序曲 その1
「ピアニストになるのが僕の夢です」
俺は幼稚園の頃、お誕生日会で大人の夢を発表した。
先生も友達も拍手して素直に嬉しかったのを覚えている。
きっと、それがサッカー選手でも宇宙飛行士でも拍手はしてくれていただろうが。
だけど、今はどうだろう。
先生は現実を叩きつけ、友達は上っ面だけの笑顔を見せてくる。
……大人になるとはこういうことなのか?
「次、君の番だよ」 袖裏にいる係員が僕にそっと声をかける。
眩しいスポットライト、観客で埋め尽くされた座席、審査員の冷めた目。
ーー今は考えるのをやめよう。 これ以上考えると舞台から降ろされる。
漱石は深呼吸をして意識を鍵盤に向けた。
放課後、大上漱石は教室の掃除を終わらして音楽室に向かっていた。
途中、窓からグランドを見ると野球部がノックを始め、サッカー部は周りをぐるぐると退屈そうに走っていた。
近くには大手飲料メーカーの工場があり、コーヒーの香りが風と一緒にやってくる。
刺激的な世界から平凡な日常に戻って来たのだ、と漱石は実感した。
昨日のコンクールも無事にやり遂げ少しの間は重圧から解き放される。
気分よく音楽室に着くと扉は開いていた。
いつもは閉まっているから漱石は鍵を音楽の先生に借りた。
「誰だ? 閉め忘れたのは」
ため息を吐き捨て音楽室に入ると真横から人の顔が出てきた。
「私よ。 オオカミ」
「うわわわわわぁぁ! やや、八木さん! 何してるの!」
漱石は予想もしない八木千尋の登場に尻餅をついた。
「もう、驚き過ぎだよ! オオカミは本当に反応がいいよね」 八木は尻餅をついた漱石を見て軽快に笑う。
「う、うるさいな」漱石は赤く染まった顔を八木に見られないように俯いたまま立ち上がった。
「なにしに来たの? 八木さん」
「オオカミにいたずらしに来た」八木は当たり前のように答える。
「ここは音楽室だよ! いたずらする場所じゃない」
「あー。 それもそうだよね」 八木は天井を向いて曖昧に返事した。
「だから帰っ……」
「私、オオカミに会いたくて来たの。 その理由じゃあ駄目?」 八木は上目遣いで漱石を見つめる。
ほんの一瞬、漱石の思考が停止する。言おうとした言葉は八木の綺麗な瞳がかき消した。
「顔ーー赤いよ?」
「気のせいだよ。 きょ、今日は暑いしきっとそのせいだ」動揺が隠せず、素っ頓狂な声で答えた。
「そっか。 私の気のせいだし、今日は昨日より最高気温が三度低いもんね」
八木はいたずらな笑みで漱石を見た。
「う、うん。 今から練習するから邪魔だけはしないでね」
漱石は音楽室に入って五分で疲弊していた。 原因は一緒のクラスでありクラスで一番の……いや世界で一番の八木千尋のせいだ。
「わかった。 練習は邪魔しない」と、教室の端にある椅子に座った。
八木が邪魔をしないことが分かったことで変な緊張から解放されたが、彼女がいる事で少しの緊張はしている。
勿論、彼女には言わないが。
漱石は椅子に座りいつものように深呼吸して意識を鍵盤に移す。
一曲目はドビュッシー アラベスク第一番
八木は滑らかに流れる美しいピアノの旋律に瞼を閉じた。 耳だけに意識を傾け自分一人に弾いてくれている彼を思いながら。
今、漱石に声をかけても反応はないだろう。 それ程までにピアノに集中している。
「ピアノに嫉妬しちゃうな」
八木は彼に届かない想いをこっそり音色に乗せた。
漱石の意識が鍵盤から離れたのは最初の一音から一時間経ってからだ。
額には汗が流れ、指にはもう力が入らない。 やり切った充実感に浸るのも束の間、八木が見当たらない。
夕陽も沈みかけ夕方が夜に変わる境目だった。
「そりゃあ帰るよね。 もうこんな時間だし」
椅子から立ち上がろうとした瞬間、視界が誰かの手により真っ暗になった。
「だーれだ」
「八木さんでしょ?」
「ううん。 違うよ」確かに言われてみれば、八木の手にしてはゴツゴツしている。
だけど、声は八木なのだ。 漱石は堪らず「ふぇ?」と情けない声を出した。
「大上、お前はいつまで音楽室にいるつもりなんだ?」
「い、石橋先生!」
手が離れ振り向くと機嫌の悪い顔をした音楽の先生、石橋とその後ろで必死に笑いを堪えている八木がいた。
「大上、日が沈む前には音楽室から出ろって言ったよな?」
「はい。 覚えてます」
音楽室の鍵を借りるときに言われた言葉を今思い出した自分が憎い。
何より先生の後ろで笑うことを我慢している八木を見ると恥ずかしい気持ちになる。
「明日から三日間、音楽室の掃除で許してやる」
石橋は鼻息を荒げて文句はないなと両眼で漱石を睨みつけた。
「……わかりました」
「よし、じゃあ今日は遅いから帰れ。 八木も気をつけて帰れよ」
「ねぇ、オオカミ。 一緒に帰らない?」
暗い渡り廊下を二人で歩いているとき八木は囁くように言った。
「一人で帰ればいいじゃん?」
「冷たいなぁ」と八木は頰を膨らませる。
「分かってると思うけど俺と八木さんは帰り道が違うんだよ」
「知ってるよ。 けど、こんな暗い帰り道に女の子一人は危ないと思うんだよね。 もし誘拐されたらどうしよう」
八木はニヤリと笑う。 誘拐されると心配する少女の表情ではない。 むしろ、漱石が一緒に帰るか試しているように感じれる。
「私は誘拐されたくないな」八木は軽快な足取りで漱石の前で立ち止まる。
お互いの目線が合う。 鼻は一歩進めば当たりそうだ。
あまりの近さに漱石は顔を赤らめたじろぐ。
「だって、誘拐されたらもうオオカミに会えないじゃん」
数秒、漱石は息をするのを忘れた。 心臓は異様な速さで脈を打ち、頭の中はオーバーヒートで機能していない。
「どうしたの? 先に行くよ」八木は背を向け歩き出した。
ーー八木さんは恥ずかしくないのか? 八木の背を見ながら漱石は疑問に思う。
頭はやっと回り始め冷静さを取り戻したが、心臓はまだドクドクと音を立てている。
「や、八木さん」俺も男だ。女の子の八木さんにズバッと言おう。
「おお、俺がい……家まで送るよ」
ーーやっぱり無理だ! 心の中で叫ぶ。 ひと言ひと言が胸を締めつけ呼吸が苦しくなる。
漱石は荒れた息で八木の背を見つめた。
すると、八木は歩くのをやめ振り向き言った。
「いっそのこと私を誘拐してよ?」
「ふぇ?」漱石はまたも思考が停止した。
若干、八木も顔が赤く見えるがそれどころではない。 自分の呼吸確保が必要である。
どう返せばいい? その考えに至るまで十秒がかかった。
「あははははは! やっぱりオオカミは反応がいいよ」
八木は涙目になるほど笑う。 漱石も訳が分からなくなり一緒に笑った。
「早く帰ろう。 このままじゃ閉じ込められちゃう」
八木は気分よく歩き始め、漱石も遅れまいと八木の背を追う。