学生side: 早弥/エラーコード
店内の人々が固唾を呑んで見守る中、怪人達は早弥達の元へ歩み寄ってテーブルを指さした。
「すみません。ちょっとこの辺り退いてもらって良いですか?」
早弥達が訝しんで怪人達を見つめていると、怪人の一人が重ねて言った。
「すみません。ご協力お願いします」
良く分からないまま、早弥達はその場から引き下がる。
すると怪人の一人が両手を前に突き出して、後ろに退がれのジェスチャーをした。
「あの、もうちょっと後ろに行って下さい」
その怪人の背後では他の怪人達がせっせとテーブルを片付け始めている。
法子達は更に退がり、店内の客達は皆壁際に寄る。しばらくするとテーブルも片付けられ、二階の中央に大きな空間が出来上がった。その空間に怪人達が呪符を貼っていき、やがて一人の怪人が端末に口を近づけ言った。
「はい、オッケーです。お願いします」
突如として中央の空間に人間の上半身を模した天井に届きそうな程の巨大な人形が現れた。四角いブロックを組み合わせ、頭と目と口と体と腕という最小限の要素のみで出来た、まるで小学生の不出来な工作の様なフォルムのそれは、何故か両腕にクリームパイを持っている。
いつの間にかマイクを持った怪人が人形に手を向けて声を張った。
「お集まりの皆さん、こんにちは!」
それに合わせて周りの怪人が甲高い奇声を発する。
マイクを持った怪人が更に続けた。
「えー、我々は魔検による新たな魔術社会を認めない魔術師です。彼等は技術公開という名目によって魔術を零落させています。これではいずれ魔術は神秘を逸し、その力を失ってしまう。よって我々は魔検に対する抗議活動として、この場所でパイ投げをさせていただきます」
何で、というその場に居る客全員の頭に浮かんだ疑問等露知らず、怪人は手を上げた。
「それでは」
「ちょーっと待った!」
怪人を遮る様に声が上がり、その場に居る全員の視線がその声の方向に集まると、続いて口上が響き渡った。
「正義のヒーロー、ノリコ推参! あなた達の迷惑行為を許しません!」
それを聞いた怪人は一瞬固まったが、すぐに大声で笑い始めた。
「ははは! 現れると思っていたぞ、ヒーロー!」
怪人の叫びに合わせて、ノリコに向けて人形が凄まじい勢いでパイを投げた。べちゃりと湿った音がしてパイがへばりつく。
ノリコは顔の前に翳してパイを防いだトレイを下ろし、トレイの上からへばりついたパイを引き剥がすと、マイクを持った怪人へ向かってパイを投げつけた。顔面にパイを受けた怪人はそのまま背後に倒れ、地面に叩きつけられる。一瞬、その場の時間が止まり、その後怪人達が何処からともなくパイを取り出してノリコを敵と見定めた。
そんな光景をぼんやりと眺めていた早弥の心に突如として、一刻も早くこの場から逃げなければならないという恐怖感が湧き上がってきた。一階へ続く階段を見ると、近い者達から順番に逃げ出していた。それに続かなくてはならないという恐怖が更に強くなる。だが早弥と階段の間にはパイを持った怪人達や巨大な人形が居て、逃げる事が出来ない。それを確認した瞬間、早弥はどうしようも無い衝動に突き動かされて、テーブルを倒して盾とし、這いつくばって陰に隠れた。見ると他の人々も同じ様にテーブルを盾に隠れて居る。皆が画一的な逃避行動を取っていた。きらりとまるで雪の降っているかの様に辺りの空間が煌めいている。細かな粒子が辺りを舞っていると気が付いた時には、パイ投げが始まっていた。
飛び交うパイが店に満ちた。
止まる事の無いパイの乱舞の中、ノリコの笑い声が響いている。実に楽しそうに笑っている。怪人の奇声も混ざっている。時折パイのぶつかる粘性の音が聞こえてくる。時たま盾にしているテーブルにパイが当たる。
テーブルを立てにしている為、ノリコの姿は見えないが、見えなくとも伝わってくる。今ノリコは、本当に楽しそうに怪人達とパイ投げをしているのだと。聞こえてくる音はどう聞いても、楽しそうに遊んでいる様にしか聞こえなくて、早弥には怪人達が悪者なのか、テロリストなのかどうか分からなくなった。下らない思いが湧き上がってきた。
緊張している自分が馬鹿らしくなって力を抜き、何となく店内の騒ぎに耳を済ましていると、ふと水流の音が聞こえた。振り返っても壁しか無いが、確かに壁の向こうから水の流れる音が聞こえてくる。辺りを見回すと、少し離れた場所にトイレへ向かう通路が合って、どうやら水の音は壁越しにあるトイレから流れる音の様だった。
誰かが隠れているのだろうか。
その方が安全かもしれないと、早弥が考えていると、通路から扉の開く音、それから足音が聞こえ、最後に声が聞こえてきた。
「誰? うるさいの」
囁く様な小さな声。子供の声。憤慨した様な声音。早弥は思わず息を呑んだ。
「うるさくしちゃ駄目なのに」
何も知らない子供がトイレの中から出てきた。そしてやってくる。この凄まじい勢いでパイの飛び交う中に。幾らクリームで出来たパイだからって、恐ろしい速度のパイに当たればただでは済まないだろう。そんな中に何も知らない子供がやってくる。
早弥は鳥肌が立つのを感じ、通路から出てくるであろう子供を押し留める為に、子供の声が聞こえてくる通路へ這って向かおうとした。だが既に遅く、早弥が一つ手を前に進めた時、通路から簡素で真っ白なワンピースを来た子供が恐る恐るといった様子で現れた。
「何でみんな変な事してるの?」
その瞬間、早弥の脳に嫌な予感が最大限の警鐘を鳴らし、同時に背に怖気が走り、慌ててパイの飛び交う店内を見回すと、丁度パイの一つが女の子に向かって投げられていた。だが今から跳びついても庇える距離には無く、早弥は思わず絶叫して自分の手の甲を思いっきり引っ掻いた。
その瞬間、早弥の魔術が発動し、早弥の体が女の子の前に転移する。女の子の盾になって、強く目を閉じてぶち当たる瞬間に身構えると、目を閉じた闇の中で衝撃が走った。
突き飛ばされた早弥は倒れこんで、自分の元居た場所を見ると、ライダージャケットに口元をマフラーで覆ったヒーローが滑りこむ様な体勢で、子供の前に足を伸ばし、その足の甲の上にパイを載せていた。
早弥はその姿に見覚えがあって、思わず呟いていた。
「溝内?」
溝内はパイを蹴り捨ててから、女の子を掴みあげると、店中を飛び交うパイを器用に避けながら、途中で早弥も抱え上げて、テーブルの盾の陰に女の子と早弥を隠した。
助けてもらった早弥が嫌々ながらも礼を言おうとすると、溝内が顔を近づけてきたので、思わず口を噤む。
「ごめんね、早弥ちゃん」
どうして謝られたのか分からず、早弥が混乱していると、溝内は立ち上がり、言った。
「ま、とりあえず、この騒ぎを収めてくるから、そこで待ってて」
見上げる早弥に対して、溝内が微笑みをくれる。
「愛してるよ、早弥ちゃん」
「黙れ。死ね」
呆然とした早弥が反射的にいつもの調子で答えた時には、既に溝内の姿は消えていた。
数秒して、唐突に店内が静まり返り、不思議に思って早弥がテーブルから顔を出すと、法子が満足気な表情で何処かに電話を掛けている。更に部屋の中央で、溝内が口元が隠れているにも関わらずはっきりと分かる程の喜悦に満ちた表情を浮かべて、手に持ったパイを倒れ伏した怪人の一人の顔面に塗りたくっていた。残りの怪人達も皆、床に倒れている。
早弥はテーブルの陰から身を出すと、溝内に向かっていった。
「流石、どS王子」
「あ、酷いなぁ、その言い方。傷付く。一応、助けたんだけどな、俺」
「それについてはありがとう」
「あら、素直」
「助けられたのは、一生の不覚だけど」
「やっぱり素直じゃない」
溝内は残念そうに言って、怪人にパイを塗りたくるのを止めると、早弥の下へと歩んできた。
「こんなにも愛してるのになぁ」
そうして大仰に溜息を吐く。
「俺に告白されて落ちなかったの、早弥ちゃんだけだよ。俺、格好良くない?」
「他の人達は見る目だけしか無かったんでしょ?」
「格好良いのは認めてくれるんだ。俺、早弥ちゃんのそういうところ好き」
「私は溝内、さん、のそういう軽いところが嫌い」
溝内が口に手の甲を当てて酷くおかしそうに笑い出す。早弥は何となく何かに負けた気がして不機嫌な思いで顔を背けた。すると向いた先に法子が居て、電話を掛け終えた法子はこちらに向いて笑い掛けてきた。
「ノリ君、来てたんだ」
「どーも、ノリコちゃん。犯罪者捕まえたし、何処か食べに行かない?」
「将刀君も一緒なら良いよー」
「あはは、つれないなぁ」
法子と溝内の二人が仲良くしている様子に何となく嫌なものを感じて、早弥が目を据わらせていると、唐突に辺りから拍手と歓声が起こった。辺りを見回すと、法子と溝内を遠巻きにして、店内の人々がヒーローに対する拍手と賛嘆を送っている。拍手している人々は二階でテーブルの陰に隠れていた人達と、それに一階に逃げていた人達だ。二階があんな状況だったのに、助けようともせず、一階で興味深げに二階の様子を気にしていたに違いない。そうして二階の状況が収まると、一安心とばかりに様子を窺いに来たんだ。その野次馬根性が醜く思え、何だか腹がたった。盾にされていたテーブルが次々と立ち上げられて、店内が元に戻っていく。
拍手に曝された法子は照れた様に笑いながら、手を降ってくる人々に向けて手を振り返し、溝内は早速女性達の傍に寄って何か話している。そのお気楽な様子を見ていると早弥の中の苛々は更に募っていく。
苛々とする中、拍手の音は鳴り止まず、人々の賛辞が次々に投げられて、法子はそれに対して恥ずかしそうに応え、それを見ている早弥の苛々が更に更に膨れ上がっていく。
やがて早弥の苛立ちは、法子が「ヒーローとして当然の事をしたまでですよ」と宣ったのと同時に、爆発した。
「おい、調子のんな、法子!」
その瞬間、店内が一気に静まり返り、物音一つしなくなった。法子が驚いた様子で見つめてくる。何も理解していなさそうなその表情に早弥は益々苛立った。
「あんたに誉められる資格なんか無い癖に!」
法子が口を引き結んで悲しげに後退る。
周りの人々の中から誰かが言った。
「何言ってるんだ。そのヒーローは私達を助けてくれたのに」
何も分かっていない。
見れば、周囲の群衆は皆早弥に対して批判的な目付きをしている。法子は救いを見出した様に、群衆を見ている。溝内が興味無さそうに脇の女性達に話しかけている。
早弥の苛立ちが更に募る。
法子を見据えて更に詰る。
「分かってて、ここでテロがある事分かってて、黙ってた癖に!」
群衆の目が驚きに見開かれ、一斉に視線が法子へ集まった。法子は恐ろしげに辺りを見回してから、俯きがちに言った。
「それはそうだけど」
何処からか非難の声が上がった。法子は慌てて振り向いて否定する。
「違う。違います。ちゃんと解決出来る事は分かってて。誰も傷付かないって事も」
しどろもどろに弁明している法子に向かって、早弥は更に追い打ちを掛ける。
「だったらさっきの子供はどうなんだよ!」
「さっきの?」
「気付いてすらなかったの?」
「え、その」
「さっき何も知らずにトイレから出てきた子供が怪我しそうだったんだよ! 幸い溝内が助けたから当たらなかったけど」
早弥は溝内を指さし、次いでトイレに繋がる通路を見た。しかし通路の辺りには既に女の子の姿は見えなくなっていた。親が連れて行ったか、怖くて逃げたか。どちらにせよ、さっきまで子供がそこに居て、パイにぶつかりそうになった事を、早弥ははっきりと覚えている。
周囲の非難の声が段々と高まっていく。早弥の主張を応援する声だが、先程まで助けてくれたと誉めそやしていた声達の、あまりの掌の返し様に早弥は更に苛立った。
「でも、結局助かったんだから」
「結局? ふざけんな! 一歩間違ってたら大変な事になってたかもしれないのに!」
「でも」
法子が言い訳を重ねようとしたが、声高に次から次へと向けられる非難の声に止められた。
非難の合唱に押し出され、早弥は吐き捨てる様に叫ぶ。
「人を助けようとしない、危険があった事すら気付けない。法子、あんたヒーロー失格だよ!」
法子が呆然として眼と口を開いて立ち尽くしている横を通り過ぎ、良く言ったと馴れ馴れしく触ってくる人間の手を払いのけて階段に向かい、一階へ下り、そのまま店を出た。
店を出て、肌寒さの残る春の陽気に曝された瞬間から、段々と頭に昇った血が下りて、後悔が鎌首をもたげ始める。
言うんじゃなかった。
最後に見た法子の表情を思い出す。
言い過ぎた。
たった今言ったばかりの言葉を反芻し、早速自己嫌悪に陥った。
いつもこうだった。
少しでも気に入らない事があると段々と頭に血が上って、最後は誰かを罵倒してしまう。そうして相手を完膚無きにまで非難した後、自分の言った事に後悔する。
自分の言った事がそこまで間違っている事だとは思わない。少なくとも法子がやった事は手放しで称賛される事では無い。けれど法子の胸を衝かれた様な表情を思い出すと、あそこまで言う必要は無かったとも思う。
いつもこうだ。罵倒だけじゃない。誰かと関わると、いつも決まって後悔する。あれをするんじゃなかった、あれをすれば良かった、ああ言えば良かった、ああ言うんじゃなかった。後悔ばっかりだ。
謝れば許してくれるだろうかと考えて、憂鬱な気分になる。法子はヒーローという仕事に誇りを持っている。それを否定する様な事を言ってしまった自分を、簡単に許してくれるとは思えなかった。
「ああ、どうしようかなぁ」
溜息混じりに放った言葉に、背後から答えが返ってきた。
「俺と一緒に遊びに行く?」
振り返ると、変身を解いた溝内の笑顔があった。
「ああ、溝内」
「元気ないなぁ。そうだ、丁度少し歩いた場所に、有名なビュッフェの店があるから、そこに行かない? 勿論、俺の奢りで」
いつも通りの人を零落させようとする言葉に呆れつつ、ふと気になる事があって溝内の言葉を無視して尋ねた。
「そう言えば、どうしてさっきあのお店に居たの?」
「勿論、早弥ちゃんの危機なら何処にでも行くよ」
そう言うだろうなと期待していた言葉を投げられて嬉しく感じつつも、溝内の言葉が本心でない事は分かり切っている。
「あっそう。で、本当は?」
「俺がああいう店に居るのは意外? もっと高級な店に行ってそう?」
「いや、全然意外じゃない。でも溝内は今日バイトでしょ? 魔検の。それなのにどうして? もしかして何か言えない事?」
「やだなぁ、早弥ちゃんに隠し事なんてした事無いよ」
「まあ、隠し事する程の仲でもないしね」
「実際、隠し事しないタイプだしね、俺。いつでもオープンだし」
「誰にでもね。それで? どうしてあそこに?」
「簡単な話で、お仕事の関係であの辺りに居ただけ」
「仕事?」
「そ。ヒーロー達にさっきメールが回ってきてさ。あの辺りに居る子供を連れ戻せって。でも休日にあの場所でしょ? あはは、子供何十人居るんだって言う話だよね」
「子供? メールって……今、ある?」
「メール? ほら、これ」
溝内の突き出してきた端末の画面に、早弥達の居たファーストフード付近の地図と、子供を探せという司令があった。
「そもそもどんな子供かも分からないんだよ? ほら、書いてある特徴なんて、見窄らしい格好で、女の子で、ある場所から居なくなったって、何処からだよって話だし。ま、ただの人探しって訳じゃないんだろうけど」
早弥は端末から目を逸らすと、早歩きになって呆然としながら歩き出した。頭の中が目まぐるしく動いて事態を理解しようと努めている。
魔検がヒーローに対して女の子を探せと司令を出している。
あの柴田というヒーローが連れていたナナという女の子の存在を思い出す。柴田が何と言っていたのかを思い出す。確かあの子は何処かの研究所から逃げ出してきたのではなかったか。そうして柴田はその研究所が魔検の管轄にある事を疑い、魔検に対して疑いを持っていたのではなかったか。
信じていなかった。だってそもそも柴田の言っている事が本当かだって分からないし、もし本当にナナが研究所で虐待を受けていたとしても、それを魔検が指示しているなんて思わなかった。その研究所が独断でやっていると思っていて、まさか魔検ぐるみでそんな事をしたなんて。
でもだったら、あのナナという子は何者だ。その研究所で酷い事をしていたとして、そんな事を魔検という組織自体が行なっていたのか。そんな事をする理由は。それに魔検が関わっていたにしても、子供一人を探すのにどうしてヒーローを動員する。魔検であれば子供一人を探す位、そう難しくないだろうに。溝内の様子からして事情を知らないヒーローを狩りだしている様だ。もしも何も知らないヒーローがナナを見付けたとして、ナナが虐待の話をすれば、ヒーローはナナを魔検に引き渡そうとはしないだろう。魔検の非道を喧伝する可能性も高い。それなのに。そこまでしてあのナナを見つけなければならない理由があるのか。それ程までに重大な何かをあのナナは握っているのか。
はっきりとはしないけれど、早弥は何かまずい状況に思えた。何か大きな渦の中に投げ込まれた気がしてならなかった。友達であるアイナが、柴田とナナを匿うと言っていた。まずはアイナに警告をしておかないと。
「じゃあ、私、用事あるから」
三叉に差し掛かり、溝内が左に曲がろうとしたので、早弥は右に曲がりながらそう言った。
「え? 一緒に遊びに行かないの?」
「うん、用事あるから、ばいばい」
取り巻く事態に対して不安に思うし、誰かと一緒に居たかったけれど、魔検に所属している人間と一緒居るのは怖かった。アイナへの電話を聞かれるのもまずい気がした。
「そっちの道に用事?」
「そう」
早弥は早く離れたい一心で、適当に答える。
「そっちラブホしか無いけど」
溝内が笑いながらそう言ったのも聞き流す。
「そのラブホに用があるから」
心ここに在らずで適当に答えた早弥は足早に右へ曲がり、端末を取り出して住宅の立ち並ぶ道を進んでいく。
三叉路の真ん中で立ち止まった溝内が早弥の背を真剣な表情で見つめている。