[1]生命とは何かを考えよう
[1]生命とは何かを考えよう
人生を語る時、「生命とは何か」という問題を解明せずに、その本質を語ることはできません。なぜなら人生について考察するなら、究極的には「生命とは何か」という問いに行きつくからです。
例を上げてみましょう。まず1975年米国で起きたカレン安楽死裁判をとり上げてみます。
カレン・クインラン(Karen Quinlan) は、その年の4月15日、友人の誕生パーティーに出席し、したたかに酒を飲んだあげく眠り込んでしまいました。友人の一人がカレンを家に連れて帰り、ベッドに寝かせましたが、その数分後に彼女の呼吸が止まっていることに気付き、ニュートン記念病院に緊急入院させました。
必死の救急蘇生術が施行され、人工呼吸器によってやっとのことで心拍をえるにいたりました。彼女は酸素欠乏により、すでに脳の機能障害を起こしており、回復の見込みは全くありませんでしたが、人工呼吸器により昏睡状態のまま240日余が過ぎ去りました。
彼女の両親は、娘の生命を神にゆだね人工呼吸器を取りはずすよう下級裁判所に訴えましたが、それは殺人行為の可能性ありとして却下されてしまいました。しかし、彼らはさらにニュージャージー州最高裁判所に上告しました。
最高裁は、「もし昏睡状態にある患者が、意識を回復する余地は全くないことがはっきりした場合には、医師は病院の倫理委員会の同意をえたうえで、患者から生命維持装置を取りはずすことができる」という逆転判決を下しました。
このカレン安楽死裁判は、安楽死の是非論争を世界的に巻き起こしました。
U ・S メディカルジャーナルは、「この判決は医学の敗北であり、医師は人間の生命を受胎のはじめから至上のものとして尊重し、病者の健康と生命を守ることを第一の目的とするヒポクラテスの誓いは完全に破られた」と批評し、一方、朝日新聞は安楽死問題の議論が深まっていくことを期待するとコメントしました。
また、もう一つの例を上げてみましょう。ここに癌末期の病者がいます。本人にそれを告げるべきかいなか、それは医療者にとってもその家族にとっても心を痛める問題です。こういう場合、二通りの考え方がありましょう。
その一つは、何も知らせずに余生をただ楽しく過させたいという考え方であり、もう一つは、本人に告げて、残り少ない余生を有意義に生きてもらいたいというものです。
実際癌の宣告を受けながらも、自分のやり残した仕事を全て片付け、大往生ともいうべき感謝をもって亡くなった人もいます。
しかしその正反対に、癌の宣告によるショックで自殺してしまった例もあります。癌を告げるべきかいなかは、ただ一筋縄ではゆかない問題をかかえています。
余生があと数カ月しかないとしたらどのように生活するかは、各人の人生価値観によるでしょう。
筋ジストロフィーという病気があります。筋肉が不明の原因で変性を起こし、重症例では20才くらいまでしか生きることのできない病気です。自分の病気を知ってしまった小学校5年の子供が果して何と言ったのでしょうか。
「この病気を知った時、よけい学校に行こう、しっかりやろうと思いました。それぐらいしか生きられないのなら、大切に生きようと思ったのです。」
小学校の児童でさえ、筋ジストロフィーという重荷を背負いながらも、生命の価値を認識しているのです。
このようにみてくると、人生を考えるためには、“生命とは何か、生命の価値とは何か” という問題を解決することが重要であることが理解できます。
「生命とは何か」という人類共通の疑問に解答を与えてきたのは、科学が発達する近代以前までは、主に哲学・宗教でした。従って、その内容に思弁的なものが多かったのも当然のことといえましょう。
しかしながら、17世紀にいたってCell(細胞) の名付け親たるロバート・フック(R.Hooke) によりコルク薄片で細胞が発見されてから、生命の基本として細胞が注目されるようになりました。
さらに、1865年のメンデル(Mendel)による遺伝のしくみに関する基本的法則の発見にはじまり、遺伝子、染色体、DNA と生体の遺伝についての新発見がなされるにつれ、科学が生命の謎の解明の、急先鋒に立つようになったのです。
最近では、Life Science(生命科学) ということばが、良く叫ばれるようになりました。
これは、約40年前から米国で起こったもので、それまでの生物学が、生物の微細な個々の記載を重視し、学問のための学問と化しており、現実の社会から遊離する傾向が強かったため、生命の特性を統一的に理解し、人間の生活を豊かにする科学として生命科学が登場するようになったのです。
三菱化成生命科学研究所々長の江上氏は、生命科学を「生命一般を理解し、その上に立って人間の生命の特性を認識し、それに基づいて人間が豊かで心地よい生活を営むための方途を探求する科学」と定義づけています。
哲学・宗教は余りにも思弁的すぎ、生物学は学問のための学問と化しています。生命科学は、これらの諸欠点を補填し、未来の人類に大きく貢献することと期待されています。