此の拳が結構と存ずるのだが、無手がアカンとの仰せで在れば、此にて御相手をいたしっまっさあぁ……」
豹馬は、紺碧色の小袖の左袖を腕捲りをして、其の左腕は厳しく鍛えれた体躯と忍耐気力が充実して生まれた左腕を見せる。だが、重太郎や定吉、龍馬、里幾、幾久、佐那、門下生たちらも豹馬のいくら、無手の達人で在ろうとも重太郎の長刀にはかなわないと思っていた。其処で豹馬は懐から、
「儂は、此を使って対手の長刀を奪いまっさかいに、師範代は何処からなりとぞんぶんに御掛かり召されたき…」
稽古用の樫木扇を取り出して左手に持ち替えて豹馬は左向きに、
「……」
「いざっ」
身構えた。
「此の横着な糞侍めが」
といよいよ怒った重太郎は“田楽刺し”にして遣ろうと、物凄い形相で、鋭く長刀を突き出してきた。必殺の長刀を素早く交わす豹馬の身の軽さ、しかも微塵の隙も決して見せない。流石の重太郎も
「ううん…」
と唸った。
焦れば焦るほど攻め入れ隙は寸分も見当たらない。
豹馬の祖先は伊賀の忍び衆として戦国時代に暗躍して様々な武将から依頼を受けて活動していたのだ。
其の為、彼の一族には皆、訓練を積んだ高い身体能力を駆使して、壁をよじ登り、塀を乗り越え、窓から窓へ、向かいの建物に飛び移る。
【※効率的に移動する】とい、うのが密探【※スパイ】の基本理念だというが、正に日本の忍術で在る。【※中国武術の一つで、軽身功とい、うのが在るのだ】焦燥は心身一ならず、ただ長刀を構えただけで突き出す事が出来ない。短気は益々心の乱れとなって胸を塞ぎ、吐く息も次第に荒くなる。師範代の此の有様を見ている門下生たちは気が気でない。一同固唾を呑んで微動だにしない。稽古場はあたかも無人の如くシーンとして静寂其のもので在る。
当時の江戸は、『位』の桃井。
『技』の千葉。『力』の斎藤と云われた江戸の三大道場、(※坂本龍馬は『小千葉』と、云われていた京橋桶町の千葉定吉道場を云う。武市半平太、岡田以蔵は土佐藩邸宿所から京橋浅利河岸に在る鏡心明智流桃井道場に学び、神道無念流斎藤道場には桂小五郎。長州藩士で後の木戸孝允。倒幕・明治維新の功労者の一人で在る)状況から見れば、此の様な場合、例え仕合に勝利したとしても、後々どの様な報復が成されるか容易に想像されるところで在る。
豹馬は荒々しい道場の真っ只中に、獣の様な門下生たちに取り巻かれ、少しの心の動揺もなく、平然として其の師範代で在る重太郎と対峙しているので在る。其れも重太郎の二間柄の長刀を前に、稽古用の樫木扇一本で立ち向かう姿は、全く大胆不敵というか、狂人の沙汰としか門下生たちや里幾、幾久、佐那らの眼には映らなかったで在ろう。此こそが豹馬の一命を賭けて為す技で在り、一世を風靡した名人達人の為す技で在ったので在る。
苛立ってなんとか隙を見出そうとした重太郎が、遂に我慢ができなくなって
「えいっ」
と二段突き出してきた長刀は、あわや豹馬の胸板を突き破ったかと思うほど激烈なもので在った。
だが、其の瞬間、豹馬は躯を右斜に長刀を交わし乍も、右手で掴み握り締めて左手の稽古用の樫木扇で打ち上げる様にし、豹馬は其処から廻り込んで重太郎から長刀を奪い取って其の儘放り投げていた。
更に水流の如き流れる様に体勢を素早く立て直し乍、手刀で大きく斬り降ろす様に劈(※切り裂く)動作をすると見せ掛けておいて、掌を鞭の様に弾き出し、躯を低め膝を曲げて腰を沈めて掌で(※肘は拳や掌よりも体幹部に近い為、其れらに比べてダイレクトに躯の中心からケイを相手に送り込む事が容易で在る。
又、元々硬く丈夫な部位なので破壊力も大きい)で突き飛ばす様に打ち込んで、肘を真っ直ぐに突き出して、肘で外から廻し討ち込んで、肘で突き上げ標的との距離感や角度、タイミング、当たる瞬間の感触などを知るうる武術家で在るから出来る技だ。
接近戦でのつなぎ技で在り、豹馬は肘討ちは、身構えた状態から水平に打つ技術で在り、最も基本的な肘討ちといっても過言ではない。
隙のない軌道で打つ。
投げという視点から見た場合、肘討ちを打ち終わった瞬間は隙だらけといっても良い状態となる。
重太郎と正対した状態から重太郎の首を上から抱え込む様にがっちりと絞めする技をする。
其の為、重太郎の体勢が低くし乍、此の技を決める事は困難で在り、(※敵の首をがっちりと絞りめする時、抱え込む手の拳を強く握る。
更に、拳を右に回転させ乍手首を返し、敵の喉仏を下から突き上げる様にして圧迫する事が大切で在る。と、同時に、攻撃側は己の腰を前に突き出し、背中を後方に反らせる様にして、敵の上体を浮かす。こうする事で、自然と喉仏への圧迫は強まり、敵の動きは完全に停止する)敵を完全にフォールドする事で勝敗を制するのだ。重太郎は完全に口から泡を吹いて、白目を剥いて失神していた。
豹馬は頃合いを見計らって、大喝一声
「うおっりょやあぁぁ」
と勢いよく
此の有り様を見ていた定吉、龍馬、里幾つ、幾つ久、門下生たちも皆、無論重太郎は気を失神し誰もが唖然といて声も出ない。軈て我に返った重太郎は、豹馬の前へ、
「す‥すまぬが、だ‥誰か手を貸し手呉れないか……」
とい、うと門下生の二人が重太郎の両肩へ廻り込み肩を貸して両手をつき、丁寧に一礼をして、
「我幼少期より剣術長刀術を学び、未だかつて御身ほど達人に出合った事がなかった。ご貴殿の様な武士が、此の地上には居ようなど思いもよらず、彼の将軍家三代ご指南役柳生新陰流が此ほどとは、凄絶なるが如き技前。今までの数々の無礼の段も何とぞ御赦し下され」
と頭を垂れた。
此に対して豹馬は、今し方仕合をした本人とも思えない落ち着いた口調で、
「いやいや、愚かな武人の|儂など師範代の足元にも及ばへんですわ。
とかく人は券を学んでも、心の在り方を考えてへん。ただ今の仕合でも術においては重太郎殿の方が遥かに優れているのだが、勝負に勝とうとする心の焦りが、せっかくの百錬の技を鈍らせていたんやなぁ。生死・勝負を超越して、心に邪念がなければ、相手の出方に応じて神技の様な技前が出るもので在るでぇ」
とい、うと重太郎に手を賃して遣った豹馬は、
「坂本さん。今日は、あんたとの勝負は御預けやなぁ……何れは、あんたの眠った魂を、儂が引き出したる」
「………ふうぅぅん。そがいかのぉ。あしは、なんも寝ちょらんきにぃ。じゃが、おんしの技前を見ちょって、なんか肝が震えがちこっと在りようがぁ」
「ああぁ……そらあぁ。良かったでぇっ…今日は、暇しまっさあぁ。ほな。失礼さん。ご免やっしゃぁ」
豹馬の凄さを、改めて知りうる事に成った千葉道場の者たちは、武者震いをしていたのだ。
だが、ただ一人の者は違っていたのだ。其れが、坂本龍馬だけだったのだ。
(あしは、また玉置豹馬に出逢う気がしちょるぜよ………)
龍馬は、そんな気がした成らないのだ。
坂本龍馬との出逢いが、此処から始まる