ヒーローside: バタフライ/artificial roar
平治は目を覚ましてまず、触りなれない感触に違和を覚えた。起き上がって辺りに目を凝らすと物の配置がおかしい。まるでいつもの部屋ではない様な。寝ていたベッドに手を付いてそのあまりの柔らかに驚き、そしてようやく思考が覚醒する。そういえば、今日は他人のマンションに泊まったのだ。
ベッドのヘッドボードに手を這わせて電灯を点ける。視界一杯がまっさらな白に染まって、何度か目を瞬かせると自分の部屋が三つは入りそうな広々とした部屋が現れた。ほとんどの家具が取り払われて物が無い為、余計に広く見える。
窓の傍に寄ってカーテンを開け外を見ると月の灯りが冷たく照らす世界を一望出来た。まだ朝には随分と早そうだった。普段の自分なら起きない時間。早起きをしたのは緊張の為か、慣れない部屋の為か。部屋の所為だとすれば、貧乏性な自分に悲しくなる。項垂れて下を見ると、ベランダの床が煌めいていた。何か撒いてあるらしい。ここまで差を感じると溜息すら湧いてこない。
今、平治は他人のマンションに居る。アイナという昨日ファーストフードで出会い少し話しただけの女性から貸し与えられたマンションだ。部屋ではなく、このマンション全体がアイナの物だそうで、手放す予定だったから全室勝手に使って良いと言われた。ナナと共に魔検から逃れる為の隠れ家として。
昨日ファーストフードを出てアイナに連れられてこのマンションの玄関までやって来ると、入口の前にメイドの女性が立っていた。
恭しく礼をしたメイドに向けて、アイナは静かにこう問い尋ねた。
「痕跡は?」
「ほとんど。どうしても全てという訳には」
「そう。彼等の生活用品は?」
「残していてもおかしくない最低限の物だけは。ただあまり多くし過ぎると、疑われます」
「そうか。まあ、あまり神経質にならなくても良いのかもしれないけれど」
「そうですよ。何せ、戦争になったところで、魔検程度の組織であれば」
「でも人間は怖い」
「重々承知しております」
何やら物騒な話を終えたアイナが平治達へ振り返る。
「そういう訳だ。このマンションは君達の物、今日から自由に使ってくれて構わない」
「それは、この」
「さっき隠れ家に連れてくると言っただろう? このマンションを使って良い。どう使おうとも自由だ。篭り続けても一ヶ月は丸々過ごせるだけの食料だってある」
「それはありがたい。だが」
その時、マンションの中から更に大量のメイドが現れた・
「アイナ様! もう全部完璧です!」
「お疲れ! じゃあ帰ろうか」
いつの間にかマイクロバスが横付けされていて、メイド達は乗り込んでいく。最後にアイナが乗ろうとした時、平治は慌てて尋ねた。
「ちょっと待て。どうしてこんな。さっきも言っただろ? あんた等にまで迷惑が」
「さっきも言っただろ? 話を聞かされた以上、もう関わっているんだ」
「そう言ったって、ここまでしてもらったら、君達だって魔検に対してもう言い逃れが」
アイナは口角を釣り上げた。
「別に良いんだよ。言い逃れする必要は無い」
「だが今回の件と君との関わりが分かれば、まずいんだろう?」
「いいや」
アイナの言っている事がさっきと違うので、平治が訝しんでいると、アイナはおかしそうに笑った。
「困るだなんだ言っていたのは、全部嘘だよ。今回の話は非道な研究所があるというだけの話だろう? 勿論内実は酷い事なんだろうけれど、政治的に見れば対した話じゃない。ましてその被験者の逃亡を幇助したからって、そこまで厳しく追求される事は無いよ。そんな事をすれば、魔検と研究所に関わりがあったって示す事になるんだからね」
「いや、予感があるんだ。これは大事件になる。この町を揺るがしかねない程に」
「相手はたかだか魔検だろ? 一枚岩ですら無い組織だ。いや、例えそうでなく、もっと巨大な何かが関わっていようと変わらない。私は私のやりたい事をやるだけだ」
車の中から「よっ、アイナ様!」という声が聞こえた。
「はっきり言ってしまおう。私は君達を抱えておきたいんだよ。現在この町は非常に混迷している。先程もまた大規模なテロがあった、というのはさっき歩いている時に町中のディスプレイで見ただろう? 法子君が解決していたけれど」
「ああ、それは見た。あの巨大な戦艦の」
「そうそう。多分これからあんな事件がもっと増えていく。町を巻き込んで、更に大きな火種になっていくと私は思っている。それに対向する為の組織が魔検だけれど、そこに今回君達の様なきな臭い話が飛び込んできた訳だ。その辺りの情報を是非とも掴んでおきたいんだよ」
アイナの言葉に、平治の目が鋭くなる。
「まさかあんたもどこかのテロ組織の?」
「それは違う。私はあくまでも家だ。テイラー家の行く末を考えるに、この町の混沌は不都合でもあるし、好都合でもある」
「家? ああ、魔術の」
「そう、連綿と続く魔術の大家だった。昔はね」
平治の警戒心が更に上がった。
「そう言えば、ニュースで言っていたな。今この町で起こっているテロのほとんどは、魔検による魔術の急速な近代化に対して、隅に追いやられた伝統的な魔術師達が反抗しているのだと」
「私達の場合、事情は少し違うから、今回のテロとは関わりが無いけれどね」
「それを信じろと?」
「そうだよ。ここまで来て、信じないという選択肢があるのかな? いや、あるのだろうけれど、それを選んだその先が見えるのかい?」
反論しようとする平治に向かって、アイナはカードキーを投げた。
「まあ、どちらでも良いよ。こちらとしても、君達の動向を把握しておきたいだけだから、そこまで関わる気は無いし。言った通り、隠れ家を提供する以上の事をするつもりは、今のところ無いよ」
アイナは車に乗り込むと、平治の胸元を指差した。
「さっき番号は教えただろ? 直通じゃないけど、会社を経由して私のところまで繋がるはずだから、何かあったら連絡してくれ。それじゃあ」
「あ、おい」
平治は引きとめようとしたが、車は去っていった。
残された平治が呆然としていると、背後からナナの声が聞こえてきた。
「ヘイジ蝶、この建物良い匂いがする」
玄関の前で立ち止まっていたナナは自動ドアを触って何とか開けようとしていた。
平治が傍に寄ると、期待の込めた目で見上げてくる。
「早く入ろう! 良い匂いがする!」
何度も手を引っ張られるので、仕方なしにドアを開けると、ナナは嬉しそうに駆け入っていった。
足を踏み入れると、随分と手入れの行き届いた建物で、汚れが全く無い。ほとんど新築だった。これを手放してしまえる人間はどんな生活をしているのだろうと、虚しくなる事を考えていると、突然端末が鳴った。
見ると、妻からで、そういえばそろそろ妻が魔検の職場を出る時間で、きっと今日の夕飯が何が良いのか聞こうとしての電話だろう。これからしばらく外泊すると言ったら怒られるかなぁと思いつつ、平治はゆっくりと息を整えた。
結果として、平治の妻は快諾してくれた。しばらく外泊すると言ったら分かったと良い、事情を話してもしかしたら危険が及ぶかもしれないと言っても気にするなと言った。その為、今、平治はこの豪勢なマンションの一室に居る。
妻はいつでもヒーロー活動を容認してくれる。分かっていて結婚したんだと。他人に蔑まれ近所に陰口を叩かれようと、危険に巻き込まれようと、収入が少なくても、家庭が上手く行かなくても、それでも妻は笑顔で背中を押してくれる。ヒーローとして生きるあなたが好きだからヒーローとして活動して欲しい。だからそれを応援すると。あなたのお陰で魔検で働けているから、収入だって大丈夫だと。それはとてもありがたい事で、同時に胸が苦しかった。
どんなに活動を続けようと、ヒーローとしての自分の地位は地に落ちている。どれだけ活躍をしようと何故か人々からは気味が悪いと蔑まれる。娘達からも理解を得られない。いずれは皆分かってくれる等と考えながらここまで来て、結局誰にも認められない。ふと気が付くと、諦めかけている自分が居て、きっと自分は華々しく活躍する様な有名ヒーローの様にはなれないと分かっている。けれど妻の応援だけは変わらない。その期待が重圧となる。最近特に。きっと何処まで行っても妻の期待も応援も変わらず送られるだろう。きっとヒーローを辞めるまで。もしかしたらヒーローを辞めても、許してくれるかもしれない。
いや、そもそもヒーローを辞めた方が幸せになれる。ヒーローとして活動してきた実績から魔検で働く事はそう難しくない。それなりの待遇で迎えてもらえるはずだ。そうすれば生活は安定し、ヒーロー活動を毛嫌いしている娘達にも理解がもらえ、ヒーローとして働く事を馬鹿にする御近所さん達も認めてくれるに違いない。もう、逆恨みされて誰かに襲われる事もなくなる。そうなれば、全て解決して、きっと幸せな道を歩んでいける。百人に聞けば、百人がヒーローを辞めろと諭してくるに違いない。
それでもヒーローを辞める事の出来ない自分が居て、それが妻に申し訳なかった。どれだけ心苦しくともヒーローを辞める訳にはいかなかった。それを辞めてしまえば自分には何も無くなってしまうから。ヒーローとして生きてきたこの人生も、魔術を生業としてきた家系との繋がりも、そうしてもしかしたら妻からの愛も。全て失ってしまう気がした。
元々平治は連綿と続く魔術師の家系に生まれた。魔術師の家系とは言っても、ほんの小さな家系で、大きなコミュニティに所属していた訳でも無く、人の思考を操る粉末を作り出す、というたった一つの魔術を後生大事に秘匿し伝えてきただけの、何処にでもいる零細魔術家だった。それが百年前に行われた魔術の開陳を受けて、平治の祖父の時代から立場が変わった。零細魔術家と言っても、魔術を知っているというだけで持て囃される。祖父は教師として、父親は技術者として、人々の役に立つ姿を見て、平治もまた魔術によって人々の役に立ちたいと考える様になった。
丁度平治が高校を卒業した頃、魔検が生まれ、ヒーローという存在が現れた。魔術が発展するにつれて現れ始めた魔物という存在を専門に退治する治安維持員。現在程華やかなイメージは無く、魔物への恐怖もあって、ほとんど成り手の無いその職に平治は大学を卒業すると共に就いた。家族は反対したが、それを押し切って。その時後押ししてくれたのが、大学から付き合い始めた現在の妻で、その時から現在までヒーローを応援してくれる姿勢は変わらない。
警察を補助するのが主な活動であったが、近隣の人々から感謝され、警察署の中でも一目置かれる様になり、それなりに順風満帆な生活を営んでいた。
転機が訪れたのは、ある日、巨大な魔物が現れた時。警察もヒーローもまるで歯が立たないところに突如として現れた一人のヒーロー。数多の蝶を生み出し、一瞬にして魔物を包みあげて送還した光景に、自分の弱さを憎み、その強さに魅せられた。
平治はそのヒーローに憧れて、蝶を模す様になった。全身をタイツで包み、背にセロファンの羽を付け、生み出す粉末を鱗粉に見立て、そうして劇的な強さを身につけた。魔術は感情に左右される。憧れを糧に自己を変革した平治は、今までに無い強さを手に入れた。もう何者にも負けないだけの強さを手に入れ、そうしてそこから華々しく活躍するはずだった。
だが周囲の反応は頗る悪くなった。妻だけは理解を示してくれたが、他の人々は皆、その格好を止めろと言う。平治にはそれが何故なのか具体的には分からない。あるいは強すぎる力に恐れを為しているのか、あるいは蝶の様に戦おうとするあまり人々を救う事がおろそかになっているのか、あるいは蝶という姿がヒーローらしくないからなのか。試行錯誤を繰り返して好かれようとしているのだが、未だに何故突然嫌われ始めたのかは分からない。ただきっとヒーローを続けていけばいつまでも嫌われ続けるのは目に見えている。
嫌われ者の自分が人々を救えるのか。
そんな疑問が常に頭の中にこびり付いている。
その答えが一向に出ない為に、平治はとにかく目の前で起こる惨劇は必ず止め、救いを求めてきた者は必ず救いたいと思っていた。せめて自分の所為で周囲を巻き込みたくないと思っていた。
それが今崩れ始めている。これから決定的に崩れてしまう。
予感がある。
今回の事件は必ず巨大なものになる。
それを思うと自分が人々を救えるのかという不安が更に大きくなった。現に今、予感だけを胸に何の行動にも移れていない自分に苛立ちを感じている。
家族に迷惑が掛かるかもしれない。出会ったばかりの見ず知らずの人に、今こうして迷惑を掛けている。そうして隣の部屋で寝ているナナを救いたいが、これからどうすれば良いのか分からない。明日からは研究所を探し回る事になるのだろが、見つけたところでどうすれば良いのか、ただ単に潰せば解決するものでも無いだろう。この先どうすればナナを守れるのか、まるで分からない。
自分がこれからどうすれば良いのか。自分を取り巻くありとあらゆる事象に対して、どう行動して良いのか分からない。それが力を手に入れた代わりに与えられた哀れな自分だった。
溜息を吐いて、カーテンを閉めようとして、ふとベランダに散らばっている煌めきの大きさが、やけに不揃いな事が気になった。唐突に嫌な予感が湧き上がり、胸が締め付けられる。
窓を開けて、外に出てみると、ガラス片が散らばっている。震える息を吐きながらナナの休んでいるはずの部屋の窓を見ると、ガラスが全て割れ、窓枠がひしゃげて千切れていた。強大な力が部屋の中から窓に向かってぶつかった様な壊れ方をしていた。部屋の中から何かが逃げ出した様に。
隣にはナナが眠っているはずだ。ナナしか居なかったはずだ。それなのに一体何が逃げ出した。
口の中から無意味な声音が漏れ、おぼつかない足取りでひしゃげた窓へ向かう。
眠る前にはこんな事になっていなかった。窓が壊れていたなんて事は無かった。部屋の中から奇妙に獣の臭いが漂ってくる。真っ暗な部屋を覗きこみ、月明かりを頼りに辺りを探す。ベッドの上には誰も居ない。床の上にも何処にも穴の姿が見えない。
そんな訳が無い。さっきまで確かにナナが居たはずなのに。それなのに居なくなるなんてまるで。
中に入ると、獣の臭いが更に強くなった。まさか部屋の中に魔物が現れナナを連れ去ったのか。辺りを見回し、血痕の無い事を確認して安堵する。少なくともこの部屋で怪我をさせられたという事は無いらしい。
しかしそんな事あり得るのだろうか。魔物がこちらにやってくるのは偶然だ。魔物自身にとっても想定外の転移、事故の様なもの。それなのに突然この部屋に現れた魔物が誘拐なんてするだろうか。魔界との交流が増え、法が整備され、ほとんどの魔物が秩序だって行動する様になった。それなのに知能を有する類の魔物が誘拐なんてするだろうか。知能が無いのであれば、その場に居た女の子を怪我もさせずに連れ去るだろうか。
誰か魔術師の仕業か? だとすれば誰がやった。何の理由で。どうしてこの場所が。
自分の頭の中に繰り返し問いかけながらも、平治の頭の中には既に答えが出来上がっている。魔検という巨大な組織が頭の中にちらついている。
ナナはこんな誘拐等という非常手段に訴える必要がある程の重要人物だったのか。それだけの暗部であれば、もしもこれ以上首を突っ込めばどうなるのか分からない。首を切断されるかもしれない。
平治の動悸が早くなり、呼吸が荒くなる。
思い浮かんだのは家族の姿。もしもこれ以上進めば家族に危害が及ぶかもしれない。娘の姿が浮かび、妻の笑顔が浮かび。
平治はしばらく目を閉じて、唇を噛み、じっと立ち尽くしていたが、踵を返して窓を向いた。
全身タイツで背に安物セロファンの羽を貼りつけた小太りの蝶は、窓の傍まで歩み寄ると月夜を見上げた。月は夜の闇に良く映えていた。闇の中でも清く輝いていた。この場で逃げ出したら、きっと妻に二度と顔向け出来ない。
舞い踊る様にして、蝶は月夜へ羽ばたいた。助けを待つお姫様の下へ向かって。蝶の様に舞う一人の蝶の傍を、本物の蝶が一頭ひらめいていた。




