[1]人間の存在目的
生命体の存在目的とは一体何でしょうか。
例えば、花なら花が、何のために存在しているのでしょうか。
この疑問は、連綿たる歴史のなかに、人間を悩まし続けた難題です。そして、それ自体、哲学的、宗教的内容のものですから、各人の思想によって種々の解答が出て来るでしょうし、なかにはそんなものは無いという意見もありましょう。
従って、ここでは、「目的」という言葉を、存在目的すなわち何のために存在するのかという意味合いではなく、いかに存在すべきかという意味合いで考察してみたいと思います。
なぜなら、あるものの存在目的というのは、存在者の次元では明確な解答はありえず、その存在をあらしめた超越者(創造者)のみが答えうるものだからです。
花を例に上げてみましょう。
花は何のために存在するのかと問うた場合、それは哲学的、宗教的な内容になってしまい、人間のためにあるのだとか、蜂のためだとか人によって種々の答えが出されるでしょう。
ところが花の一生は、発芽し成長して花を咲かせ実を結ぶことによって、花として完成することであるとすれば、これが花のあるべき一生であるといえましょう。
この「あるべき一生」をここでは問題にしようと思うのです。そうすれば、ある程度までは、客観性と画一性が維持されるからです。(宗教的な考察は、「6章 神学的人生の意味論」で行います。)
それでは、人間の生きるべき一生とは一体いかなるものでしょうか。
それは、人間という一生命体を完成することです。
生命体の完成とは、いいかえれば生命体の特性たる主体性、成長性、繁殖性の完成といえるのです。