プロローグ
#1
東京駅――僕がいまだに“ドキドキ”して“そわそわ”してしまう場所――から新幹線に乗る日があった。
乗り遅れたくないからとホームで待っていた時、2階建ての新幹線が目に入った。
僕が乗る新幹線は反対方向に向かう、白地に青いラインが入っただけの新幹線だった。
折り返しの準備が整い、乗車を促すアナウンスが入り乗り込む。
16両編成で運転するのにそれなりに混雑していて僕は切符を確認し自分の席に向かいその席に座る。
時間が来て新幹線は静かに東京駅を発車した。
なんてことはない日常の一コマなのだろう。
不意に自分の中の奥深くにしまいこんだはずの事柄が溢れだすのを感じた。
ここから約1時間30分の移動時間は一人で色々と思い出すには短すぎて、ぼんやりと過ごすには長すぎる時間だった。
自販機で買っておいた缶コーヒーを一口飲むと、あとは水を止め忘れた時の水槽のように自然と君が溢れてくるだけだった……。
「雪が溶けたら春になるの」と君は言った
気が付けばもう離れた時間の方が二人でいた時間よりも長くなった。
今だに僕は「君に合わせる顔がない」って思いながら日々を過ごしてる。
職業柄多忙に過ごす日々が多い中で、いつしか自分を見失ってしまった。
もう少し正直に言うならば、仕事に面白さを見出すのが早すぎてのめりこむように取り組めたことが一番の要因。それでも勘違いはしないでほしい。天職とかではなく単に「楽しむ」ことに前向きでいられる僕の楽観的な性格と職場環境が良かっただけの話。それとこまめに異動があって、不思議だね、会社への提出書類では異動届と交通費精算が多いよ。
だからかな?たまに早く帰宅した時には時間を持て余して、テレビに出てくる芸能人が誰なのかわからないままにぼんやりと眺め「たまにはこういう時間もいいけど、本当にこれでいいのだろうか?」なんて矛盾した思いを抱えている。
君とは穏やかに過ごせた気がする。本当は話すのが好きではないことも知っていた。
だから二人でいるときにはあまりしゃべらなかったね。
もちろん、伝えたいことはすべて伝えたし、こういう形に――望まない終わりを迎えたことに――なったことも僕は何とも思わない。
僕の乗った新幹線がすぐに減速をする。
放送のチャイムでふと現実に引き戻され、あの頃の僕が君に伝えていた、いつか二人の物語を描くということを思いだし、こうして文章にすることにした。
君とは卒業を機に離れてしまった。離れてからも流れる時間、そして僕の中にある、止まってしまったままの時間。前者は流れ続け、後者は薄れ続ける。
あの頃の僕には辛すぎたことも――例えばビビッドな色の絵の具のように――経年で劣化して色合いが薄くなっていくように僕の中で確かに薄れていった。
正直に言えば、あれから別の人を好きにもなった――僕は罪悪感とともに――その目の前の人を大切にしようと決めたこともある。
時間の流れがこうやって一つの決断をさせてくれたのかもしれない。或は薄れていく中でそれが“思い出”という甘さと苦さを抱き合わせたものになっただけなのかもしれない。
でも、そんなことはどうでもいい。どうあがいても僕が全てをまとめる日が約束通りに――守れているかはわからないけど――やって来ただけなのだから。
そんなことを考えていると新幹線は県境の川を渡っていた。
#2
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
僕らの出会いは、ありきたりな話でしかないのかもしれない
大学生になって実家暮らしにうんざりしていた僕と遠くから出てきた君。
一目見て恋に落ちるなんて話でもなければ、共通の友人がいてそいつが自殺してなんて話もない。
きっと小説にするには“ありきたり”で、結婚式の馴初めで紹介されるには“いいきっかけ”くらいに持っていけるようなそんな話
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
規則の厳しい高校だったからなのか、僕には“青春”というものがややインパクトに欠けるような気がしてならない。
事実「高校時代の思い出は?」の一言に戸惑い考え込んで「予備校の方が好きだった」なんて回答で周りを驚かせてしまったこともあるくらい
高校生のころは目の前の生活に絶望していて将来はもちろん現実なんてものを見る気にもなれず、アルバイトもできず、「いったいこの生活の何処に意味があるのだろう?」なんて思いながらもはや“消費”に近い形で毎日を過ごしていた。
だから高校を卒業してすぐに髪を染め、髭を伸ばしたりした。
困ったのは洋服くらいで、今までは安いものしか来たことがなく、それさえも急に自分で選ぶことになったこと。あの頃の僕が知っていた洋服屋では僕の好きな無地を扱っていることはまずなくて最低でもチェック柄だった。
とりあえずと僕はファッション雑誌を読み漁りその奇抜さと服の値段に戸惑うだけだった。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
とにかく大学生のころの僕は何も考えていなかった、というよりは物事を知らなさ過ぎた。バイクと車の免許、アルバイト、恋愛、そんな18歳になったばかりの男子が考えそうな、もしくはすでに経験がありそうなことを嬉々として考えているだけだった。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
それでも大学生になっても変わらなかったことがある。
それは「本が好き」ということ。時給がいいからと始めたバイトが楽しくていくらかの千円札を持っていた僕は時間ができては本屋へ通い、気になった本はとりあえず買ってみるということをできるようになった。
当時はよく恋愛小説を読んでいた気がする。それと「周りにどう思われるんだろう?」って恥ずかしさが強くて、純文学やら海外作品は敬遠してたな。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
そんな過去はどうでもいい。あの頃はとにかく解放感に浸ることが多かった。
何より3年間を一緒に過ごした人間がここにはいない。それだけでうれしくて仕方がなかった。
冗談で「「僕の前世は渡り鳥」って言ったことがあるけど本当はハシビロコウかもね」って
そんなことを言ったら君は戸惑っていたね。
「ごめん、ハシビロコウがわからない」って
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
不意に君と出会った日を思い出した。
最初の1週間はとにかく、授業の履修方法やら大学生活やらの過ごし方で1年生の春からいきなり“就職”するための話も出てきてそれが終わってやっと授業の開始
そもそも、周りの強い勧めで間違えて大学生になった僕には専攻する科目への興味も薄くて、とりあえず必修科目を抑えたらあとは適当に選んだな。今では思い出せないほどに身にならない時間だった。
そんな適当に選んだ科目がきっかけだったね。
どういうわけだか混雑した教室に僕はいた。3人掛けの机に3人で座り真ん中の僕はとりあえず左隣から「すみません、隣あいてますか?」と声をかけられ「どうぞ」と返した。
それが君だった。ルーズリーフを一枚取り出すと真剣に授業を聞いていたね。
僕には授業の内容よりもその時読んでいた本の続きが気になって仕方なかった
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
授業が終わると君は「内容わかりました?」っていきなり話しかけてきたね。
「なんとなく」って答えたら「すごい」って驚いたけど、どれだけわからなかったの?
授業の進め方と内容で行ってしまえばイントロダクションでしかないのに。
そしたら君は「お昼は誰かと約束ありますか?」って聞いてきて「ないよ」って返したら「良ければ一緒にどうですか?」って誘ってくれたね。
一番新しいキャンパスで、いちばんきれいな食堂で色々な話をしてあの時はお互いの出身地とか連絡先とか東京のイメージとかそんな他愛のない話ばかりだったね。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
気が付けば君はいつも友だちと一緒にいるようになって、僕とは会話をするけどそれくらいだったね。こっちもバイトをするようになって、少しの友人とバカ話に盛り上がって、授業はテキトーなんて日々が続くようになったからだったけど。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
ある日のこと同じ授業を履修していてその科目のことで教えてって図書館に言ったね。
どういうわけだか君は太宰治やら芥川龍之介やらの本を見て「大学の図書館は違うんだね」って感心して、僕が「それ高校生で読むから」って返したら本気で驚いていたね。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
二期生だったからすぐにテストの時期が来てこれで単位が出る科目も多く、あっという間に夏が来たね。
テストは教科書を持ち込めたりして思っていたほど難しくはなかったし、何より30分たてば自由に教室を出れることがうれしくて僕はすぐに教室を出て行った気がする
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
「実家には帰るの?」って君からのメールに「実家通いだよ」って送り返したら「いいな」って返してきたのがきっかけでメールするようになったね。
君の「一人暮らしは気楽だけどやっぱりさみしい」とか「夜が騒がしい」とか「電車が多くて長い」とかそんなことをするたびに君のことを知ることができた気がしてうれしくなったよ。
「私はしばらく実家に帰ることにしました」ってメールまでくれて当時は律儀だったんだね。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
大学生になって初めての夏は不思議だった。宿題なんてものは通年科目の前期試験の代わりでしかなくて、それも読書感想文みたいなものが出たくらい。
8月を超えて蝉の声が秋虫の声に変わってもまだ休みだった。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
君からのメールで「地元の友人が帰省したのでしばらくこっちにいます。メールとか電話に出れないかもです」なんて送ってくれて、「律儀だな。のんびりすればいいのに」って思いながらどこかでさみしさを感じていた。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
僕の大学生になって初めての夏は意外と寂しいものだったのかもしれない。
高校時代の友人とは自然と疎遠になったし、大学での友人たちともスケジュールが合わずに意外と暇な毎日を過ごしていた。「大学生なんて遊んでるだけの毎日だろ」って乗り気ではなかった昨年の夏をすごく遠くに感じていたけど、本を読む時間が十分に取れるのがうれしくて、難しそうな上下巻セットの本を読んでいたりした。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
そんな夏休みの後半――本当の季節は秋――にふと高校時代を思い出していた。
担任が言った「挑戦する気持ちとあきらめない思いが大切」だと。
だけどそれは大学進学に対しての話であって、専門学校に行きたい僕にはあの頃は辛すぎた。いったい学歴の何処にそんな魅力があるのだろう?肩書きにこだわる世の中への不満や怒り、自分の人生を選べない理不尽。思い返しても将来を考える余地が僕にはなくやっぱり「退学するかしないか」の問題は避けられなかったようにしか思えない。
15歳の少年が家出をする小説を読んだ。僕も同じことを考えたことがある。
いつも乗っていた電車が遠い空港まで向かう電車でそのまま空港まで行けば気分が晴れたのかもしれないけど、当時の僕はそんなにも現金を持ち合わせていることはなかった。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
そういえば大学に入学してすぐのオリエンテーションでも同じような話をされた。
内容が“大学進学”から“就職”に変わっただけで「挑戦する気持ちとあきらめない思いが大切だからぼんやり過ごすのではなく将来に向けた準備をしてほしい」と。
「学校初の話を持ち出してその陰に何人の落選があったのさ?」とか「“横並びの就職”に“会社名”だけで判断するなんて少し滑稽ではないか?」なんて入学して1週間しないうちに失望した。
そしていつも「「挑戦する気持ちとあきらめない思い」で叶うなら日本の男子は何人がサッカー選手で何人が野球選手なの?サラリーマンを新橋で見かける理由は?」と思い、どこか冷めていて、そもそも僕が叶えたい夢なんて昔々に失って、やっと見つけた夢さえも簡単に否定されたという事実とむなしさが僕を支配した。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
もともと一人が好きな僕だからメールなんて滅多に来ないから君からメールが来たときは驚いた。「帰ってきました♪」って僕にそこまで律儀にしてくれるんだね。
そういえば高校生のころに付き合った彼女も毎日僕にメールをしてきてそれでうんざりして嫌気がさして――別れたことを思いだした。
「お帰り。夏休み明けまでに時間が合うならご飯でも行く?」なんて社交辞令を返したら「いいよ。スケジュール確認してまた連絡します」と返信がきて本当に日付を返してきたからこっちもバイトの日を確認して「じゃあ18日でいいかな?」の返信に「わかった」っていわゆる“何気ないやり取り”だったんだよね?
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
そういえばと気が付いたけど、大学生ってファミレスとかなのかな?
そんなことを思いながら、「まだ未成年だからその方がいいんだよね?」なんて訳がわからなくなっていた。
僕には女の子を久しぶりに相手にするのは少しだけ面倒くさかった。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
とりあえず、周辺の飲食店を調べ、待ち合わせして決めることにした。
(一応の、言い訳は「君の好みがわからないから」)
待ち合わせの15分前についたらすでに君がいて、見つけるとうれしそうに駆け寄ってきてくれたね。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
「やっぱり、実家はいいよね」って嬉しそうに話してくれたね。
実家通いの僕からすれば、一人暮らしの方がうらやましいけどな何て返したら
「大変よ。ゴミ捨てたり、自炊したり、洗濯物もやらなきゃいけないし」なんて拗ねられたけどさ、「自由を得るってことはそれなりの代償が必要なんだよ。」なんて哲学者めいた感想を持ったけど黙っていた。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
結局、食事を済ませるとそのままお互い帰宅することにして「今度は学校でね」なんて嬉しそうに反対側の電車に乗り込んで行ったね――その時になぜだろう?辛く感じたのは……。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
やっとのことで学校が始まって日常に戻った。
彼女は相変わらず他の友人たちとおしゃべりをして、たまに話しかけてくるだけだし、僕はと言えば、学校を理由にバイトの出勤日を減らせることが嬉しくて、授業のせいで読みたい本を読む時間が減ったのが少しだけ不満だった
始まった時にはもう秋だったから、日が沈むのが早くて不意に「昨年の今頃は予備校に入り浸って何をするでもなく、ただ周囲の空気がピリピリしてくる中で僕はぼんやりとしたまま、焦ることもできずにいたんだよな」なんて思い出していた。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
あっという間に冬になり、あたりがクリスマスで騒ぎ出すころだった。
そういえば昔の彼女とは夏の終わりに別れ、クリスマスに浮かれたことがないなと思いながらもその方が気楽でいいやと思っていたのにバイトする羽目になってしまった。
女性の先輩に「クリスマスあいてる?」なんて聞かれて「あいてますよ?」と返したら「お願い変わって」なんて頼みこまれて承諾したからだけどさ。「女子はなぜ記念日とか好きなんだろ?」なんて思いながらも手当がつくらしくその方がありがたかった。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
「クリスマスはあいてますか?」なんて改まった口調というか文面を見て少しだけ後悔した。「ごめんなさい、バイトです」と返すと「そう、わかった」なんて返信に少しドギマギして「でも23と26はあいてる。その日はダメ?」なんてフォローしてる自分に違和感を感じながらも「本当?そしたら調整してみる」って返信。
「調整するほどの何かがあるのだろうか?彼氏かな?」なんて混乱してきたからもう考えることをやめた。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
結局、調整がつかないとのことで話は流れた。どうして安心する一面の裏側に悔しさがにじみ出てくるのだろう。
そして冬休み前の寒い日だった。空はどんよりとしたグレー色だった。
僕は凍えていたが、彼女は嬉しそうにしていて「寒くないの?」「平気だよ」「嬉しそうだね?」「雪が降るかな?」「どうだろう?雪が降ると交通機関がマヒしたりと大変だから正直いやだな」なんてやり取りをした時だったね。
初めて見た君の悲しそうな顔、そして雪が降らない街への隠し切れない違和感、いったいなぜだろうと正直、理解できなかったけど君はさみしそうに聞いたね。
「春はちゃんと来るの?」って
ますます理解できなくなって「春?来るよ?なんで」って聞いたら
戸惑いながらも言ったね「雪が溶けたら春になるの。」って。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
冬休みになってすぐ「しばらく実家に帰ることにしました」ってメールをくれたね。
「いつ帰ってくるの?予定あけとくからまた夏みたいにご飯でも行こうよ?」って返信して――ほんの少しずつでも距離を縮めたくなって――今度はファミレスはやめようと決めて待っていた。返信の「年末年始を挟むから、もしかしたらぎりぎりになるかもです。ご飯は行きたいけど、学校が始まってからではダメですか?」に落胆した。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
その後、もう一度メールが来て「やっぱりギリギリまでこっちにいます」とだけ書いてあって「のんびりしておいで」って強がりのメールを返したことも覚えている。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
夏休みに比べて短いはずの冬休みがやけに長く感じていて、ふと思いだしたように電話をしたね。携帯電話なのに電話するのが久しぶり過ぎた。
4回目のコールで君が出て「もしもし?どうしたの?」って君の声で我に返った。
用事はなかった。ただ君の声を無性に聴きたくなっただけのこと
「ごめん、今大丈夫だった?」「うん」「そっちは雪降ってるの?」「すごいよ」「寒い?」「寒いけど慣れてるから平気。そっちは?」「寒い」「風邪ひかないでね」「ありがとう」の後の長い沈黙
しばらくして君から「ところでさ、用件聞くよ?」って言われてとっさに出た言葉が「ごめん、用件はね声が聴きたくなっただけ」って訳の分からないことを言った後で
「何それ?でもありがとう。こっちも声を聴きたかったよ」って喜んでくれたね。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
やっとの思いで学校が始まった。もちろん聞きたかったのは講義ではなく君の声。
キャンパスで先に気が付いたのは君だったね。嬉しそうに話しかけてきてくれて僕はその時にはもう確信していたけど伝える勇気はなかった。
とりあえず当たり障りのない話をして「またね」って別れてそれだけだったけど電話では分からないことがわかって何よりも会えたことが嬉しくて僕は授業を何一つ聞いてはいなかった。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
すぐに試験期間が始まって、特に1年間での授業ではここで単位が決まるから今回は皆、どこかピリピリしている中、やっぱり僕は取り残されていた。
単位が取れなければ留年になるから退学の理由にはなる。だけど退学したらもう会えないし、たぶん僕の独りよがりだけど“退学=格好悪い”とさえ思うようになった。
だけど、やっぱり勉強の楽しさは見いだせないままで、例えば就職してからも仕事に面白さを見いだせなかったらどうしようなんてぼんやりと思っていた。
こんなことを思うとどうやら僕は「ぼんやりとした人生を憂う」ために人生を生きている気がしてならなくて、テキストに視線を落とした。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
あっという間に試験が終わりを迎え、次に学校に来るときには学年が変わっているということに違和感をもったまま僕の大学一年生は終わった。
最後の試験を終え、携帯電話の電源を入れメールを確認すると君からのメールが来ていた。
「試験お疲れ様。春休みはしばらくこっちにいます。そういえば冬休みにご飯に誘ってくれたけど、結局行けてないままでごめんなさい。春休みはどうですか?」
すぐに「今、メールを見ました。スケジュールを調整します。いつ頃がいい?」と返信して気付いたよ。「朝に会っていたのにどうしてもう会いたくなるのだろう?」って。
「「ごめん、桜は嫌いなんだ」って本当?」君はそう聞いたね。
結局、学校に近い繁華街のファミレスではないちょっと洒落たレストランに出かけたね。
普段はパーカ―にジーンズとかなのに今日はよくわからない女性物の洋服を着ていてそのギャップにドキッとしたことを今でも忘れてないよ。
パスタを食べたことは覚えているけど味はよくわからなかった。緊張していたんだと思う。
その後は洋服が見たいと二人で街を散策した。本当に何気ないことだけどそれ以上はないほどに幸せを感じていた。初めてだった「時間が止まればいいのに」と思ったのは……。