ヒーローside: バタフライ/Green, Black and Blue
男は蝶になりたかった。
悠々自適に舞う姿に憧れて。
男は蝶になりたかった。
美しく舞い踊り、人々に笑顔を届ける、そんな蝶に。
助けて欲しくないヒーローランキングで三位を取ろうとも。
下の娘に今すぐヒーローを止めてくれと言われても。
上の娘からはまるでヒーローなんてしていない様に扱われても。
男は蝶になりたかった。
ヒーローであり続けたかった。
それを理解してくれたのが妻。
自分の夢を好きに追う様に後押ししてくれた。今までずっと。
どんな苦境に立たされても支えてくれた。今までずっと。
だから男は蝶で在り続ける。
これからもずっと。
「美味しいか」
「美味しい」
ナナが無表情でそう言ってくれたので平治は安堵する。
服を買い与えた時は散々嫌がって泣かれた。服を着替えたくないと駄々をこねられ、周囲の突き刺さる視線に耐えつつ、何とか着替えてもらう事に成功し、本当に心身共に疲弊した。
だからこうして人心地ついて、ナナも落ち着いてくれた事で、ようやく心に余裕が出てきた。
「そうか。けどどうして、さっきから卵ばっかり食べてるんだ? 本マグロが食べたいって言ってただろ」
勿論、そちらの方が平治にとってはありがたかったが。
「天然極上本マグロは美味しくない。でも卵が美味しい」
あんまりな良い様に、気になって板前の顔を見ると苦笑していた。
「ヘイジ蝶は食べないの? 卵要りますか?」
「いや、俺は大丈夫」
「そう」
ナナは平治から目を逸らすと、また卵を食べ始めた。
次から次へと卵を頬張り咀嚼し飲み下していくナナを眺めながら、平治は息を吐く。何だかのんびりと平和な時が過ぎている。このナナという女の子は実際のところただの家出なんじゃないかと思う位に。
「どうしましたか?」
ナナが突然こちらを見て問い尋ねてきた。
「手が震えている。お薬を飲み過ぎましたか?」
平治は思わず自分の手を見つめた。確かに震えていた。
当然だ。幾ら今目の間でのんびりとした時間が過ぎていようと、ヒーローの勘が間違いなく告げている。事の重大さを。今までに無い大きな山、ともすれば社会を揺るがしかねない巨大な事件だと告げている。
手の震えは社会全体を巻き込みかねない巨悪と戦う事に対する恐怖か武者震いか。
「おかわり」
平治がナナを見ると、ナナは再び卵を幾つも受け取って口に運んでいた。平治がもう一度自分の手を見ると、震えが大きくなっている。あるいはこうして目に見える形で増えていく支払いに怯えているのかもしれない。
月二万円というお小遣いを遥かに超える支払いが要求されるだろう。払うだけならクレジットで払えるがそれを請求された際に妻から何と言って叱られるか。ヒーロー活動の一環として認めてもらえるだろうか。
妻の事を思うと手の震えが強くなる。そう、もしかしたら家族に手が及ぶ可能性だってある。妻は結婚した時点で覚悟していると言ってくている。けれど子供達はどうだろう。いや、妻も口では覚悟していると言ったって、実際に危機に遭ったとしたら。いや、例え本当にそれを受け入れてくれたとしても、自分が認められない。家族に失う事になったとしたらその時は、自分の選択が正しかったと胸を張って言える自信が無い。
「たいしょー、おあいそ」
ナナの声に顔を上げると、ナナは満腹そうに体を反って、板前に顔を向けている。板前がこちらを窺って来たので、平治は手を上げて支払いを済ませ、ナナと共に店を出た。
「美味しかった」
満足そうにしているナナを見て、平治はふと思う。
それで、これからどうすれば良い?
何となく自分に酔いしれてナナを保護し服を買い与えお寿司を食べさせたが、これから先どうすれば良いのか分からない。勿論、追手を追い払いナナの逃亡を幇助するという漠然とした方針はあるが、例えば、いつまで手助けをすれば良いのか、何処に匿えば良いのか、そういった具体的な考えがまるで無い。
今、泊まっているビジネスホテルに匿うのはまずいだろう。とても二人入れる程広くない。だったら何処かホテルに、というのもまずい。もしも追手が、魔検、あるいはそれと同じ位大きな組織であれば、間違いなく足が付く。それを言えば、ビジネスホテルも同じで、というよりこうして外を歩いている事すらまずいかもしれない。いつ何時、追手が襲ってくるか。
だとすれば何処か人里離れた場所に?
ナナを見る。無表情だがあどない顔でこちらを見つめ返してくる。
出来る訳が無い。
今までずっと何処かの研究室に入れられて非道な実験を受けて、ようやく外に逃げ出して外の世界に希望を抱いているであろう子供を、今度は何処かの山奥に押しこむなんて出来る訳が無い。
ナナが首を傾げ口を開いた。
「怒っていますか?」
「え? いや」
「やっぱりさっき卵食べたかったですか?」
「そんな事無いさ」
平治はナナの頭を撫でる。
最終的には追手を諦めさせれば良い。でもその為には追手達が何者なのか知らなければならない。
「ナナちゃんは第二研究所から来たんだよね?」
「逃げて来ました」
「じゃあ、そこは誰に運営されてたか分かる?」
「うんえい?」
「その、つまり、どんな人達が居たのかな?」
「友達とか白い服を着た人達」
「その、例えば、名前とか」
「いちとにとさんとよんとごとろくとはちときゅうとじゅうとしゅにんさんとおいとのぐちとおまえとそこのと」
「ああ、うん。分かった。ありがとう」
予想はしていたが、ナナはあまり内実を知らない様だ。
手がかりだ。手がかりが欲しい・
「その第二研究所って何処にあるのかな?」
平治が尋ねると、突然ナナが身を引いた。
「もしかして連れ戻そうとしますか?」
平治は慌てて首を横に振る。
「いや、しないよ。ただナナちゃんを逃がす為には場所を知っておかないと」
「そうか。でもすみません。知らない」
「そうなの? でも何処から逃げてきたとか」
「箱の中は外を見られなかったから知らない」
荷物の中にでも紛れて逃げてきたのだろうか。
「そっか」
とにかく知らないのでは仕方が無い。
第二研究所、幾らなんでもこの言葉だけでは、どんな敵なのか分かり様が。
その時、着信が入った。
端末を取り出すと、見知らぬ番号から掛かって来ている。
全く見知らぬ番号からこのタイミングで?
背筋に怖気が走った。偶然だとは思えない。
追手だろうか。
何の為に。
平治は息を呑んで、回線を繋げる。
だがこれはチャンスだ。向こうから情報を得る為の。自分は網に囚われる餌じゃない。大空を優雅に舞うヒーローだ。ヒーローにとってこれはチャンス。捕食者を撃滅する為のチャンス。
そう自分に言い聞かせながら、平治はゆっくりと粘着く口を開いた。
「もしもし」
電話の向こうから女性の声が聞こえてくる。
「あ、すみません。私、魔検のノリコっていうヒーローなんですけど、御存知ですか?」
その瞬間、平治は冷水を浴びせられた様な心地がした。
知っているか、だと? ああ、知っている。自分だけじゃない。きっと日本中の人々が知っている。ずっと昔から。
十年前のこの町で起こった大事件を解決して以来、今日までの間、様々な事件を解決し、人々の賞賛を浴び続けているヒーロー。数年前の人間世界と魔界の和平調印式でも警護のメンバーに選抜され、ついこの間も魔検の落成式でコントを繰り広げてまた話題になった、実際に戦ったところは見た事が無いので実力の程は知らないが、常に目立つ事件に関わってきた為、知名度も人気も群を抜いた有名人。
助けてもらいたいヒーロー六位、魔法少女ノリコ。
平治の様な日陰者からすれば、光の側に居るノリコには嫉妬の念を禁じ得ないが、今はそれ以上に恐ろしかった。
まさか早速嗅ぎつけられた?
ナナに卵を食べさせこうして歩いているまでの間に、さっきの黒服達が催眠鱗粉から立ち直って後ろ盾の組織に電話をする時間は十二分にあった。もしも魔検であれば、素性は最初から割れている。嗅ぎつけるも何もない。それで電話を掛けて確認してきたのだろうか。
それならば向こうの目的は? 慈悲の勧告? 引き渡せとの連絡? 奪いに来るとの通告? あるいは殺害予告か?
その連絡員にノリコなんていう有名人を据えた理由は? もしもナナという存在が本当に人体実験の被験者であれば、相手にとっては隠しておきたい暗部のはず。わざわざこんな有名人が連絡してくるなんて。いや、それならそもそも連絡をしてくる必要が。引き渡す様、説得する為に対外印象の良いヒーローを? やましい事等欠片も感じさせない様に? だとしてもノリコは組織でも徳間達と並んでの武闘派だぞ? それが何も知らされずに連絡係を? それとも魔検の暗部に浸りきっているのか?
目まぐるしく考えながらも何ら結論を得ないまま、向こうから焦れる様な気配を感じて、平治は口を開いた。
「ああ、勿論知っているよ。有名ですから」
思いの外、自分の口から愛想の良い声音が出た事に平治は驚いた。口はこんなに乾いているのに。
「そんな。からかわないでください」
向こうから慌てた様な恥ずかしがる様な声が聞こえてくる。後ろ暗いところなどまるで感じさせない明るい様子。それが空恐ろしかった。
「それで突然どうしたんですか? この仕事用の電話に掛けてきたって事は何か事件が?」
「あ、そういう事じゃなくて。え? あのすみません、これって仕事用の番号なんですか?」
「勿論、魔検に登録している番号だからね」
平治は相手のとぼけた言葉に混乱する。一体ここからどうやって話を展開する気だ?
ふと別の人間の笑い声が聞こえた。向こうは一人じゃない?
勿論、魔検の要請で電話を掛けているなら、周囲に魔検の者が居たところでおかしくは無いが。
だが能々耳を澄ませると、沢山の人間のざわめきが聞こえてくる。オフィスというよりは、もっと人混みの様な。魔術で偽装している可能性も否定は出来ないが。
一体相手は何処に居る?
「ごめんなさい。とにかく連絡が取りたくて、丁度名簿に載ってたから」
「それは良いけど、どうして私に突然? 何か用事でしょうか?」
「いえ、あのすみません。用事という程じゃないんですけど」
焦れったい。一体いつになったら本題に入るんだ。どうせ向こうはこちらの状況を分かっているだろう。いっそこちらか水を向けて反応を見るか? 例えば第二研究所の事を聞けば何か反応が返ってくるだろうか。
「ちょっと良いかな」
「え? はい、すみません」
「君は」
第二研究所という単語を出そうとした時、突然向こうからノリコとは別の女性の声が聞こえてきた。
「ねえ、今喋ってる相手、この近くに居るよ」
呼吸が止まった。冷や汗が背を流れ落ちる。
端末越しの相手がこの辺りに居る? まさか。今ここは万人の往来する繁華街。こんな場所で機密めいた話をしようとしていたのか。
混乱する平治を余所に、向こうの二人が何事か話している。
「え? この近くに?」
「うん、同じ声が聞こえた」
平治が辺りに耳を澄ましても、相手の声は聞こえない。
「何処何処?」
「外から聞こえたけど」
店の中?
平治が急いで辺りの店を眺める。とはいえ人が多くて特定なんか出来そうにない。
辺りを見回しながら焦りだけが加速していく。
「あ、すみません、柴田さん。何だか近くに居るみたいで。良ければちょっとお会いしたいんですけど」
もしや最初からこれが目的か? 最初から顔を合わせる為に?
受ければどうなる? 断ればどうなる?
向こうは一体何処に居る?
混乱しながら辺りを見回し続ける平治の耳に、端末の向こうから呟き声が耳に入った。
「あ、居た」
頭上から視線を感じて、心臓を握りつぶされる様な恐怖を味わった。
平治が見上げると、ファストフード店のガラス張りの二階からこちらを見下ろす二人の女性が並んでいた。一人は二十代位の背の高い日本人離れした容姿。もう一人は高校生位の、いや中学生? いや、高校生か? 小学生では無いだろう、隣の女性よりも幼い容姿の女性が端末を持ってこちらに手を挙げている。
あれがノリコ? 変身していないから分からない。だが恐らくそうだろう。
見つかった。
まさかこんなに早く。
もしやこの場で殺しに来るんじゃ。
戦う?
こんなに人の居る場所で?
いや、それなら向こうだってここで混乱を起こすはずが。
だったら逃げるか?
だがもう見つかった。恐らく追跡専門の魔術師がこちらを捉えただろう。幾ら逃げても居場所が割り出せる様な魔術で。そうでなくとも、これから魔検相手にずっと逃げ続けるなんてそんな事出来る訳が無い。
その時、繋いでいた手を握られた。見下ろすと、ナナが手を握ってこちらの事を無表情に見上げている。何だかこちらの身を心配している様に見えた。
「ヘイジ蝶」
平治は思わず頷いていた。同時に頭がすっと冷静になる。
情けない。こんな小さな子に、それも守るべき対象に、心配を掛けてしまうなんて。
もう決めたのだ。この子を逃すと。だったら選択肢なんて無い。初めから戦うしか道は無い。何とだって。敵である限り。
平治がもう一度頷くと、ナナも頷き返してきた。
「次はこのお店の料理が食べたい」
平治は笑顔を浮かべて、ノリコの待つファストフード店を見上げてから、もう一度ナナを見つめた。
「え?」
ナナがもう一度、今度はゆっくりと言った。
「次はこのお店の料理が食べたい。美味しそう」




