〜名もなき十津川郷士の一生涯
十津川郷士の玉置豹馬が幕末の英雄らとの出合いと別れ!闘いの日々
序 章 ―
一
一八五八(安政五)年四月 ―
空一面に、雲間もない晴天の江戸は浅草。何処かの藩士の様でもない。
といって町人、百姓とも違う見た眼は上下、紺碧色の小袖に、指貫(※裾を絞る為の紐が着いている袴で其れを絞った状態で足首で纏められて居り、更には其の袴の上部分の太腿から足首の部分が膨らんで足首から下は被っているので絞った紐跡は普段は見えない様に成っている。平安時代の貴族男子の普段着の様な常日頃の服装で在る)を身に纏った姿をしている。
頭髪は月代を剃り上げずに一束に後ろで結わえている。総髪にして肩の処まで延ばし垂れている。
素足には晒し(※晒し・さらして白くした綿布)を甲と裏に巻き着けて足首の爪先と踵以外を保護している。眉目秀麗にして眼光炯々人を射る其の武士は身の丈、六尺三分(※百九十一センチメートル)とい、う当時としては可成りの大柄な漢で、膂力が非常に強く、如何にも自信の在る武人らしい表情が色男の印象を与えない。
笑った口元には甘さも在るが、厳しい武術鍛錬され、躯幹偉大にして深沈広闊な兵法者としての眼差しを秘めた武士の持つ熱歩さ、洒脱な明るさが此の若武者の特長だ。
名を玉置豹馬鷹斗と云う。
豹馬は山刀とも見紛う武骨な|刀身一尺八寸(約五十四センチメートル)の無名乍らも、脇差しを一本、背中越しに無造作ぶち込んでいる。
(儂は、此の地上で最強の武人になったる!何時の日か必ず、新陰流を地上最強だと云う事を知らし示したるんやぁぁ)
豹馬は幼き頃より指南役でも在る父の玉置兵武之助厳宗と祖父の玉置晋太郎忠鷹の二人から武術指導を承けている。
また、師父で在る晋太郎のお師・柳生連也厳包から伝承され、新法の剣豪とい、う剣業一筋を玉置家では代々受け継いでいるのだ。
其れを何時も如何なる時も心に秘め、豹馬は勇猛心を奮い起こしている。彼は郷里中十津川村を離れて、諸国の一つ一つを様々な剣術道場、居合道場、体術道場や更には忍び里の忍術など数々の兵たちとの闘いの日々を重ね続けてきた若武者。
だが、金子も段々と乏しくなり宿も旅籠屋から野宿をし、食べる物も宿飯から茶店の串団子、笹団子や握り飯経となり、町村の農民、漁猟民たちの下働きや人手の少なきなった処や野盗、海賊、山賊などに困っている者たちの退治する為の助太刀などをしては食いつなぎをしていた。
其の御礼にと云って、桃、栗、柿、芋や時には麦、粟、黍、豆|(当時は白米=米などは、年貢米と云われた時代だった為、貧困に喘いでいた農村部は口にする事など殆ど無かったと云われている。因みに五穀とは米、麦、粟、黍、豆の五つの穀物を云い、重要な穀物で在る)などの貴重な食べ物の中から分け与えて貰い、豹馬は空腹を凌ぎ乍漸く此の武蔵まで辿り着いたのだ。
(江戸へはもう直ぐや。此処までの道のりを様々な人々の出逢い助けが在ってこそ、辿り着いたんやぁ。もっともっと兵どもと戦って強い漢に成るんやぁぁ)
豹馬は己に云い聞かせる様に自問自答を如何なる時も思案して居る。
だが、流石の彼も金子や餓えには負けてしまいそうに成る事も在り、金子を遣り繰りし乍切り詰め切り詰め乍も此の武蔵まで辿り着いたのだ。
二
豹馬は中山道の信州小田井の宿場を出たのが、二刻半を過ぎていた頃だろうか。
落ちゆく陽が赤く染めた豹馬の顔は、幾たびかの兵らとの死闘に燃ゆる武士の眼光炯々で人を射る時の眼差しとは、寧ろ屈託のない好青年の表情を浮かべていた。
浅草には軒並みに木賃宿が在ると江戸へ入る途中の茶店の|ぼ、て、っ、と小肥りで陽灼けした長年、此処で商売をしてきたといった顔にも躯にもすっかり染み着いてしまっている。
豹馬よりもはるかに背が低い方だろうか、ちょっと小粋で小柄な年の頃は七十前半の老女から教えられた豹馬は宿を取る事を決めた。
「あのぉ、叔母さん。すんませんが、儂は武者修行中の身で此から江戸へ行くんやけれど、江戸の何処ぞに安くて御店の人間が良く働き、気が良くつく様な宿をご存知おませんか、出来たら腹一杯に飯が喰える処がおましたら、紹介して貰われへんやろか!?」
「やだよぉ兄さん。こんな婆さんつかまえて、叔母さんはないだろうよ。で、江戸は初めて来なさたんか」
「はぁ…。あっ、最近漸く、江戸まで金子を切り詰めて、此処まで遣って来たんですねん」
「ほぉ。何時、江戸に行かなさるか。だったら、浅草辺りの木賃宿に泊まりなよ」
老女から教わった豹馬。
「あ‥浅草ぁ」
豹馬は其の小粋な老女の応えが僅かに疑心な聞き返し方をした。
「おおよ。浅草は帝釈天には軒並みに木賃宿が在るんだ」
「浅草ですか」
「まあぁ。騙されたと思うて、浅草へ行くがええぇ」
其処は浅草帝釈天参拝に訪れる諸国の信徒たちが何日、何十日も小銭を切り詰めたり貯め込みをして浅草帝釈天に参りする者たちの為の宿屋が在る。
「そしたら早速、浅草を目指して歩き出すとするか……」
彼は其の数在る幾つもの木賃宿の中から一軒を眼に停めたのが、『笹乃屋』とい、う木賃宿屋にしては御店が割かしら大きな店構えをしている。其の『笹乃屋』に決めた豹馬は早速御店の紅色に白字の笹屋と書かれた暖簾を潜り御店の中へ入った。
「ご‥御免」
豹馬が店先で、声を掛けると
「へえっいらっしゃいまし」
若い女将らしい女性が対応に出て来る。
「……」
一瞬、豹馬は其の女性の艶の在る声音と美しい容姿に見蕩れると
「うちでお泊まりどすかえ」
にっこりと笑みを浮かべ乍女将に訪ね聞かれる。其の女将には品が在り、何処となくそやとした立ち振る舞いをする女性だなぁと、豹馬は思った。
「う‥うん。実は、今、此だけしか持ち合わせがおませんが、此で何日分泊まる事が出来ますやろか……」
豹馬はそう女将に尋ね乍、小袖の懐に右手を差し入れ黒水牛の皮を嘗めした革で細工された入り口を紐で締め、何十かに巻き付ける|巾着袋(※小銭を入れて財布の代わりに使ったり、小物類を入れて持ち歩く袋の事を云う)を取り出して、女将に見せ様とすると
「御客様。当『笹乃屋』は何の様な、御方でもお安くお泊まり頂けますよって。どうぞ、お上がり下さいしへえ」
そう云って、女将のお千代が応対に出て来た。
「……」
豹馬は、此の女将の接客の気配りや心遣い、仕草、艶の在る声音と言葉遣いに、此の女将ならばきっと宿賃の事などで心配をせずとも、武者修行に専念する事が出来るのではないかと思わせるものが、|お千代(女将)としての気遣いが躯全体から伝わって来るのが解るほど……。
「ささぁぁ。お武家様、どうぞご遠慮は入りませんへえ。お一人様のお泊まりどすえ。お咲。足桶と手拭いを二枚を用意をして持ってきてお呉れやすえ。お武家様、直ぐにご用意致しますえ」
お千代は豹馬の懐から取り出された巾着袋の小銭をゆっくり戻し乍、足桶と手拭いを運んで来たお咲のいる所へ手で指し示した。
「さあぁ。どうぞ此方で御使い下さいやすえ」
お千代は豹馬に黒光りする床板の前に置かれた足桶にゆっくり歩み寄った。
そして、豹馬は利き手の左手で、背中越しに無造作にぶち込んでいた山刀とも見紛う武骨な刀身一尺八寸の無名乍の一本の脇差しを抜き取り、其の黒光りする床板に置くと同時に床板に腰を降ろした。
「……」
「御武家様。御足をどうぞ、桶の中へ御付け下さいまし」
十三、四歳位の可愛らしい娘仲居のお咲が、豹馬に声を掛けて足桶を挟んで前屈みに成って、腰を降ろし足桶の中に浮いている足洗い用の手拭いを手に仕様とすると
「わ‥儂は己の事は己自身で足は洗うよって、気遣い無用やでぇ。あんたさんの其の優しさは、有り難く頂いておくわぁ。本当におおきに、有難うさん!」
豹馬は其の健気な可愛らしい娘のに対して、心と裏腹な態度を取ってしまった事に少し申し訳なく思い、少し照れ臭そうにし乍、お咲の手に持っていた手拭いも気に止めずに己の手で慌てて足首に巻き着けていた晒しを、手早く然も丁寧に解き終えた足首を足桶に双足をつけて己の手で洗い上げた。
女将のお千代の双手には真新しい手拭いを持って、豹馬の洗い終えるのを待っていた。
「……」
豹馬はお千代の手から真新しい手拭いを素早く取って己の双足を丁寧に然も、手早く拭き上げた。
「……」
「……」
「……」
お千代、お咲や番頭ら他の使用人たちも思わず豹馬の滑稽な行動に見とれて、あ然としてた様に『笹乃屋』従業員の殆どが、彼の一挙手一投足まで見守っている。
誰かしら其の一瞬の間を置いて、自然と
「ふふふっ」
「ふふっ」
「はははぁ」
などと、皆が笑い合っていた。
「あっ。い……いやぁぁ…………」
豹馬は照れ笑い顔で、少し気恥ずかしそうな面持ちで、頭を少しかきあげていた。
「ふふっ…えろう。すんませんへえ。御武家様の様な御方は、私共の御客様では恐らく、おいやせんでしたものでつい、嗤うたりして本当申し訳ご座いませんえ。私も此の浅草で長い間、商いをさせて頂いておいやすけど、本当に初めて眼にしたものでご座いますねんえ。つい、御武家様の様子を見入っておりやしたゆえへえ。誠に申し訳ご座いませんですえ。こう云う場合は矢っ張り御手討ちどすかえ…!?」
「いや。其の様な事は儂は致さへん。其処ら辺に居とる阿保な侍どもみたいな事は、儂は絶対にせいへん。そんな阿保な事をしでかしたら、祖父様や父上から大目玉に合うさかい………」
豹馬は、お千代には嘘は云わんと云う、鋭利な刃物の様な一瞬、人を射る眼差しで応答える。
「……」
お千代は一瞬、其の眼差しにドキッとして喉の中で唾が乾ききっている事が感じられるくらいに心の中で驚愕していた。だが、直ぐ様、豹馬の一面は元の好青年に戻っている事に気付いた。彼の正に武士とした一面で在ると、お千代は彼が、其の無双無敗の兵法者の二面性を垣間見たので在る。
女将を筆頭に゛笹乃屋゛の使用人たち(番頭、小番頭、丁稚などの奉公人の)も、手をついて頭を垂れて豹馬に対して謝罪をする。
「い‥いや。かまへんでぇ……。女将さんや他の使用人の方々に、そんな事をさせたりしたら儂は気にしとらへん」
「本当に、えろう申し訳ご座いませんえ」
お千代の後に続き使用人たちも、声を揃えて謝罪をする。
「申し訳ご座いません」
「儂こそ、すまないなぁ……と思とる。せっかくの気持ちに対して、堪忍ヤデェ。本当に、儂。此方の宿に泊めて貰ろうかまへんやろかなぁ……」
豹馬は恐縮し乍小袖の懐中から浅井色の手拭いを取り出し、頭をかき、照れ臭そうにする。
「へえ。御武家様、勿論何方様でも此の『笹乃屋』に御泊まり頂けますえ。ささ、どうぞ御上がり下さいましえ。お咲。此方の御武家様を二階の部屋の鳳凰の間へご案内し、お通して御呉れやすえぇ」
お千代は、お咲に云い付けて豹馬を二階の鳳凰の間へ案内させる。
「本当に、かたじけないでぇ……。ほな、泊めさせて貰うわぁなぁ」
豹馬は黒光りする床板から腰を上げ乍、武骨な脇差しを左手に持って立ち上がり女将や使用人たちにも頭を垂れてからお咲の案内する二階の奥部屋へ一緒に階段を登り上がって行った。
「御武家様。此方が、御部屋でご座います」
木賃宿にしては、キッチリ清掃が行き届いており。二階廊下の床板も丁寧に米ぬかで磨き込まれている。床板は黒い光沢の在る床板に仕上がっている。又、各部屋ごとに、柱、障子、襖、天井に至るまで雑巾がけされており塵一つない清潔な宿屋で在った。
豹馬は木賃宿や安宿などは皆、汚れていて湿気、黴臭く、蜘蛛の巣だらけと思っていたのだ。
お咲の案内で、奥部屋の鳳凰の間の前で一旦立ち止まり、ゆっくりと黒光りする床板廊下に腰を下ろしてから其の儘、正座をしてから彼女は鳳凰の間の障子を引き開けて彼が部屋へ入るのを待った。