「再会」
「再会」
初夏の朝日が長机の上で、おはじきのように散っている。
子規が愛した、脚の短い長机。
さっき、朝一番で来庵した男性は、その前にあぐらをかいて、戸が開け放たれた庭を眺めている。
麦茶のお盆を持って台所を出ると、男性の丸まった背中が紗枝の目に入った。
庭で、ダリアの燕脂の花弁をシャミシャミ親の仇のごとく齧っていた楓が、それにも倦んだか、やはり花よりにぼしのほうがマシだと気づいたか、庭を突っ切って向かってくる
縁側の下の靴脱ぎの石あたりで、後ろ脚をきゅいと畳んで一瞬静止したのち、あっ、と思ったらもう澄ました顔で縁側にいる。
珍しい。わたし以外の人がいる時に楓が上がり込むなんて。
確かめるように、楓は男性のやや擦り切れたブルージーンズの腿あたりに鼻を近づけていたが、納得したように、その横に丸まった。
小さな花に手を伸ばすような仕草で、男性は庭へ目をやったまま、そっと楓の頭を撫でる。それに反応するようにチチッと、せわしく耳を振ったきり、楓も並んで庭を見ている。
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屋上へ続く階段を上りきり、扉を開けると夏の午後の白く鋭い光が視界を染めた。
康介は目をギュッと閉じ、しばらくして手を翳して、うっすらと目を開ける。
校庭に面した屋上の金網を、両手を広げるように掴んでいる紗枝の後ろ姿が見える。背後から見ると、夏服のブラウスが逆光に溶けて、陽炎のようだ。
ひび割れた屋上のアスファルトに濃く映る自分の影を踏みながら、近づく。
「なんだ、康介君か。体教の矢作かと思ってドキッとしたよ。黙って近づかないでよ」
気配に気づいて、振り返った紗枝が笑う。
「それで、康介君もさぼり?」
後手に金網を掴んだまま、そこを支点に紗枝は体を揺らす。
「いや、俺は桐谷先輩がここにいるって聞いて…」
「会いに来たんだ? 授業さぼって」
身体を傾けて笑う紗枝の、髪がサラリと肩へ流れる。
「いや、俺は、あの、竹内先輩から頼まれて、話があるからって」
その言葉を聞くと、さっと波が引くように紗枝から笑顔が消えた。
「あいつに話なんてないよ」
そのまま立っている康介に近づく。
「つまんないの。わたしは君が、会いに来てくれたのかと思ったのに。ただのお使いか」
すれ違いざま、指先で、軽く康介の左腕に触れる。
「あの!桐谷先輩!」
「わたし、その呼ばれ方、大嫌いなんだよね。バイバイ」
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麦茶を渡そうと、紗枝は男性に声をかけた。
「暑いですね、宜しかったらどうぞ」
振り向いた男性の顔を見て、紗枝は固まった。
髪は伸びているけれど、太く、凛々しく上がった眉と、奥二重の切れ長の目。あの頃、一番近くで、一番たくさん見てきた。間違えるはずがない。
感情より先に、言葉が漏れた。
「康介…」
しかし、その言葉に、当の本人はさして驚いた素振りを見せなかった。
「久しぶり」
「え…なんで…?」
聞きたいことは幾つもあるのに、驚いて言葉が出てこない。
「横国大の村松教授、いたでしょ?今俺、あの先生のとこで働いてるんだ」
「……でも、先生は横浜でしょ?」
「まぁね。だから今日は先生のお使いでさ」
そう言って、紗枝をじっと見る。
まっすぐな視線、変わってない。
その目で見られると、声が、詰まる。あの頃の、色んな風景のかけらが頭を巡る。スロットのボタンを押したようにバラバラの景色の中、1つだけ、ピントが合う。
真っ白な日差し。屋上。
あれは…まだ、付き合う前だ。そうか。
紗枝は、ゆっくり答える。
「また君は、お使いか」
答え合わせの正解を聞いたように、康介が笑う。
「久しぶり。会いに来たよ」
そう言って、手を差し出す。
陽に焼けた皮膚に、筋肉の筋がくっきりと走る、あの頃よりずっとたくましくなった腕に、少し戸惑う。
「村松先生と言えば、専門は俳句だったろう?それでさ、校外の聴講生でも優秀だった紗枝のこと、知っていたんだよ、ここで働いてるって」
握った手の感触。こんなだったか。あの頃、いつも手をつないで、都電の停留所まで、長い長い下り坂を帰っていたはずなのに、思い出せない。知らない男の人の手に、包まれているような気がする。
「こいつは、ここの猫?」
康介が視線を下げて、楓を見る。
「ん、首輪がついてるから、どこかの飼い猫だとは思うんだけど、ここの猫じゃない。文化財も多いから、ここでは飼えないよ」
「そうか、どうりで馴れてる」
「そうでもないんだよ、わたし以外の人に触らせるの、初めて見たよ」
ふと思う。何年振りかに会ったのに、こんな普通に話せるなんて。わたし達、あんな別れ方をしたのに。まだそれを、忘れるほどには、時間は過ぎてないはずなのに。
「とにかく、ゆっくりして行って。この時間はまだ、そんなにお客さんも来ないと思うから」
立ち上がった紗枝を見上げて、にゃあと甘えるように楓が鳴く。
「紗枝」
康介が、声をかける。
…※ ※ ※ ※ ※ ※……
楓に、にぼしを投げてやる。
食べ終わる前から、どんどん投げてやる。
康介が帰ったあと、冷静になったら徐々に、意味不明な怒りが湧いてきた。
久しぶり?
ばか!
作務衣のポケットに手を入れて、折りたたまれた短冊の、そのズレのない律儀な折り目を見て、また、ばか!と思う。
こんなもの、渡さないでよ。
勢いで、屑入れに投げ込んで、おぉお…と慌てて拾う、ということをさっきから3度ほど繰り返している。そうして、ばか!と思ったまま、投げたにぼしの幾つかは、楓の額にサクッと刺さったりして、貴様、乱心したかと言いたげな、うろんな目つきで楓がこっちを見ている、のにも気づかない。
客足が途絶えたころ、思い切って、短冊を広げた。
紫陽花や きのふの誠 けふの嘘
子規の、夏の句だ。
もう一度眺めるが、それ以上、何も書かれていない。
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振りほどこうと腕を振るが、手首を掴まれていて、どうにもならない。男子トイレに連れ込まれそうになるのを、紗枝は、ぐっと足を踏ん張って耐える。
階下から、文化祭準備の喧騒が聞こえてくる。
特別教室の多いこの階には、人もあまり来ない。だから、幸司はこの場所に呼び出したのだろう。
人を呼ぼうと、息を吸い込んだところで、口を抑えられた。そのまま、身体を引き寄せられる。かすかに、汗臭い。
「みっともないから、やめたらどうですか、竹内先輩」
ヒーローが現れた、と思ったけれど、実際階段をひょこひょこ上がってきたのは、つま先が上に尖ったぶかぶかの靴を履く、ピエロだった。しかも最後の一段で、気を抜いたのかちょっとつんのめった。黄色に、赤の水玉の服を着て、赤く染めた髪をサイヤ人のように立てている。何故か、緑色の丸い鼻。不気味だ。
闖入者に、唖然としている2人を気にせず、ピエロは幸司に向かって言う。
「その手、離して下さいよ」
言いながら、前かがみで靴を脱ごうとして、なかなか脱げずに片足でよろめく。流石に視線に気づいたのか、小さな声でつぶやいている。
「いや、ちょっと、歩きにくくて」
「康介君!」
色々疑問があるが、今は彼しか味方がいない。紗枝は、幸司の力が緩んだ隙に、手を振り払って駆け寄る。
「何だおめぇ。口出しすんじゃねぇよ」
白粉を顔面に塗り、ピエロというより、歌舞伎役者のように、上から赤で隈取りした目は、表情が隠れ、近くで見上げても笑っているようにしか見えない。
「なにその格好?」
ダボダボの繋ぎのような服の腰あたりを掴んで紗枝は小声でたずねる。
「見ての通り、ただの客寄せピエロです」
紗枝の方をチラと見てニカリと笑う。やっぱりこれは、ピエロだったのか。
「そっちこそ、手を出さないで下さいよ。俺の女に」
それを聞いた瞬間、何か、紗枝の頭に、重い鐘が響いた。がーんというより、ごーん系の。いつからなのか。いつから、わたしはこの謎のピエロと付き合っていたのだったか。記憶にない。
「ま、そういうわけで、紗枝先輩は、クレープでも食べて、ちょっと待ってて下さい」
そう言って康介は、ポケットからチラシを取り出す。
「今、うちのクラス、ちょうど試食やってるんで。タダです」
見上げたら、今度は、隈取りのせいじゃなく、はっきりと笑ったのが、わかった。
躊躇する紗枝に康介が囁く。
大丈夫。俺もすぐ行くから。
そうして20分後、顔に大きな痣を作り、足を引きずったピエロを支えて、紗枝は教室でなく、保健室にいた。
「ねぇ」
さっきの言葉の意味を聞こうとしたら、ぐっと抱きしめられた。
「俺が守るから」
康介の声が、わずかに掠れている。
「はいはい、そういうことは、よそでやる!」
包帯を持って戻ってきた保健の佐伯先生が、入口でこっちを睨んでいる。
「全くお前らは。神聖な保健室を何だと思ってんの」
慌てて身体を離した紗枝は、言い返す。
「でも知ってるよ、わたし。昼休み、ちょっと早く行くと、慌てて先生、煙草消してるの。優しさなんだなー、気づかないようにしてあげてたのに」
「うるさいよ。わたしはいいんだよ、ここの主だからね。だいたいね、桐谷、あんたは何かってと保健室に来るの、やめな、うっとうしい。ついでに男も連れ込まない」
「つ、連れ込むって!!これは、そんなんじゃないです」
佐伯先生は、手際よく、包帯で康介の足を巻く。それから、消毒液の茶色い小さな瓶に、ピンセットで挟んだガーゼを軽く浸す。
「顔に書いてあるよ。痴話喧嘩です、って」
「な、ば!!違う!」
「少し染みるよ、我慢しな」
康介に言って、顔の傷の手当をしていく。
手当や看病をしている時だけ、佐伯先生の眼鏡の奥の目は優しい。
「いい男が、台無しじゃない。あんた、桐谷を守ってくれたんだろ?ありがとね」
横で聞いていて、顔が熱くなる。
「この子は、やれ文学だなんだって難しい本読んでるくせに、クラスにも馴染めない、かわいそーな子でね、おまけに男運も悪くて」
「男運悪いって!そういうこと言います?本人の前で」
慌てて紗枝は口を挟む。このまま調子よく喋られたら、何を言われるか分からない。
「だって事実でしょうが。あんたのそのふらふらした不安定なとこがね、ろくでもないのを引き寄せるんだよ、自覚しな」
尼僧かな?というほどに、ぴしゃりとやり込められ、紗枝は黙るしかない。だから、嫌だったのだ、佐伯先生のいる保健室に康介と行くのは。
手当が終わり、お礼を言って立ち上がる。
「橘」
振り返った康介に、両手にだらんと大きな靴を下げた佐伯先生が笑ってる。
「大事な商売道具、忘れてるよ」
「すんません」
「桐谷を頼んだよ、ピエロくん」
そう言って、靴を康介の胸に押しつける。
それに律儀にはい、と康介が答える。
何か言おうとしたけれど、紗枝は隣りで黙って俯く。嬉しいのか、恥ずかしいのか、とにかくもう、尋常じゃないくらい、顔が熱いのだ。
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よーんと、前脚の付け根を持たれて、持ち上げられ、楓がのびる。 顔の高さまで持ち上げた楓に向かって紗枝が呟く。
連絡先くらい、書いてくれたっていいのにね、だいたい気が利かないんだよ、昔から。
おとなしく、紗枝の愚痴に付き合うのも疲れたか、楓が後ろ脚をバタバタさせて暴れだす。
ごめんごめん。
床に降ろされた楓が、庭へ向かおうとして、ピッと、入り口の扉を見る。猫は、耳がいい。
お客さんだ。
カラリ扉が引かれる。
にゃあと大きく一声鳴いて、楓が庭へ飛び出していく。
「こんにちは」
一瞬、遅れて扉を振り返った紗枝の耳に、いつも聞いていた、少し掠れた、低い声が届く(続)
今回は、紗枝と康介の、出会いと再会の物語を書いてみました……えーと、まぁ、それはともかくですね、そんなことより、これ、後書きで言うことじゃないですが、これを書かずにこの回は終われないということで、言わせてもらいたいことがあるんですよ!
尾籠な話で恐縮ですが、今回のこのお話は、バリウム後の下痢で、全編トイレの中でぴー(自己規制)がぴー(自己…略)で、激しめにぴーなもんで、ぴーしたまま、書きました。
全く、こいつらのイチャこらなど、どうでも良いわとの、やさぐれた心境で。
まぁそんな感じで。
次回は、復活、下痢(仮)です。
お楽しみに(嘘)。