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第20話 記憶なんかいらないぜ

 村上裕尊(むらかみひろたか)


 目立つことのないごく平凡な名前。


 あだ名はそのままヒロか、タカ。


 東京都心まで電車で三、四十分の住宅地で生まれ育った一人っ子。


 それが俺である。




 俺は……


 特に何ということもない人間だ。


 改めて自己紹介しろと言われても困ってしまう、そんなつまらない人間。


 あえて言うのならば……格闘技マニアだろうか。


 小学生のころは、週二回、体育館で空手を習っていた。


 中学生のころは、剣道部と柔道部を掛け持ちした。


 その後はバイトして金を貯めて、マイナーな総合格闘技系の道場に通ったりもした。


 なんて言ってしまうと、体育会系の暴力的な人間とでも勘違いされてしまうかもしれないが、うちの本棚を見れば誤解であることはすぐわかるだろう。


 つまり……なんていえばいいかな、実のところ漫画やゲームに影響を受けて武道を始める人間というのは意外と多いものなのだ。


 同業者(・ ・ ・)なら知っているかもしれないが、剣道部ってのはそういう奴らにとって意外と居心地のいいたまり場だったりもする。顧問がいないあいだに、漫画で見た必殺技の習得に血道を上げたりしてな。


 俺がどんな人間なのか、だいたいわかってきたかな?


 そんな人間なので、むろん、どの競技ももれなく中途半端となり、大会等に出場しても好成績を残すことは一切なかった。


 唯一、かろうじてものになったと言えるのは、柔道くらいだろうか……


 なぜって柔道は体重別の競技だからね! 体格の差が不利にならないんだ。


 ちなみに柔道のジュニア選手だったころは、大会で一番軽い五十五キロ以下の階級に出場してたりしていが、これはあくまで痩せていたからである。マジだって。当時の身長は……記憶が戻ったのになぜかこれだけ思い出せないな、なぜか。




 あの日のこと。


 正確な日時は思い出せないが、金曜日だったのは間違いないだろう。


 俺は火曜日と金曜日の週二回道場に通っており、ちょうど週末の稽古に行くところだったからだ。


 駅のホームでのことである。


 俺は電車が来るのを待っていた。


 少し離れたところにベビーカーの女性がいた。


 近ごろはベビーカーを街の邪魔者扱いするような少子化社会の守護者がいると聞いているが、少なくともその女性に文句を言うようなやつはいなかっただろう。――お腹に二人目がいる様子だったからな。もしかしたら産婦人科の帰りだったのかもしれない。


 悲劇が起きたのは、ちょうどホームに電車が入ってきたときだった。人の波に押されたかなにかして……ベビーカーが線路に落ちてしまったのだ。


 こんな絶体絶命の重大インシデントに遭遇した場合、みなさんならどうするだろうか。


 俺の場合は――凍り付いた。


 目の前でこんなことが起きるなんてとても信じられず、突然のことに身体を動かすどころか、なにかを考えることすらできなかったのだ。


 それは周りの連中も同じだったらしい。


 みんな呆然と迫ってくる電車を見つめている。


 まるで時が止まったかのようだが、冷酷にも時間はどんどん進んでいく。


 最初に動いたのは母親であった。身重の身体で線路に飛び下りようとしたのである。


 気づいた運転手がけたたましく警笛を鳴らした。


 電車はすでにホームに入ってきており、余裕などまったくなかった。


 このままでは母子共に死ぬしかない。


 近くにいたOLさんが母親を引き留める。


 それを見てようやく俺は呪縛から解き放たれた。


 線路に飛び降りる。


 まともに足下の確認もしなかったため、枕木と石に足を取られて転んでしまう。


 ベビーカーは線路の真上で横倒しになっていた。


 赤ん坊の泣き声が確かに聞こえた。


 電車はもう目の前まで来ている。この場合の「目の前」は逃げる余裕がないほどの距離ということである。


 俺は全力でベビーカーを押して線路脇にはじき飛ばした。


 そして、衝撃。身体を持って行かれるようなすさまじい衝撃。それが最後の記憶。


 疑問の余地はなかった。


 疑いようもなかった。


 俺は、あのとき、あの場所で、死んでしまったのだ。




 ――気づいたら涙が出ていた。


 今の俺はタフなマッチョ男ではない。


 記憶と共に弱い俺が戻ってきた。


 後悔があった。


 あのとき、俺は固まってしまったのである。


 とっさに動けず固まった。


 動揺と躊躇。


 それが俺の身体を止めた。


 もし、何も考えずに飛び込んでいたら、死なずに済んだかもしれない。


 何かをなした上で生き残れたかもしれない。


 今となってはまったく無意味な仮定だ。


 しょせん俺は中途半端なことしか出来ず、その結果、死んだ男。


 それでしかない。


 でも、こんな俺にだって残していった人がいるんだ。


 両親は俺が死んで悲しんでいるだろうか。


 親を残して先に逝ってしまうなんてとんだ親不孝ものだ。


 後悔と情けなさで俺は泣き続けるしかなかった。


 気がつくと、リッシュが俺を包み込んでいた。


 普段何を考えているかわからない彼女であるが、このときは体温が伝わってきた。


「なあ……、リッシュ」


 感情の波が少しずつ収まってくると、俺は口を開いた。


「はい」


 静かに俺の頭を抱えていたリッシュは顔を上げる。


「少し……だけつらいんだ。過去の記憶ってやつがさ。考えても仕方ないことを延々と考えちまう」


「はい」


「だから、しばらく、俺の記憶を預かっててくれないか」


「しばらく。いつまでですか」


「……野蛮ってのを撲滅して文明ってのを取り戻すまでだ」


 そうすれば俺は戦い続けることができるだろう。


「わかりました。ただし――半分だけです。あなたの名前のうち家名だけを封印し、私のものとします」


「半分……? なんで半分なんだ?」


「こういうものは、互いに半分ずつ背負い合うものです」


「おまえの半分はなんだ」


「この世界」


 きっぱりと言い切るリッシュ。


「そりゃ重すぎる」


 俺は笑わざるを得なかった。


 たとえ二人でも背負うのは大変だ。


 世界と名字じゃ釣り合わないぜ。


 だが、まあいい。


「OK、半々だ」


「いいですね」


「ああ」


 リッシュが俺の額に触れた。


「私は地母神たるアヴルナックの司祭にして、翡翠門は第七十九代の門徒、第一呪術士リシュネイル・ブランジェム・ウールバード。あなたの家名をもらいましょう」


 そのとたん、俺の記憶が、いや……俺の存在そのものがどこかにしまい込まれていった。


 それと同時につらさと悲しみも消えてなくなる。まるでそんなもの最初からなかったかのように。


 今の俺は無敵の戦士だった。


 もう名字を思い出すことはできなかった。


 どこで生まれ育ち、どんな親に育てられたのかも。


 それはしばらくのあいだ必要ないものなのだ。


 だが、下の名前はわかる。


 俺がどんな人間で何をしたいのかはわかる。


「行きますよ、ヒロタカ」


 リッシュは俺の手を引いた。


 第2.5部に続きます。

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