[5]人間の尊厳性
人命が尊いということは、1947年の世界医師会ジュネーブ宣言に「私は受胎のときから人間の生命に対して最大の尊敬の念をもち…」とあるように、医療の基本的信条であるばかりでなく、人間生活の根本的な思想でもあります。しかし、なぜ尊いのかという問題になると、なかなか簡単には答えは出てきません。
また、シュバイツァー(A.Schweitzer)は、「生命の畏敬」(Ehrfurcht vor der Leben) といいましたが、生命が尊いのか、人命が尊いのかという問題も難かしい問題です。
もし生命が尊いとしたら、現代の人間社会では他の生物を利用するといった全くそれに反したことを公然とやっていることになりますし、逆に、その生活手段を否定した場合、現代の人間生活は成り立たなくなってしまいます。
尊いとは、元来、価値の範疇に入る言葉です。従って、人命は尊いということをいいかえれば、人命に価値があるということです。
価値とは、もともとそれ自体の内に存在するものではなく、相対関係で決定される対象価値です。すなわち、主体の欲求にその対象がどれだけ応ええたかで、その対象の価値の大きさが決定されるのです。
水を例に上げてみましょう。水の価値は水自体にあるのではなく、水を欲求する人間なら人間の、その欲求に水がどれだけ応ええたかによって決まるのです。
その証拠に、水のない砂漠では水は金に等しいといわれるのに対して、水の豊富な日本では、トイレなどで、水を安易に使用しています。
このように考えてみると、生命の価値を論ずるには、生命にとっての主体とは何かについて言及しなければならないことが理解されます。
家庭を例にとれば、一つの家庭において、その構成員である親、子供は、主体と対象の関係に立っています。子供は主体なる親の愛の対象であり、それ故に親に対して価値的存在であるといえます。
ところが、生命全体という領域における主体ということになると、もはや現代科学の範疇を越えてしまい、宗教の分野に入ってしまいます。
このようにみてみると、「人命が尊い」という発想の背景には、潜在的に根付いた宗教的観念があるように思われます。
また人命の主体として社会、国家、世界を置くとすれば、人命は、各々社会的、国家的、世界的価値をもつといえるのです。
生命体の一般的特性である主体性、成長性、繁殖性は、人間にあてはめれば、家庭、職場、社会、自然界と主体的に対峙する主体性、自己の個性を啓発育成する成長性、結婚して子供を産み、家庭を築く繁殖性ということができます。
これらは人間社会の基本的単位ともいえる、家庭を基盤としてなされます。
すなわち、家庭の構成員である父、母、子供が互いに作用し合い、自らの努力によってその責任を果たし、父親は父親として、母親は母親として、子供は子供として、主体性、成長性、繁殖性をまっとうした時、各々は一生命体として成熟するのです。