続きの(2)
お千代を筆頭に木賃宿『笹乃屋』の奉公人たちとの出逢い、触れ合い乍も、様々な事が待ち受けている豹馬の江戸での第一歩が此処から始まる……!!
豹馬は此の『笹乃屋』とい、う宿に驚かされた。まるで、何処かの立派な旅籠かと見紛う程に手入れされている建物にも内装にも実にしっかりとした管理を成されている事に感心させられた。
(此ならば、充分に修練にも身が入りそうやなぁ……。だが、儂には勿体無い位の部屋に環境やなぁ)
豹馬は仕切りに感心し乍、江戸へ入るまでの幾つかの木賃宿に泊まったが、『笹乃屋』程の木賃宿には未だ嘗て無かった事だった。其れだけに、彼は此の安心感に感無量の心境で在った。
「おおきにありがとさん……娘さん。当分の間、此処でやっかいに成るよって。まぁ…宜しく頼んます」
豹馬は、お咲の面を優しげに見つめて云う。
「は‥はい。ようこそお出で下さいました。何かご座いましたら、何なりと此のお咲にお申し付け下さいませ。其れでは、失礼致しました」
お咲は二階廊下の床板に正座をして、三つ指を付いてから頭をゆくりと、垂れ下げ丁寧に挨拶をし終える。そして、双手で障子を閉める。
其れから、女将のお千代と番頭の松之助が挨拶にやって来た。丁寧にくどくどと時候の挨拶を述べたあと頭を上げ、
「この度は、此の『笹乃屋』に御泊まり頂きまして、誠に有難うご座います。当宿女将の千代にご座います。御手数ですが、宿帳に御名前などを御記帳を、御願い申し上げますどすえ」
お千代と番頭松之助が丁寧に挨拶してから宿帳を携えて来た松之助は、お千代に宿帳を手渡した其の手から手へ豹馬に手渡された。
「あっ。儂武者修行中の玉置豹馬とい、う者やぁ。まぁ……以後、宜しゅう頼むわぁ」
豹馬は姓名を名乗り乍、さらりさらりと、勢い良く其の見事なまでに宿帳に署名を済ませる。
「御武家様、いえ。玉置様は剣術修行を、成されておいでどすか……。其れに、御躯の方も可なり大きゅうご座いますなぁ。さぞかし名の御在りの御方どすかえ」
「あっ、いゃぁぁ……儂は剣は゛けん゛でも、儂が使うのはこっちの拳やねん……」
豹馬は、紺碧色の小袖の左袖を腕捲りをして、其の左腕は厳しく鍛えれた体躯と忍耐気力が充実して生まれた左腕を見せる。
「玉置様も、今や江戸市中の剣術道場、体術道場、居合道場など様々な侍たちが、諸国から修行に上京してはるんどすえ」
「ああぁ、せやなぁ……」
「そうすると、玉貴様も江戸へ修行なさりに、おいやしたんどすかえ」
「ああぁ。儂は、此の地上の国々で最強の武人として、新陰流を地上最強だと云う事を確かめたいんやぁ」
「まあぁ。其れは、物凄い御考えを御持ちどすな……。でしたら、此の『笹乃屋』の女将千代も微力乍も、玉置様を応援させて頂きますどすえ」
お千代は優しい笑顔で、豹馬の志しを支え様と心に誓う。
「女将さん。おうきに有難うさんやでぇ」
「……」
豹馬は此の女将さんならば、安心をして信頼が出来そうな魅力が、垣間見れたと思った。
「其れから、お千代さん。此の近辺に、儂が修練の稽古が、出来る場所がおますか」
豹馬は部屋のド真ん中に、ドカッと腰を下ろし胡座をかいている。
「へえ。いかほどの広さが在れば、よろしおすかえ」
「せやなぁ……。丸太ん棒が縦横無尽に扱える位の様な処が在れば、最高に有難たいが、其れに付近に樫の木が植えられている処が在り、樫の木は二、三本在れば好都合やなぁ。そんな処が在りますかなぁ」
豹馬が、お千代に訪ね聞いて見る。
「其れでしたら、此の笹乃屋の中庭に、樫の木が植わっとりますえ」
「えぇっ。ほっ、本当にか、い‥今直ぐに、中庭を見てみたいなぁ」
豹馬は余りにも、こんなに早くにも、条件が叶いそうな処が在るなどとは、思いもしなかった事から、胡座を解いて左足の膝を付いて、ほんの少し興奮気味に云う。
「でしたら、玉置様、此の部屋からでも、中庭が覗めますよって、どうぞ、ご覧下さいましどすえ。其方に、ご座います障子から見えますえ」
お千代が右手で、指し示す左てに、窓枠に障子が在った。
「えっ。」
豹馬は指し示された、左側を勢い良く、向きを変え乍、立ち上がり障子を素早く引き開けると、其処から中庭が見渡せ、左下方向に中庭が在り、中庭に樫の木が数本が植えられている。
「こっ、此だけの広さが在れば毎朝夕の稽古が出来るわぁ……。お千代さん、本当に有難うさん」
「いえ。喜んで頂けて私も、其れだけで客商売をしたきたどすさかいに、冥利に尽きますどすえ」
「いや。此方こそ、無理を云うて堪忍やでぇ」
「いえいえ、其れはよろしおしたどす」
お千代と松之助は、豹馬のまるで無邪気な、子供が好きな菓子か、或いは玩具を与えられて喜ぶ様な、眼差しに二人は優しげに見守る親御の様に見つめている。
「玉置様。其の中庭から、どれでも樫の木二、三本を、ご自由に御使い下さいましえ」
お千代は豹馬の武士らしからぬ、行動力的な部分知力などが、言葉の端々に表れているのが長年に渡って、客商売人としての観察する眼で、見ていた。
「女将さん。本当にええのん」
「へえ……」
「おうきに有難うさん。甘え序でに、大工道具が在れば貸しよう頂ければ有り難いが……」
「へえ。よろしおすえ。ですが、其れでしたら三軒裏の大工職人がおりますよって、職人の名は吉兵衛とい、う者が住んでおりますえ」
「えっ…」
「玉置様の武術修行の御稽古の道具作りの相談などを、為さったら宜しおすえ」
お千代から忠告を、された豹馬の眼の色の煌めきを帯びた輝きが、闘いに燃える漢の持つ、いやっ。正に修羅の如く、強い漢に合いたいと………
お千代が、幼き頃に祖祖父が京の都で宿屋を営んでいた頃に、訪れたひとりの若き剣豪が、宿泊をした時の話しを思い出していた。
―回想―
「其の御方は、素人にはわかり得ぬがなぁ……其の方の剣気…まるで、抜き身の真剣の様じゃたわい。これほどの剣気を放つ者など……まさか、と思うたものじゃたわい。其れから数日後に其の御方が、京だけではなく、日本中各地に名を馳せた『宮本武蔵!』……じゃた」
お千代は、ふと、祖々父から聴かされた話しを思い出していた。此の若き武士には眠れる獅子が、いやっ。阿修羅が躯に宿しているのではないか、そんな風に思えた。
(きっと、此の御人)は恐らく世間のどの侍たちよりも、宮本武蔵に勝るとも劣らない強い漢に成らはるんどすえ)
お千代は確信めいた様な心境で在ったのだ。
「お千代さん。おうきに有難さん。本当に助かったでぇ……」
「玉置様が精進をされる事は私の喜びにさせて、御呉れやすえ。お千代は、玉貴様の第一の応援団で、ご座いますえ。ですから、玉貴様を応援させて頂きますえ」
「……」
二
或昼下がり、豹馬は何時もの様に『笹乃屋』の中庭で、|木人(樫の木の手作り稽古人形)を相手に新陰流奥義を新たにする新技を試行錯誤していると、七、八人の志士風の男たちがどかどかと店に入って来た。
「俺らは、十津川郷士の者だ。王政復古に必要な金がいる百両ほど借用したい」
「私には金の成る木はありまへんどすえ」
「蓄えがあろう、其れを出せ」
「もっと大きな店に行っておくれやす」
「何だと、我らをあなどる気か、ただでは捨て置かぬぞ。僅か百両じゃ、出せ。出さぬと店の客にも迷惑が係り及ぶ事に成る」
豹馬は無心に樫の木木人を敵と想定しての稽古に余念がない。其処へ娘仲居のお咲が中庭に慌てふためき乍彼を呼びに駆けつけた。
「た‥玉置様。大変なんです、直ぐに御店の方に来て頂けませんか。女将さんが、十津川の御武家様に……兎に角早く早く来て下さいまし」
お咲の慌てふためき様に、豹馬は何かを感じ取り、取り急ぎ衣服を整え乍、御店の店先に廻って観ると確かに、七、八人の志士風の男たちが居た。
「さぁ。金を出し貰おうか」
志士は刀を抜こうと刀柄に手をかけた。豹馬は鍔を押さえた。
「な‥何だ、貴様は」
「十津川郷士の者やぁ」
「ド‥ド出かい……」
豹馬を見上げて余りにも、大柄な八尺三分(※当時の男性身長の平気より比べると、はるかに高い。百九十一センチメートルの豹馬の)もゆうに在る男が居る事に驚く志士たちだったが、此処で怯んでは、百両の金を見す見す逃がしかねないと思った。
「何だと」
「|おどれら(お前、貴方などを大阪弁の一つで相手を威圧する言葉で在る)の顔は見た事が在らへんでぇ」
此処で新陰流の玉置豹馬を名乗れば、志士たちは逃げて行ったかもしれない。
「俺らを偽物扱いするのか、許さん、表に出ろ」
「出てもかまへんのけ」
「己、我々を甘く見ると臍を噛むぜ」
「臍を噛むのはどちやろなぁ」
「ええぇい。表に出ろ、百両は用意しておけよ」
と云って志士たちは表へ出て豹馬を半円形に取り囲んだ。
「おんどれが十津川郷士だと、儂は見た事が在らへんで」
豹馬は志士たちに対して新陰流無刀取りの『一円』の構えを取り、七、八人の志士たちの太刀先に身を置いて居た。『一円』の構えを見せた豹馬に、僅かな乱れもなく、無刀取りの極意は、間合いを観察する間積もりに在った。我が身を切らせる間のうちに敵の太刀を近寄せ、敵が切り込んで来る太刀筋の方向を確かめつつ、其の斬り出す動きの拍子を読んで動きの裏を取らねばな至難の技で在る。
『一円』の構えは、敵を一刀両断の動作に誘い込む為のもので在った。此方が立ちはだかって要るよりも、まん丸に背を表し身を手鞠の様に低めにしたほうが、敵を誘いやすいのだ。
豹馬は地面を滑る様に前へ出て、摺り足で真っ直ぐ間合いを詰めて行く。彼は足取りをよどませず、前に出て行く。
軽い摺り足の動きが、七、八人の志士たちには眼に見えない磐石の障害を蹴り砕いて迫って来る、威力に満ちたものに思える。
七、八人の志士らは信じられない光景を見る様に、猫背の様に丸められた豹馬の動作に眼を見張る。躯幹偉大な武人は、窮屈そうな姿勢で志士らの剣尖の届く撃尺の間合いに踏み込んで来た。
剣客が太刀を振り下ろす速さは、人の動作とは比較にならないものだと知り乍、間合いを詰めて来る気持ちが、志士たちには全く持って理解出来ない。
(※二千年以降のHollywood 映画会社が日本古武道についての映画製作されて大ヒットしたのが『last samurai/ラストサムライ』だったのは読者の方々もご存知だろう。
映画製作された際、刀を振る実況を最新鋭の高速度camera撮影で捉え様とした。
hand gun【※拳銃=リヴォルヴァー[シリンダーが回転式を云う],オートマチック[自動拳銃を云う]などが存在している】をgun belt 又は、gun holster/[名]ホルスター【※ベルトにつるす革のピストルケース】から抜く早さが、最高記録で0.3秒と云われている。
彼のHollywood starでも在り、名監督と云われるクリント・イーストウッドが、実際に早撃ちで有名な話しだ。
彼は映画『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』などで見せる名うてのガンマン役をスタントマンを使わず、本人が自ら演じて見せている。
因みに、イーストウッドの早撃ちの速さは0.4秒とも0.5秒とも云われている(※公式には書かれていない)。
だが、イーストウッド以上に凄い男がいたのだ。
其れが俳優でも在り、シンガーのサミー・ディビースjrは早撃ち大会で優勝を果たしているほどの名うてで在った。
【※因みに彼の速さは0.31秒と云われている】可成り、本題とかけ離れついでに、漫画やアニメ化されている。『ルパン三世』に登場する早撃ちガンマンで知られ、ルパンのよき相棒の次元大介は早撃ち0.3秒とも0.2秒とも云われているが、公表されているプロフィールには、現在は0.3秒に統一されている。 ドヒャーッ! 完全に作品からかけ離れ過ぎたなぁ………!!! 其のhand gun=拳銃をHolsterから抜くSPEEDが、最高速度が0.3秒に対して、日本刀を上段から斬り降ろす速度が0.1秒程度で在ろうと予測したが、実際には八十分の一秒で在ったて云う。物凄いSPEEDが計測された)
豹馬は上目使いに七、八人の志士たちの全ての拳を見つめている。視点が、ぼんやりする(ぼやける)ほど烈火の如く力を込めて、睨み付けていると、躯中が大きく柔らかな何者かに抱き抱えらている様な、心持ちよき法悦がFull-timeの様に胸の中の厚き熱の様になって居るのが解るぐらい。豹馬には志士らの剣尖が己自身に届く危険な領域が躯に染み込んでいるほどに
(新陰流奥義の一つ、無形の位はお前の様な年頃に覚え込めば、一生忘れる事はない。剣尖を交え様とする時に、お前は敵の何処に眼を付けるか、それは二星じゃ。【※二星とは両眼の事を云う】兵法の目付は二星で在るのじゃ。良いか、其の二星を、もっと詳しく申せば敵の動きを見て取る為には、三見の大事と申す事が在るのじゃ。此の三つを子細に見ておれば、敵の動きは自ずから見分けられて参る。だが、お前の様な初心のうちは、三見のうち太刀先を見れば其の動きに心を惑わされる。また敵の顔を見れば、恐ろしゅう成ってくる。初心の者は、敵の拳を見て居るのがなによりじゃ。拳さえ眼を離さずに見詰めて居れば、敵が何処へ打ち込んで来るかがいち早く解る。良いか………」
豹馬の祖父晋太郎の教えを、忠実に再現出来る位に見極められ、躊躇わずに其の儘、躯は行動し足先を滑り込ませるのだ。
先ず、一人目を肘打ち(※敵に肘を食い込ませる。
斬る様に討つ。肘討ちは云わずと知れたムエタイのオリジナルテクニックで在る。
ムエタイの試合を見た事の在る読者ならば納得するだろうが、ムエタイの肘討ちは凶器其のものの破壊力を秘めている。空手や古武道にも肘討ちは存在するが、使用される頻度の点ではムエタイの肘討ちは、『討つ』というよりも、寧ろ『斬撃=斬る』と云う言葉こそがふさわしいSHARPな使い方をするのだ。打つ角度も千変万化、意外な距離から意外な角度で打ち倒しに来る。当然、knock down制の総合格闘技においても、肘討ちは軽視する事が出来ない技術として云える事だろう)を接近戦でのつなぎ技で在り、豹馬は肘討ちは、構えた状態から水平に打つ技術で在り、最も基本的な肘討ちといっても過言ではない。隙のない軌道で打つ。
投げという視点から見た場合、肘討ちを打ち終わった瞬間は隙だらけといっても良い状態となる。
其の志士と正対した状態から志士の首を上から抱え込む様にがっちりと絞めする技をする。其の為、志士の体勢が低くし乍、此の技を決める事は困難で在る。(※敵の首をがっちりと絞りめする時、抱え込む手の拳を強く握る。更に、拳を右に回転させ乍手首を返し、敵の喉仏を下から突き上げる様にして圧迫する事が大切で在る。と、同時に、攻撃側は己の腰を前に突き出し、背中を後方に反らせる様にして、敵の上体を浮かす。こうする事で、自然と喉仏への圧迫は強まり、敵の動きは完全に停止する)と、二人目の志士が攻めて来たのを最小限で停めてから豹馬は間合いを詰めて衝撃力を下げて、敵が前に出て来るのに合わせて、彼は右足で停止への前蹴りを繰り出し、豹馬は敵の膝のやや上部分に、押し込む様に蹴り放ち、彼は素早く右足を戻す。透かさず戻した右足を軸足にして、受け手で在る志士の前足に左低めの下段蹴りを放った。
豹馬が受け手の志士の胸元に右掌底正拳を放ち、此の右掌底正拳は、次に放つ右中段蹴りへ繋げる為のリード正拳(※間合いを計る為の正拳)で在るのだ。彼が受け手の左脇腹に右中段蹴りを決める。
三人目の志士は右側面から上段に構えからの斬り込んで来たのを豹馬は、瞬時に左へ交わした体勢で左足を軸足し、右からの廻し蹴りを、其の志士の顔面へ蹴り飛ばして直ぐに、左右から志士たち四人による一斉攻撃を、彼ら四人が刀柄に手を掛けて、各々が刀を抜き出す前から動きを見切っていた。其の前に豹馬は四人目の左端の志士の顔面に正拳を打ち込むと、前歯上下を砕き散らし、門鳥を打っていた。豹馬と眉間にシワを付けて睨み付ける真ん中の志士との躯が絡み合っている。豹馬と睨み付けている志士を見守っている其の時、天高く何かが空中に飛んでいた物が円を書き乍、地面に落ち、其れが抜き身だと知って、息を停めんばかりに眼を見開いた。豹馬の左手が五人目の志士の背を抱え、右手に何時の間にか抜いた鎧通しが、脇腹に突き付けられていた。次に右側の六人目の志士対して左に身構え、左上段から斬り下げにきたのを、瞬時に交わし乍、豹馬は直ぐに右上段蹴りで返して薙ぎ倒した。八人全員を叩きのめしていた。次に七人目の志士との間合いを詰める豹馬。双方とも、一歩歩み出せば相手の前足に己の腕が届く位置で身構える。此の状態は、ぶつかり(*タックル)を決めるのに適した間合いだ。豹馬は、此の距離からのばっかりに出るタイミングを計り、七人目の志士が上段から斬り降ろす。其の瞬間、豹馬は体勢を一気に低くして、右足を大きく踏み出す。其の志士が前足を後ろに引いたり、上段からの刀身の速さで斬り降ろしてきて防ぐ前に、豹馬は素早く水平に移動して、志士の躯を密着させてしまい、豹馬は志士の前足を両腕で抱え、己の胸元に引き付ける。此の時豹馬は、己の頭部の左側面を志士の腹部付近に押し当てる。此の体勢から、豹馬は志士の右足を己の左体側に出させ、右腕で其の志士の右太腿を抱えたまま、左腕で膝下を抱える。其処から前進し、右足で志士の軸足刈る。そして、豹馬は志士が仰向けに倒れている躯の上から馬乗りに成って、連続で左右の正拳で顔面を強打して、其の志士の顔がひん曲がっていた。其れを見ていた最後の志士は豹馬の形相を見入って驚愕していた。だが、此の儘では自分自身の命が危ういと感じて刀を抜刀して、豹馬目掛けて突きに来たが、あっさりと交わされ、左からの正拳を左頬骨が砕ける音が響いて、最後の志士は地面にうつ伏せで倒れ込んでいた。
此の浅草は人通りの多い所で在る。木賃宿から西通りの道幅の広い場所に左右に野次馬が黒々と集まっていた。八人の志士たちは慌てて起き上がろうとするが、起き上がれる事も出来ない者は、起き上がれる者が手を貸して遣るなどをして、起き上がれる。
町奉行所の同心など、とんでくるわけはなかった。豹馬は衣服のほこりを手ではたき払い衣服を整え乍歩き出す。野次馬が二つに割れた。豹馬が歩き過ぎると、其の場にいた野次馬は八人の志士たちが、互い互いを抱え乍歩き出し、足を引きずる者や腕の付け根を痛めた者、歩く事すら出来ない者など様々に、苦痛に顔を歪めて居る志士たちは逃げ出した。
三
西の道幅の広い場所から『笹乃屋』へ戻り、店へ入ろうとする豹馬。
「玉置様」
と声を掛けられた。暖簾を潜ると女将のお千代ら奉公人たちが店先の床板、地面に正座をして居た。
「御店と命の恩人どす」
「其れほどでも在らへんでぇ」
「いいえ、玉置様がおいでにならへんかったら、私の御店や私らおなごは皆、手込めにされていました」
「なあぁに、奴らをからかっただけやぁ」
「いいえ、助けて貰うたんどっせ」
「お千代さん…」
「はい。何どすえ、玉置様。何ぞ、御礼をしとうご座いますえ。何なりとおっしゃって下さいましえぇ。」
「だったら、何んか喰わせて呉れはりますか。儂 今、めちゃくちゃ腹がへってますねん」
「はい。玉置様。直ぐに御食事のご用意を致しますよって、ささあ。御上がり下さいましえぇ。お咲。足桶のご用意をしてお呉れやすえぇ。」
「はい」
お咲をして、店先から井戸場の方へ駆けだしていった。
「さあさあ。玉置様、此方で御掛けに成って御待ち下さいましえぇ」
「ああ……」
豹馬は、お千代に云われるが儘に店先の床板にゆったりと、腰を降ろすと同時に背中越しに帯びている山刀と見紛う様な武骨な刀身一尺八寸の脇差しを左手で抜き取り出してから腰を降ろして座った。
「た‥玉置様。お待たせ致しました。どうぞ、足桶をお使い下さいまし」
お咲は井戸から水を汲み上げて足桶の中に注ぎ込んでから手拭いを二枚持って、其れを豹馬の腰を降ろして居る所へ運んで来た。其れを豹馬は、
「お咲ちゃん。おうきに有難うさん、今日はちゃんと手拭いを使わせて貰うでぇ……」
そう云って豹馬は、お咲の純粋なまでの光輝く清んだ眼を見乍、優しいまでの笑みを浮かべて訊ねかけた。
「はいっ」
お咲も、豹馬のさっきまでの戦う武士の様なまで、鋭利な刃物の様に研ぎ澄ました眼差しとは違い、屈託のない好青年の様に優しさに溢れる眼に戻っていた。
「玉置様。本当に有難うご座いました。私はもしも、玉置様が居られなければ、きっとあの恐ろしい浪人たちに私や女将さんが、手込めにされた上に、他の皆さんも酷い眼に在っていたに違いないです。或いは、あの獣の様な浪人たちに斬り殺されていました。玉置様。本当に有難うご座います!」
「あっ。いやぁ、そんな……。なっ、何んか照れ臭いからもうぅ、其の辺でヱヱからぁ……お咲ちゃん。堪忍やぁ」
と、云い乍も店の天井を見上げて頭を掻く豹馬で在った。
「……」
其れを、お千代は、愛情に溢れる優しき眼差しで二人を見詰めていた。
四
外はまだ暗い霞の中を、寅の七つの刻限(午前四時)の一番鶏が鳴く前には起床し、夜具を直ぐに片づけ終えた豹馬は身支度を済ませて、部屋から出て静かに左側へ歩み出して店先とは反対側へ廊下を進み出ると中庭に繋がる階段を降りて、裏木戸の閂を外して引き開けた。
彼は、其処から裏木戸から中庭に廻って行く。中庭の右側に樫の木で造り上げた樫の木木人の前で先ず躯を解す様に、柔軟運動を始める。
最初は腕立て伏せ、三本指立て伏せ、親指立て伏せ、腹筋、直立した体勢からの屈伸、逆立ち腕立て伏せ、逆立ち親指立て伏せ、背筋反り、屈伸などを凡そ、一刻の間に及ぶ、柔軟運動をし終えると、豹馬は祖父玉置晋太郎鷹宗と父玉置兵武之助厳宗の双方から幼少期の頃より新陰流剣術を朝昼夕と厳しく教え込まれ忠実に厳守している。其の間にも彼は、剣術だけでなく新陰流徒手武術をも教え込まれてきたのだ。
其の徒手武術を始める。
先ず、向う高を始める豹馬。向う高とは、上段から相手の前額を切る技で在る。
彼は中段、下段、八相脇の何れの構えからの打ち込みでも、無刀で受ける事が出来る技を匠に操る。(※所謂、柔術や唐手=空手、拳法の一種で在り、新陰流無刀取りにも繋がる技)豹馬は新陰流の開祖上泉伊勢守信綱公から柳生石舟斎、柳生兵庫助、柳生連也、祖父の晋太郎、父の兵武之助へと兵法を学び、伝承されてきたのだ。
そして、豹馬へと継承されて、彼は更に進化した無刀取りの術、技を完全なものにするべく武者修行中の身で在った。
豹馬は樫の木人を強敵に見立てて見えぬ敵と眼が合って、二つの視線が絡む。豹馬がより一層、睨み付けると、其の眼は三白眼となって、相手を威圧する。だが、豹馬の鋭利な刃物の様な眼差しから少しずつ表情が変わり軈て、其の表情は無の境地の表情へと変化し、真っ直ぐに見えぬ心の敵に向かい合う様にして、彼は右足を前に大きく前後に股を開いた姿勢で、ゆっくりと背を丸め双手先を地面五寸の辺りまで下げた。
我が身を真ん丸に低めるのは、かの柳生石舟斎が編み出した『一円』とい、う身構えで在る。心で見えぬ敵が上段に構えた刀身は夜明け前の薄暗い空を貫く様に、太刀の光の穂先をためていた。刃渡り二尺八寸は在るであろうと見る刀は袈裟掛で来るのか、横一文字から薙ぎあげて来るのか、其れとも一刀両断で来るのか、或いは連続で突いて来るのか。
豹馬は、何の様な技で在っても、速やかに対処する事で勝敗を決するのだと、祖父晋太郎から教えられた。豹馬は左向きに身構え、見えぬ敵は正眼のに構えている。捜りの様な攻防が繰り返され、見えぬ敵は力は在りそうだったが、スピードに致命的欠陥が在った。
此を見切ると豹馬は相手のリズムに合わせる事を止めた。見えぬ敵が顔面を狙って出された左からの突きを豹馬は正中線上に構えた前手を其の儘前に出す。と、見えぬ敵の突きは軌道をズラされ、逆に豹馬の差し出した貫手が見えぬ敵(※木人)鼻っ柱を捉えた。通常で在れば眼を狙う処だが、其れでは試合ではなくなる。しかし、見えぬ敵は負けを認めなかった。差し出された前手を叩き斬り落とそうとしてきた。豹馬は此を腕を引いて避けるのではなく、相手の腕に上に滑り廻らせる様にして、其の手で短い正拳を打ち込んだ後、更に足払いで倒す様に攻撃した。